相沢先輩が転校する。
ここからいなくなる。
ひどく曖昧で、非現実的な話。
それでも時間は無常にも進んでいって。
着々と陸上部室から荷物を片付けていく相沢先輩の背中を見て、
それが現実なんだということを、私は嫌というほどに感じた。
冬の思い出
〜the
fifth days〜
部室の前に置かれる大きなスポーツバッグ。
・・・それは相沢先輩の荷物の入った鞄。
もう、部室の中に相沢先輩の名残はどこにもないんだろう。
それをただ遠くで見ている私。遠くでしか見れない私。
・・・あと二日しかないのに。
話したいこともある。言いたい言葉もある。
・・・伝えたい気持ちもある。
でも、離れるとわかってる人にそんなことをして、いざそのときになって傷つくのは自分自身。
・・・なんて、言い訳がましいか。それは。
でも事実でもあると思う。
だから、中途半端に触れるくらいなら距離を取った方が・・・きっと良い。その方が、多分つらくない。
「はぁ・・・」
今日はやけに寒い。
吐く息も真っ白。そのまま雲へと昇っていく。
「寒いな・・・」
身を突き刺すような寒さ。
・・・でも、それは私の心が過剰に受け止めているだけなのかも。
「はぁ・・・。今日は部活、来なければ良かったかなぁ・・・?」
もやもやとした気持ち。こんな感情を持て余すくらいなら、いっそ先輩が転校するまで部活をサボってしまおうかと真剣に考えてしまう。
見上げた雲は、どんよりと暗い。
天気予報では明日の午後辺りからまた雪が降るらしい。この辺りでは珍しい雪も、なぜか今年は大奮発だ。
・・・いつもなら雪を見てはしゃぐんだろうなぁ。雪、好きだし。
「・・・・・・帰ろっかな」
これ以上ここにいてもいろんなことで頭がぐるぐるいっぱいいっぱい。
とても部活動に集中できるとは思えない。
「・・・うん。やっぱり帰ろう」
理由なんてなんとでもできる。頭が痛いとか、風邪を引いたとか。
そうして顧問の先生のとこに行こうとした瞬間、私の目の前を一つの影が遮った。
「伊里那。こんなとこにいた」
「あ、夏燐・・・」
まったくもう、と息を吐いてこっちを見下ろすのは夏燐。
「そろそろ部活始まるよ。行かないと」
「あ、それなんだけど・・・、私、帰ろうかと思って」
「伊里那?」
「ちょっと頭痛くて。・・・ごめんね、夏燐」
そうして通り過ぎようとした私の腕を、夏燐は無言で掴んできた。
「か、夏燐?」
「伊里那。そんな嘘があたしに通用すると思ってるの?」
「え、そ、そんな、嘘なんて―――」
「伊里那」
振り向かされて、じっと瞳を覗かれる。
全てを見抜かれてしまいそうな瞳。耐え切れず、そっぽを向いてしまった。
「ねぇ、伊里那。本当にそれで良いの?」
「・・・なんの、こと?」
「先輩、明日のお別れ会でもうここからいなくなっちゃうんだよ?・・・・・・最後まで、なにも言わない気?」
「・・・こんなときになにを言うの?向こうに行ってもお元気で、とか?」
「伊里那。あたしは本気で言ってるんだよ」
「・・・・・・」
・・・そんなことは言われなくてもわかってた。
これでも夏燐との付き合いは長い。夏燐が本気で聞いていることくらい最初からわかってる。わかってるけど・・・、
「・・・無理、だよ。私がなにを言ったって相沢先輩の転校は変わらない。それどころか私がなにか言うことだって迷惑かも知れないし」
とつとつと喋る私を見て夏燐は一回大きく息を吐くと、私は肩に手を乗せられて強引に振り向かされた。
「・・・伊里那。なんでもかんでも無理って言うのは伊里那の悪い癖よ。この際はっきり言うけど、伊里那は臆病だ」
「・・・うん」
「なんでもかんでも理由をつけて逃げる。傷付くのが怖いから、無理だと決め付けて逃げ回る。・・・確かに、それも一つの手かもしれない。けど、そんなことで手に入れた平穏なんて嘘なんだよ。瞬間的な傷は確かに付かないかもしれないけど、それ以上に重い何かが心に圧し掛かってくる。・・・本当は伊里那にだってわかってるんでしょ?」
「・・・・・・でも、」
「でも、・・・なに?またそうやって理由をつけて逃げるの?」
「・・・・・・」
「傷付くのは確かに嫌よ。特に心の傷は痛いしね。・・・けど、伊里那。それよりもずっと苦しいんだよ、・・・『後悔』っていうのは」
「・・・・・・ってる」
「瞬間的な心の傷はいずれ時間が癒してくれる。想い出に風化してくれる。でも、後悔っていうのは逆に時間が経つにつれて肥大していくんだ。だからよけいにキツイ。それを伊里那は―――」
「わかってるよ!」
思わず、そんな大声が出た。
・・・しかも、なんでだろう。涙まで流しちゃってる。
「わかってるよ、そんなこと!後悔のほうがずっと痛いって言うことくらい、わかってる!でも、だけど、仕様がないじゃない!私は臆病で、弱虫で、自分ひとりじゃ何一つ出来ない弱い子で・・・」
「どうしてそうやって伊里那は自分のことを卑下するの!もっと自分に自信を持って―――」
「自信なんか持てるわけないよ!私の・・・どこに自信を持てって言うの?」
「伊里那には伊里那の良いところが一杯ある!だから、傷付くのを恐れないで!」
「そんなの無理だよ!」
「またそう言う!それじゃどんなときだって先に進めないじゃない!」
「無理なものは無理なんだよ!心の傷って、すごく痛くて苦しいんだよ!私がこの足を壊した時だって、ものすごく痛かったんだからぁ!」
瞬間、夏燐の顔が凍りつく。
あ、これ以上言っちゃいけない。
そう頭で思っていながらも、私の口は氾濫したダムのように止まることなく言葉を紡いでいく。
「私が、臆病な私が初めて人に自信を持てたのがこの足だった!でも、なのに神様はそれを私から奪っていった・・・!ひどいよ、どうしってって、何度も思ったよ・・・。だけど、私より足の速い人なんて探せば一杯いるんだからって、私の足なんてたいしたものじゃなかったんだからって、一生懸命誤魔化して、ここまで来たんだよ・・・」
「伊里那・・・」
「・・・それでもすごく痛かったんだよ。足がじゃない。心が、すごく痛かった。どんなに誤魔化しても、それで納得してくれるのは他人で、自分ではちっとも心の痛みが和らぐことなんてなかった・・・。あはは、当たり前だよね?だって誤魔化してるんだもん。そう思ってる時点でもう駄目なんだよ。種のわかってるマジックが面白くないのと同じ・・・、自分が誤魔化しだとわかってる時点でそれは誤魔化しでもなんでもない。ただの自己防衛なんだ・・・」
夏燐の瞳から力がなくなり、肩に置かれた手もゆっくりと沈むように落ちていく。
夏燐はその頃から友達だった。だから知ってる。私の足のことも。
―――発端は至って単純。ただの交通事故だった。
原因はむこうの居眠り運転。当たり所が悪かったのか、私の足は動かなくなってしまった。
・・・担当のお医者さんが「リハビリすれば歩くことくらいはできるだろう。でも走ることはもう・・・」そう言って顔を俯かせたのをいまでもはっきり覚えてる。
・・・私は、本当に、言葉じゃ言い表せられないくらいにショックだった。
だって初めてだったんだ。短距離走、人に自信を持っていられたものが。
市内でもトップクラス、学校でもすごいだのなんだのとちやほやされて、こんな私でも一つくらいは取り得があるんだって、すごく嬉しかった。
でも、そんな私の足が壊れてしまった。
・・・走れなくなってしまった。
あれ以来、私は極度に傷付くのを恐れた。
もともともあったけれど、さらに拍車をかけるように私は臆病になった。
そう。
だって心の傷はすごく痛い。
でも、なにもしなければ傷付くようなこともない。期待しなければ、傷付かなくてすむ。
足なんかに自信を持たなければ、私はあれほど傷付かなくてすんだのに。
「だから私は・・・なにも期待しない」
全てを当然のことと受け止めて、当たり障りなく過ごしていく。
そうすれば・・・、もう、二度とあんな思いはしなくてすむんだ。
すむ、はずなんだ・・・。
「この・・・馬鹿!」
と、唐突に温かい感触。
なにが、と思えば私は夏燐に抱きしめられていた。
「え・・・?」
「伊里那。・・・伊里那がすごく苦しいのはわかる。わかってる。でもね、伊里那。後悔は、絶対にしないほうが良いんだよ」
「・・・」
夏燐は「後悔」という言葉を嫌う。
なにがあったかは知らないけれど、昔になにかがあったらしいことだけは彼女を見ていて知っている。
いつもの明るい夏燐が、ずっと塞ぎこんで口すら開かなかったあの一週間。
・・・そのときの私はただ見ているだけでなにもできなかったけど、夏燐は自分一人で乗り越えていった。
強い夏燐。羨ましい夏燐。私の・・・親友の夏燐。
「私はずっと伊里那と一緒にいるけど、それは決して伊里那の足が速かったからとかそんな理由じゃない。伊里那が好きだからだよ」
「・・・夏燐?」
「伊里那の優しいところが好き。だって伊里那は心が傷付く痛さを知ってるから。だから人にもとても優しくいられる。人に安心感を与えてくれる。笑顔をくれる。安らいでいられる。そんな伊里那が私は好きで、私の大親友で、私の誇り」
更にぎゅっと、強く抱きしめられる。
「・・・だから伊里那。お願いだからそんなに自分を卑下しないで。自分を追い詰めないで。伊里那はとっても、こんなに良い子なんだから・・・!」
「夏燐・・・」
いつの間にか夏燐も泣いていた。
私のことを抱きしめながら、嗚咽を零して。
「どうして夏燐が泣くの・・・?」
「・・・悔しいのよ。伊里那になにもしてあげられない、歯がゆい自分が」
「そんなことないよ。夏燐はいつも・・・私に良くしてくれるもの」
本当に。なにもしてあげられないのはきっとこっちの方だ。
夏燐はジャージの袖で涙を拭き、こちらに顔を真っ直ぐに向けてくる。
「・・・いまなにも言わなければ絶対に後悔する。伊里那だってそれはわかってるんでしょ?」
「それは・・・」
「それとも伊里那は後悔しないの?言いたい言葉も、伝えたい気持ちもないの?」
「・・・」
「傷付くのが怖いから自分を偽るのはわかる。でも、偽りの自分じゃなにも動かないじゃない。それは・・・とっても悲しいよ」
「・・・夏燐」
無感動な私。
偽りの私。
それは傷を付けないためのカーテン。
・・・でも、カーテンをしたら外は何も見えなくなる。真っ暗だ。
うん。確かにそれは寂しくて悲しい。
・・・わかってはいたんだ。そんなこと。
「・・・お願いだよ、伊里那。恐怖心を乗り越える・・・勇気を持って」
・・・なにかを恐れて動かずにいれば、安心してそこにいられる。
でも他にも何もない。当然だ。だってなにもないから傷付かないでいられる。
そして動けば、傷付くかもしれない。
けれどなにかを得られるかもしれない。
・・・変われるかもしれない。
「・・・わかんないよ」
「伊里那?」
「頭の中ぐちゃぐちゃで、わかんなくなっちゃった・・・」
「伊里那・・・」
私はそっと夏燐から離れる。
「ごめん、夏燐。やっぱり私、今日は帰るよ・・・」
「伊里那!?」
驚きと落胆の表情を浮かべる夏燐に、私は慌てて手を振る。
「あ、ううん、違うの。今日一日使ってゆっくり考えようと思うんだ。・・・ね、だって言われたくらいで直るようならここまで悩んだりしないし。・・・うん。だから今日は考えてみるよ、たくさん。前向きに」
「伊里那・・・」
「私にだってわかってるんだよ。どっちが正しいことなのか、なんて。・・・要は、私がそれをできるかできないか、なんだよね。・・・うん、だから今日はお休み」
笑みを浮かべ、そのまま夏燐に背中を向ける。
夏燐ももう止めようとはしなかった。
鞄は・・・いいか。今日の部活動は午後からだからお弁当もない。他に特になにが入っているわけでもないから置いていっても構わないだろう。
このまま帰ろう。
先生に言葉をかけることすらいまは億劫だった。
帰るためにそっと踏み出す。
「伊里那、最後に一言」
後ろからの言葉に足を止める。そのまま振り向かず、
「・・・なに?」
一拍の間。そして、
「頑張れ、伊里那!」
それは見なくても笑顔だってわかるくらいに明るい言葉。
それは心からのエール。
少ない言葉の中に、敷き詰められた励まし。
「・・・ん」
だから頷く。強くはないけど、しっかりと。
私のことをすごく大事に思ってくれている、親友に対して。
☆ ☆ ☆
家に帰るとそのまま自分の部屋に直行して、着替えもせずにベッドに身を投げた。
考えることは他でもない、さっき夏燐に言われたこと。
『後悔だけは絶対にしちゃ駄目なんだ』
夏燐はきっと私と昔の自分を照らし合わせてるんだろう。
夏燐は後悔という痛みを身をもって知っている。
私は心が傷付く痛みを身をもって知っている。
「どっちも痛いよね」
それが瞬間的な激痛か、持続する鈍痛か。その違い。
なにかをすれば心に傷を。なにもしなければ後悔を。
どうせどの道傷付くのなら、なにかを得られるかもしれない方にすべきなんだろう。
・・・前向きに考えるなら、そうなる。
「後悔しないための一歩、かぁ・・・」
夏燐の言葉が胸に染み込む。
夏燐の想い。夏燐の心遣い。
・・・頑張ってみようかな、と思う。
「・・・うん。そうだよね。動かないと、・・・駄目、だよね」
淡く揺れる心の鼓動は少し温かい感じ。
これなら、うん・・・。もしかしたら言えるかも。
背中を押してくれた人のために。
後悔しないために。
「・・・よし、頑張ろう」
むん、とお腹に力を入れる。
全ては明日。相沢先輩がここにいる最後の日。
その最後のチャンスに、
―――告白、しよう。
あとがき
ども、神無月です。
さて、あと二話ですね。ラストスパート。
でも更新は一月を越えてしまいますな。
・・・まぁ、仕方あるまい。絶対に一月中には終わらせますから。