神魔戦記 第九十五章

                    「それでもお前を愛する」

 

 

 

 

 

 祐一はある手紙を読んでいた。

 それは二つの手紙。一つは建設依頼を頼んだ橙子からの返信だ。

 そしてもう一つは……あまりに予想外のもの。――それはクラナドの古河秋生・早苗からの手紙。

 内容は、娘である古河渚を引き取って欲しい、という旨だ。

 古河は魔族七大名家の古川の血筋であり、渚は先祖還りによりその古川の力を持っているのだという。

 そのせいで気配が魔族寄りになってしまっているのだ、とも書かれていた。

「クラナドでは、それは苦しいだろうな……」

 エアにいたことのある祐一だからこそ、わかる。

 既に過去に一度、渚は殺されかけているらしい。クラナドなら、まぁある意味当然だろう。

 その時はどうにか誤魔化したようだが、今回はそうもいかないようだ。

「……渚さん、生きていたんですね……」

 隣でその手紙を覗き込んでいた有紀寧が、身を震わすようにして呟いた。

「……いまだからこそ、わかります。……わたしは、とても酷いことを考えていたんですね……」

「有紀寧……」

「わたし、兄さんが渚さんの死刑を宣告したとき、特になんとも思わなかったんです。せいぜい、朋也さんが傷付かなければ良い、程度で……。

 でも、そんなの理不尽ですよね。なりたくてなったわけじゃないのに、そんなことで渚さんが殺されて良い理由なんてどこにもないのに……」

 なんであのときそんな簡単なことがわからなかったんだろう、と有紀寧は悔しそうに手を握り締めた。

 そんな有紀寧の頭を、祐一は軽く叩く。

「ゆ、祐一さん……?」

「それがわかっただけでも良いんだよ、有紀寧。俺だってそうだった。

 だが、遅いなんてことはない。いままで気付けなかったことに気付けたことこそ、成長の証だ」

 それに、と祐一は続け、

「古河渚は生きていた。そしてここにチャンスがある。……今回絶対に助けてやれば良い。違うか?」

「……ですね」

 有紀寧はその言葉をゆっくりと飲み下すように頷き、顔を上げた。

 笑顔で、しかし強い表情で祐一を見据え、

「お願いします、祐一さん。渚さんを――助けてあげてください」

「あぁ」

 祐一は頷いた。

「当然だ」

 

 

 

「――というわけでこれよりクラナドに潜入する。目的は二つ。古河渚の救出と時谷や亜衣との合流だ」

 数十分後、作戦会議室に皆を集めた祐一はクラナド潜入の旨を伝え、周囲を見回した。

「水菜の使い魔の情報で亜衣とエクレールがクラナド入りしたのは確認済みだ。この機会に両方をこなす。良いな?」

 その台詞に、おおよその者たちは苦笑に近い笑みを浮かべていた。

 ニュアンス的には『祐一ならそう言うだろうと思った』といったところだろうか。

 それでもついてきてくれる仲間がいることに感謝する。が、その中に一人だけ挙手をする者がいた。

「ちょっといいかしら」

 それは――、

「イリヤか」

「ユーイチ、質問良い?」

「構わない。なんだ?」

「この前はサイトウを助けに行かなかったのに今回向かうのは何故? 目的が増えたから?」

「それもある。だが、それだけじゃない。いまの俺たちには潜入のエキスパートが仲間にいるからな」

 祐一は会議室に集まったとある三人に視線を移す。

 無論、そこにいるのは盗賊団『猫の手』のメンバー、リディア、ルミエ、シャルの三人だ。

「格段に成功率は上がっている。いけるさ。だろう?」

「当たり前だね」

「差別に苦しむ人たちを、見捨てられるわけないじゃない」

「クラナドなんて軽く蹴散らしてやりましょう♪」

 三人それぞれからの返事が心強い。そうしてイリヤに向き直り、

「他に理由がいるか?」

「――そうね。ユーイチは昔っから誰かが死ぬのを嫌ってたもんね。何を言っても無駄か」

 やれやれ、とでも肩をすくめるイリヤに祐一は苦笑。

 イリヤはきっと祐一と出合ったときのことを皮肉っているのだろう。そういえば本質的にはあの頃と何も変わらないのかもしれない。

 けれど、だからこそそれが自分なのだ。

「今回は潜入という作戦上、少数精鋭で行く。俺とリディアたち、あと美汐、神耶、雪見。そして杏」

 美汐と神耶が無言で頷き、雪見が小さく笑みを浮かべている。杏は複雑そうな表情だ。

 美汐は移動としての空間跳躍。神耶と雪見は戦闘要員。共に単体での行動に慣れているところが選抜基準だ。で、杏は、

「古河渚の顔を知っているか?」

「ええ。知っているわ」

「なら判断役として着いてきてもらいたい。良いな?」

「……そう、ね」

 とこか判然としない杏の返事。

 無理もないだろうか、と思う。杏は今日まで古河渚が生きていることを知らなかったのだろうから。

 既に死んだと思っていた人物が生きていたときの気持ちとはどういうものだろう。この渚の状況を考えれば手放しに喜べはしないだろうが……。

「……朋也」

 だが、杏はそんなことを考えているわけではなかった。

 考えているのは、朋也のこと。

 朋也がこのことを――渚が生きていたことを知らないはずがない。

 そう、最初からおかしかった。

 朋也はそれこそ傍から見ていてもわかるくらいに渚を好いていた。渚が殺されれば躊躇いなく自殺でもしそうなほどに。

 が、それをせず、あまつさえそのクラナド軍の手足として動くことを受け入れるということがあのとき杏には信じられなかったのだ。

 だからこそ、わかる。

 ――朋也は、動く。

「……ここに来てあんたとの縁は切れたと思ってたけど、まさかまだ繋がってるなんてね」

 苦笑し、杏は腹を決めた。

 なんとしてでも救い出す。渚と……そしておそらく一緒に動く朋也も。

 そんな杏の決意に満ちる表情を見て、祐一は口元を崩す。何があったかは知らないが、吹っ切れたようだな、と。

 そう思い杏から視線を外したと同時、声が響いた。

「わたしも行くわよ」

 毅然とそう言い放ったのは、

「……イリヤ?」

 先ほど質問をしてきたイリヤだった。

 イリヤは片目を閉じて不敵に微笑み、

「単体の強力戦力が必要なんでしょう? ならわたしを連れてっても良いと思うけど?」

「イリヤ。お前……」

「ユーイチのお人好し加減は知ってるしね。一度くらいそれに付き合っても……ま、悪くないと思えるわ」

「……わかった。期待させてもらう」

「当然よ。わたしを誰だと思ってるの?」

 自信に満ち溢れた笑みを浮かべるイリヤ。それを頼もしいと思うとほぼ同時、再び横合いから別の声が届いた。

「あの、私も……良いでしょうか」

「美凪?」

 正式にカノン軍に軍籍を入れた遠野美凪が小さく手を上げて立ち上がっていた。

「助けていただいた礼をしたい、というのもありますが……。なにより同じ境遇の人を助けてあげたいのです」

 背負わされたくもなかったものを背負わされ、理不尽な差別を受け続けた、という点で美凪と渚はほとんど変わらないだろう。

 だからこそ美凪は助けたいと願ったのだ。自分が助けられたように、誰かを助けたいと。

 その決意を感じ取り、祐一は頷いた。

「よし、美凪も一緒に来い」

「はい」

 これでメンバーは決まった。

 祐一、美汐、神耶、雪見、杏、リディア、ルミエ、シャル、イリヤ、美凪の計十名。

「出るぞ!」

 この十名で、クラナドに潜入する。

 

 

 

 クラナドでは本格的に雨が降り始めていた。

 土砂降りというほどではないが、決して無視できるほど小雨でもない。

 こういうときは外に出る者も少ないもので、街には人気があまりなかった。

 そんな王都クラナドの出入り口にある関所は、どこかいつもと様相が異なっていた。

 まず、信じられないほどに兵が多い。

 日頃は多くとも十人程度であるはずが、少なく見積もっても百はいそうな気配だ。関所の中にはもう少しいるかもしれない。

 それはまるで、ある者の侵入を拒むように、あるいはある者の逃亡を阻止しようとしているかのようだ。

「特務部隊、配置完了したわ」

「ありがとうございます、葵ちゃん」

 甲冑を着込んだ髪の青い少女が、魔術師装束に近い、だが所々違う妙な装束を着込んだ少女に報告をした。

 前者は特務部隊補佐官、杉坂葵。後者は特務部隊副隊長の仁科理絵である。

 葵は髪にかかる雨を鬱陶しげに払い、

「ラドスとも連絡とっておいたわ」

「さすが葵ちゃんですね」

「でも、相良美佐枝さん、だっけ? あの人ってもう引退して戦技教官やってるんでしょ? 大丈夫なの?」

「でもラドスで一番有能な人材だそうですよ?」

「あ、そ。ま、良いんなら良いんだけど。で、結界の方はどう?」

「そっちも大丈夫です。広域探知結界はクラナドを包囲済み。岡崎さんたちが動いても、また誰か(、、)が来てもすぐに察知できます」

「さすが理絵。これで準備万全ね」

「はい」

 仁科理絵は世界でもかなり稀な『結界師』と呼ばれる人間である。

 魔術師の亜種であり、結界にのみ特化した術者のことだ。攻撃をほぼ度外視し、防御、治療、探知、束縛など。そういった補助を専門とする。

 単体では戦力になり得ないが、部隊に一人いればそれだけで大きな助けとなるだろう。

 だがどうにも軽視されがちで、結界師を目指す者もなる者もそうそういないのが現実であり、結果希少な存在となってしまっているわけだが。

「で、あとはここで待つだけ?」

「はい。隊長はそう言ってましたよ」

 隊長、という言葉にいきなり葵が表情を顰めた。理絵は首を傾げて、

「どうしたんです?」

「いや……」

 何か言いにくそうに口ごもる葵というのも珍しい、と理恵は思う。葵は基本的に開けっぴろげな性格だ。

「なに?」

 だからもう一度問う。するとようやく、という感じに葵は口を開き、

「……ねぇ、理絵。あの鹿沼葉子って、信用できると思う?」

 それは理絵にとって予想外の台詞だった。

 理絵からすれば葉子ほど上司にして心強い人間はいない。

 指揮は上手いし、先読みも一流。対処も素早ければ作戦立案だってずば抜けていると来た。そして戦闘力も超一級。

 人間性としても冷静の二文字で表現できるだろうし、どこにも欠点はないように思えるのだが……。

「逆。欠点が無さ過ぎるのよ」

 葵はそう言った。

「なんかね……あの人はあたしたちとは次元が違う気がするの。あたしたちと違う目線で、ずっと先を見据えているような。

 ……何かとんでもないことを考えているんじゃないか、って。そんな気がするのよ」

 言いたいことは……わからないでもない。

 葉子は何を考えているのかよくわからない。そもそもどうしてクラナドにいるのかも知らない。葉子は自分のことをまったく話さないのだ。

 仕事は仕事、として割り切っていた理絵としては特に疑問にも思わなかったが、確かに言われてみればそんな気もする。だが、

「でも、結局私たちは雇われの身ですから。命令をこなすだけですよ」

「……それもそっか。あたしたちは所詮コマだものね。せいぜい上手く動くことにするわ」

 そういう言い方は好きじゃないです、と言うと葵は苦笑して手を振りながら関所へと足を運んだ。まだ確認することでもあるのかもしれない。

 そんな葵を見送って理絵は気配の動きに集中した。

「……動きますか」

 大量の気配が動いている。

 その先には――岡崎朋也の気配があった。

 

 

 

 朋也は本日の仕事を終えて、急いで家路へつこうとしていた。

 とはいえ、古河家ではない。しばらくの間使っていなかった、実際の我が家だ。

 ……が、事はもうそう簡単にはいかないらしい。

 朋也の目の前。

 いまそこに二十人近い兵士たちが立ち塞がっていた。

 そして中心には、ここ最近見かけるようになった女性の姿。

 確か名は……鹿沼葉子。

「――これはどういうことだ、鹿沼葉子?」

 すると平然とした表情の葉子は、雨に濡れたその髪から水滴を取るように僅かに払って、

「わかってないとは言わせません。あなたは既に状況はわかりきっていると思いますが?」

「――」

 朋也は内心で舌打ちする。

 やはり、渚のことが露見していたようだ。

「このまま大人しく出向していただければ手荒な真似はしなくてすみます。どうでしょう? ここは穏便に――」

「仮にここで大人しく捕まったとして、本当に穏便に事が進むのか?」

 問い返す。すると葉子は言葉を切り、次いで小さく頷いて、

「……そうですね。どの道あなたは助からないでしょう。そしてあの古河渚という少女もまた」

 いよいよ渚の名前が出てきた。これでもう後には引けない。

 ここで捕まれば、自分も、渚も。――待っているのは確実な『死』だ。

「そんなことを言われて『はいそうですか』と頷けると思ってるのか?」

「そうであっても頷いて欲しいとは思いますね」

「は、とぼけろよ」

 朋也が剣の柄に手をかけた。それを見て兵たちもまた臨戦体勢を取るが、葉子は不動のままだ。

「よく考えてください。それを抜けば、もう後戻りはできませんよ?」

「後戻り?」

 ハッ、と朋也は嘲るように小さく息を吐き、

「――そんなもん、とっくに経験済みなんだよ」

 瞬間、一足飛びで葉子に斬りかかった。

「……残念ですね」

 その一閃を、葉子は軽く避ける。が、朋也は追撃しない。身体をどかしたことを良いことにそのまま真っ直ぐ兵の壁を突っ切っていった。

「逃がしてはなりません。追いなさい」

 葉子の号令に従い後ろに控えていた兵たちが一斉に朋也を追いかけていく。

 ……が、葉子はその場から動きはしなかった。

「さて、ようやくスタートですね」

 葉子は、もともと朋也を追いかける気はなかった。

 葉子の実力なら交錯の一瞬で朋也を殺すことも無力化することもできたし、いまから追いかけて間に合わせることもできる。

 だが、それでは意味が無い。

 いま捕まってもらっては困る(、、)のだ。無論、死んでしまうことなんか論外である。いまは逃げ切ってくれなくては話にならない。

 だから兵の数も現状の(、、、)朋也でどうにか対処できる程度に揃えてある。

 今回の目的は主に三つ。そしてそれぞれには優先順位が着けられていた。

 その中で最も優先順位が低く、また一番最後でなければいけないのが岡崎朋也の捕獲である。

 むしろ、古河渚のことなんてどうでもいい(、、、、、、)。重要なのは岡崎朋也の方だ。

 そして二番目に優先すべきは救出に向かってくるであろう相沢祐一の抹殺。

 おそらく葉子が担う確率が最も高いのがこれである。といっても良くて五分というところだろうが。

 だが、なによりも優先すべき目的は――、

「……そのためには、いまは岡崎さんに捕まってもらうわけにはいきません」

 岡崎朋也と古河渚は、言うなれば餌だ。最優先目標を手に入れるための。

 例え相沢祐一を殺し損ねても、岡崎朋也を逃がしたとしても、これだけは成し遂げねばならない最大の目的。

「……」

 とはいえ、そこは自分の仕事ではない。なので葉子は踵を返し、王城へと足を向けた。

 相沢祐一が来る可能性の高い、二つのターゲットのうちの一つ。

 ……斉藤時谷のいる場所へ。

 

 

 

 坂上鷹文という青年がいる。

 今年の初めにある女性と結婚し、軍を退役した、あの坂上智代の弟だ。

 軍を退役してからは彼は鍛冶屋として生活を営んでいる。もともと何かを作り出すことを楽しいと感じていたので、この生活は幸せだった。

 現在は雨が降っているということで休業中。熱を使うこの仕事は湿気やらなにやらで微細な変化が出てしまうものなのだ。

 というわけで窓を打つ雨音をBGMにゆっくり読書にでも洒落込もうと思っていたのだが、

「おい鷹文。掃除の邪魔だよとっと立てそしてここからどけ」

 そうは問屋が卸さなかったらしい。

 鷹文は大きく嘆息して、その声の主をゆっくり見上げた。

「あのさぁ、河南子。お前、もう少しこう、夫を敬おうっていう気はないの?」

 そこには、髪を二つに結った勝気そうな少女がいた。

 いや、実際は目に見える以上に勝気で横暴で暴言吐きまくりかつ腕っ節も自分以上というとんでも少女なのだが、惚れた弱みというやつだろう。

 それでもやっぱり可愛いと思えてしまうのだ。

 で、そんなことを思われてるなんて露も知らないその女性――鷹文の妻である、坂上河南子はゆっくりと口元を崩し、

「敬う? ほう、休みだからってなんにもせず本を読みふけってでろーんと寝っ転がってる奴を、家事で忙しく動いているあたしに敬えと?

 ほっほー……。良いご身分ですな鷹文さん? ん?」

「うべ!? ちょ、やめろ河南子!? 箒で顔面刺してくるのは反則!? うぇ、ぺ!? 口に入ったー!?」

「ふはははははもがけ苦しめこのすっとこどっこいがー! 少しは働きまくってるこの妻に対して「あ、俺がやろうか?」的な優しい言葉があっても良いと河南子さんは思うわけですがその辺どうなのよ?」

「俺は疲れてるの! 鍛冶っつーのはあれですごい労働なんだぞ! 雨降ってる日くらい休ませてくれたってうぇぱ?!」

「良いねー休みがあって。でもね鷹文。家事には休みなんてないの。わかる? ん? わかるなら『はい』と言いなさい」

「うぇぷはっぷはぺぺぶふぅあ!」

「……そっか。わからないんだ。鷹文ならわかってくれると思ったのに、悲しいなぁー。うん、いっそ殺して良い?」

「ぶっはぁ! 箒口に突っ込まれて喋れなかったんだよ!? そくれらいわかれよっつうかお前わざとやってただろ!?」

「ちっ。ばれたか」

「ばれないでかーッ!!」

 こんな掛け合いも二人の間では日常茶飯事だ。

 なんか離婚目前の夫婦の会話のようであるが、これで二人は楽しんでいるのだ。

 証拠に、怒ったり落胆しているようなその表情の一端に、笑みが見え隠れしているではないか。

「ともかく、ほらどいたどいた。結局掃除はしなくちゃいけないんだから」

「手伝うか?」

「良いよ。あたしがやっとく。鷹文は外で大人しく待ってなさい」

「わかった――って外めちゃめちゃ雨なんですけど!?」

「ちっ。ばれたか」

「……あのさぁ、河南子。いい加減僕で遊ぶのやめようよ」

 いや、河南子の場合は本気でそう言っている節がある。面白半分で外に放り出される前に玄関辺りに避難しておこう、とゆっくり移動する鷹文。

 と、ちょうどそこでドアをノックする音が聞こえてきた。

「はーい?」

 玄関にいるのでそのまま扉を開けることにする。

 無用心なように感じるが、その辺の悪党なら後ろにいる河南子が溜め息混じりにぶっ飛ばすだろう。

 が、現れたのはある意味予想外の人物だった。

「……ねぇちゃん?」

 そこにいたのは、雨でずぶ濡れになった姉、坂上智代の姿だった。しかも、

「ちょ、どうしたのねぇちゃん。なんかいまにも死にそうな顔してんだけど?」

「あぁ。ちょっと……な」

 心底疲れたような吐息に、鷹文はどう言葉を投げかけて良いかわからなくなる。

 この落ち込みぶりは尋常じゃない。

「(ね、先輩どうしたの?)」

 智代の訪問に気付いた河南子が、耳打ちで聞いてくる。が、それは鷹文にもわからない。首を横に振った。

「……なぁ、鷹文」

「ん? なに、ねぇちゃん」

「私はどうしたら良いんだろうな?」

「なんのこと? 要領を得ないんだけど」

 智代は一瞬言いよどみ、

「……これから、出撃があるんだ」

「出撃? またカノン?」

 智代は横に首を振る。とすれば鷹文からすればお手上げだ。現状、クラナドが敵対しているものなんてカノンくらいしか知らない。

 ならば……?

「――古河家だ」

「え……?」

 思わず、動きが止まった。

 いま、智代はなんと言った? 古河家? それはもしかして――、

「ま、さか……」

 智代は弱々しく頷き、

「渚が、生きていたらしい」

 絶句した。

 古河渚。運悪く魔族の力を持ち、殺害命令の下った少女。そして……岡崎朋也が愛していたであろう、少女。

 智代とも友達だったというその少女の名前は、クラナドではあまりに有名だ。

 鷹文も無論知っている。しかも一般人よりもさらに深いところまで。朋也からも智代からも聞いたことがあるからだ。

 だが、それが生きていた。

 そう、軍人である智代が言ったのだ。

 ということは、これから行われることなど一つしかない。

「まさか……抹殺命令!?」

「あぁ。……既に前回誤報を伝えたと言われる兵士たちは処刑されたらしい」

「そんな……!」

 鷹文が唖然としていると、遠くから笛の音が響いてきた。

 軍にいたことのある鷹文はわかる。それは集合の合図だ。

「……そろそろ時間だ。ろくに悩む時間もなかったな」

 苦笑し、踵を返す智代。慌てて追いかけた鷹文はその肩を掴み、

「待てよ、ねぇちゃん! 行くのかよ!?」

「仕方ないだろう? 私は騎士団の団長。今回は近衛騎士団との混合選抜隊だ。私も行かなければならない」

「そういうことじゃないだろう!? わかってんのかよ、ねぇちゃん! 渚さんが生きてたこと、朋也のにぃちゃんが知らないわけがない!

 ってことは、このまま行けばもしかしたらにぃちゃんが敵に回るかもしれない! 殺さなきゃいけなくなるかもしれないんだよ!?」

「――」

「黙ってないでなんとか答えろよねぇちゃん! ねぇちゃんはそれで良いのかよ!」

「良いわけないだろうッ!!!」

 それは、鷹文ですら聞いたことの無いほどの叫びだった。

「殺したいなんて、思うはずがない! 渚だってそうだ! 生きてて嬉しいと思ったさ! けど、だったらどうすれば良いんだ!?

 軍を抜けろとでも言うのか!? 抜けてどこに行くんだ!? 父さんだって母さんだっているんだぞ!? できるわけないだろうッ!」

 気付いてみれば、智代の手からは血が滴っていた。

 ――血が出るほどに強く握り締めて……。

 智代も、板挟みでぐしゃぐしゃなんだろう。いつも気丈なはずの智代の表情は、泣くのを堪える小さな子供のようだった。

「私は朋也が好きだ。でも、同じくらい家族が大事なんだ。……私の行動で、家族には迷惑を掛けたくない。もう、二度とだ」

 智代は自らの激情を押さえ込むようにして歯噛みし、

「……いきなり押しかけてすまなかった」

 鷹文の腕を払って再び雨止まぬ外へと身を投じていった。

「……」

 それを鷹文は止められなかった。

 智代の家族への想いは、知っている。

 昔、智代は荒れていた。家族はバラバラだった。だが、鷹文がある事件を引き起こして家族の絆は元に戻った。

 きっと、その絆をもう二度と失いたくないのだ。手放したくないのだ。

 ……けれど、

「それで、本当に良いのかよ、ねぇちゃん……!」

 朋也と家族。

 そもそもその二つを天秤にかけるという状況こそおかしいのだ。

 しかしそれが現実。結局その板挟みにあうしかないのだろうか……。

「で、どうすんの?」

 と、まるで暴走する思考を止めるようにその言葉は降ってきた。それはもちろん、

「河南子……?」

 河南子は鷹文の背中に手を当てて、笑う。

「あんたはさ、こういう状況でジッとしてられる人間じゃないでしょ? ほら、どうしたいのよ鷹文は。あたしはあんたに付き合うよ」

「……河南子」

「ま、良妻だからね。あたし」

 そう笑って言ってくれる河南子が、とても心強い。

 河南子が妻で本当に良かった。そう思い、振り返った鷹文は河南子の両肩を掴み、真っ直ぐ見つめ、言った。

「頼みがある」

 

 

 

 朋也は走っていた。

 雨で身体の体温が下がっていくが、そんなもの知ったことではない。

 既に追いすがってきた兵士は倒してきた。他の兵もおそらく動いているのだろうが、いまは近くにそれらしい気配は無い。

 だから急ぐ。いまのうちにこの状況を教えなくてはならないからだ。

 そうして古河家まで全力疾走すると、店の前で暢気に雨雲を見上げながら火の点いてない煙草を咥えた秋生が立っていた。

 安心する。どうやらこちらはまだだったようだ。

 ……が、のんびりしている場合でもない。

「オッサン!」

「小僧、どうした慌てて――まさか」

 秋生はすぐに気付いたようだ。朋也は息を整えつつ頷き、

「軍が動き出した! いずれここにも来るはずだ!」

「チッ! 予想以上に早ぇな……」

「どうする!?」

「ちょっとした手筈は用意してある。……が、クソ、間に合うか」

 言葉から察するに秋生はなにかこの事態を想定して用意していたようだ。さすが、と言うべきなのだろうが、やはり軍の動きが早かったのか。

 それなりに長い付き合いであるはずだが、秋生の慌てた様子というのは初めて見た気がした。

「なにボーっと突っ立ってんだ小僧! お前は早く渚のとこに行きやがれ! 俺は早苗を呼ぶ!」

「っ! わ、わかった!」

 古河パンに入り、すまないと思ったが土足で上がらせてもらった。いまは靴を脱いでいる時間すら惜しい。

 そのまま駆け上がり、ノックもなしに渚の部屋のドアを開け放った。

 その向こうでは、ちょうど起きたところなのか、座った体勢の渚が驚きに目を見開き、そしてすぐに笑顔になり、

「朋也くん、来てくれたんですね……って、どうしたんですかびしょ濡れですよ?」

 その表情も、すぐに困惑になる。

 それもそうだろう。朋也の身体は雨で濡れているし、土足だし、表情は真剣だし、それに――血の匂いもこびりついている。

「渚」

「あ、はい」

 肩を震わす渚。その渚に近付き、冷え切ってしまった手でゆっくり肩を押さえ、膝を突き目線を合わせた。

「驚かないで聞いて欲しい」

「なん……ですか?」

 そうして深呼吸し、

「軍が、お前が生きていることを突き止めた」

「!?」

 再び渚の目が見開かれた。それは驚きでもあるがそれよりも――ありありとした恐怖に彩られていた。

「俺もいま兵たちから逃げてきたところだ。じきにここにも兵が押し寄せてくるだろう。その前に逃げ出さなきゃいけない。わかるな?」

「……」

「渚、おい、渚しっかりしろ!」

 朋也は渚が再び訪れるかもしれないあの恐怖に身を打たれたのだと思った。

 ……だが、違う。

「ごめ、んなさい……」

 涙を流しながら渚が口にした言葉は――謝罪だった。

「……ちょっと待ってくれ渚。どうしてそこでお前が謝る?」

「だって、私のせいでお父さんもお母さんも、朋也くんも犯罪者になってしまいます! あのときと同じように!」

「!」

 渚は、自分のために恐怖を抱いたのではない。

 ……渚は、自分のせいで(、、、、、、)朋也や秋生や早苗に迷惑を掛けることに恐怖していたのだ。

 それがわかって、朋也は慌ててその言葉を否定した。

「それは違う! 渚、俺たちは誰も迷惑だなんて思っていない!」

「でも、私やっぱり朋也くんたちに迷惑を掛けているのは事実です! あのときだってそうでした! なら、私なんていっそ死んでしまった方が――」

 言いかけた言葉は、パン、という甲高い音で遮られた。

 ……それは、朋也が渚の頬を張った音。

「すまない」

 目を見開く渚に朋也が謝る。しかしその目はただ真っ直ぐで、

「だけど、渚。そんなことは言わないでくれ。お前が死んだらオッサンも早苗さんも悲しむ。もちろん俺もだ」

「……でも」

「なぁ、渚。もしお前が純粋な人間族で、俺が魔族だったら。お前はそれだけで俺を突き放すか?」

「そんなことしませんっ!」

「だろう?」

 ハッとする渚。朋也は渚をゆっくりと抱きしめた。

 雨に打たれて冷えた身体が、渚の熱で息を吹き返す。

 その温かさをいとおしいと感じながら、言い聞かせるように呟いた。

「自分のせいで、なんて言うな」

「朋也、くん……」

「お前がどんな能力を持っていようと、どんな境遇にあろうと、どんな苦しみを背負わされていようと、関係ない。

 どれだけの奴が敵に回ろうと、どれだけの数が敵であろうと、どれだけの者が渚を殺しに来ようとも関係ない」

 強く、強く抱きしめる。

 この想いを伝えるために。その強さを知ってもらうために。この存在を、噛み締めるために。

 そうしてほんの少し身体を離し、真正面から渚の顔を見て、

「それでもお前を愛する」

「朋也、く――ん……」

 そうして口付けをした。

 短いような、長いような。一瞬のような、永劫のような。

 そんなあやふやな時間を経て、二人の顔はゆっくりと離れていく。

 ファーストキスだ。が、そこに照れはなかった。本来なら顔に朱色が交わるような、そんな状況で行いたかったが、とも思うが。

 これは決意である。そして誓い。

「俺の想いはあのときから変わらない」

 朋也の表情はどこまでも優しく、気高く、強かった。

 ただどこまでも、渚を見ていた。

「俺はお前が――古河渚が好きだ。愛してる。だから――」

 一息。

「俺がお前を守る。必ずだ。これは俺の意思だ。たとえ誰であろうと……渚であっても、この意思は変えられない」

 あのときのような力は、ない。だが、この想いが変わるはずがない。

 自分が岡崎朋也という存在で、そこに古河渚という存在があるのなら。

 変わることなんてありはしない。

「だから誓ってくれ。生きる、と。どんなことがあっても生き延びると」

 そうすれば、俺はどんな苦難だって乗り越えるし、どんな境遇であろうとお前を助ける、と、朋也は続けて言った。

「朋也くん……」

 渚はただ泣いていた。

 ボロボロと、とめどなく流れる涙。だがそれは悲しみではない。後悔でもない。懺悔でもない。

 嬉しかったから。

 どこまでも。どこまでも。どれだけの苦難を味わおうとも、それでもなお心に響き我が身を震わすその言葉が。

 嬉しくて、嬉しくて、涙が溢れた。

「はい」

 頷く。

「はい……!」

 頷いた。

 そうしてギュッと朋也を抱きしめ返し、その胸に顔を埋めながら、誓った。

「はい、誓います! 私は……どこでも、いつでも、ずっと朋也くんと一緒にいます!」

 朋也はその背中と、頭をゆっくりと撫でた。子供をあやすように、安心させるようにどこまでも優しく。

「……辛いかもしれないけど、我慢してくれ」

「辛くないです。だって、朋也くんがいてくれますから……」

 互いを見合い、もう一度二人はキスをした。

 そうしてゆっくりと顔を離し、

「――行こう」

 部屋を出る。

 渚の力を抑制していた効力が消え、渚の表情が僅かに強張る。だが、それも一瞬。渚はゆっくり微笑んだ。

 だから朋也は渚を抱え、階段を下りていく。

 外は――既に騒がしかった。

 

 

 

 外に出てみれば、もうそこには兵が待ち構えていた。

 およそ二百程度だろうか。もう少しいるかもしれない。

 そしてその中には見知った顔も多くあった。祐介、陽平、勝平。それぞれが苦しそうな表情でこちらを見ている。そして――、

「……智代」

「朋也……」

 辛そうな表情を浮かべた、智代もまたそこにはいた。

 智代は朋也と、そして胸に抱かれた渚を順に流し見て、そして何かを堪えるように手を握り締めながら、

「……朋也。悪いことにはならない。だから投降してくれないか?」

「断る」

 即答。

「……お前だってわかってるだろう、智代。俺たちがいま捕まったら今度こそ死刑だ」

「そんなことにはさせない! 私に任せろ! だから朋也――!」

 しかし朋也は首を横に振った。

 それは無理なことだ。智代がどれだけ何を言おうと、祐介たちが便宜してくれても、結果は変わらない。

 待っているのは死だ。

 だから朋也は従えない。智代の辛そうな顔を見るのは悲しいが、それでも決めたのだ。

 渚を守る、と。

「智代。お前が退いては……くれないよな」

「……すまん。私は軍人なのだ、朋也」

「そうか。結局、こうなっちまうんだな」

 聞かなくてもわかっている。だが敢えて聞いたのは――自分の中での踏ん切りが欲しかっただけなのかもしれない。

 もう後には引けない。

 引く気もない。

 自分だって辛いだろうに、心配そうにこちらを見上げる渚に笑みを返し、剣を鞘から抜こうとした。

「まぁ待て小僧」

 が、それを止める腕があった。それはもちろん、

「オッサン……?」

「てめぇは渚を連れてとっとと消えろ。ここは俺たちでなんとかする」

 な、と朋也と渚が絶句する。

 だが秋生は顔色一つ変えず、

「つか、いまのお前じゃこれだけの規模相手にできねぇだろ。ここは俺と早苗で抑える。

 お前はひとまずここを出てラドスまで向かえ。そこにお前たちを助けてくれる人物がいるはずだ」

「オッサン、それは――!」

「よーく覚えておけ小僧」

 言いかけた言葉が遮られる。

「男にはな、絶対に守らなきゃなんない存在があるんだよ。それは――」

 振り向き、

「愛した女と、その女との子供だ」

「オッサン……」

「しっかり守れよ馬鹿野郎。渚は俺の大切な娘だからな」

 ポン、と肩を叩かれ、そして押された。

 行け、と。その背中が無言で語っていた。

 だから、

「っ……! 死ぬなよオッサン! 早苗さん! あんたたちが死んだら、意味無いんだからな!」

「お父さん、お母さん!」

「渚、しっかり捕まってろッ!!」

 そうして朋也は駆け出した。強く歯噛みし、振り向きたい衝動を意地で押さえつけながら、そのまま走り抜けていった。

 それを見た兵士たちが追いかけようとするが、その前には一人の女性が仁王立ちしていた。

 身長と同じほどの杖を携えた、古河早苗だ。

「わりぃな早苗。つき合わせて」

「わたしは、どんなときでも秋生さんの隣にいますよ?」

「はっ。男冥利に尽きる台詞だ。萌えるぜ、早苗」

「あら、秋生さんだってさっき格好良かったです」

「マジか」

「マジです」

 そいつは嬉しいねぇ、と呟きつつ秋生は前を見た。

 兵の群れ。数えるのも億劫なほどの兵の前に立ちながらも、しかし怯える素振りもない。

「ってぇ、わけだ。わりぃがこっから先はいまから通行止めだ」

「古河秋生さん……。あなたと戦うことになるとは――いえ、こうなった時点でわかっていたことか」

 秋生は苦笑し、

「坂上智代、だったか。別にお前のことを恨んだりはしねぇ。お前だって俺たちと同じだ。

 養う家族がいるんだろ。家族のために戦ってるようなもんなんだろう。俺たちだってそう。家族を守りたいからこそ、戦う。それだけだ」

「……悲しい、ことだな」

「悲しい、か。まぁ確かにそうかもな。だが人生なんつーのはおおよそそんなもんだ。悲しいことなんて山のようにありやがる」

 でも、と煙草を吐き捨て、

「だからこそ、嬉しければ嬉しいと感じるし、楽しければ楽しいと感じられる。そして――愛しいと、感じられる」

 言う。

「よく覚えとけ、坂上智代」

 秋生は懐から二つの銃を取り出した。

 それこそ秋生の武器。軍にいた頃には最強とすら呼ばれていたその威圧感に衰えは見えず、その銃口を突きつけて――しかし、彼は笑った。

「だからこそ、人は生きるんだ。だからこそ――それを人生っていうんだよ」

 重い言葉だ、と智代は思う。

 その言葉に一体どれだけの想いが込められているのだろう。心に染み入るようなその言葉をゆっくりと噛み締めて、

「……参ります」

 敬意を込めて、剣を抜いた。

「おう、来やがれ」

 お、と智代が気合を込めて地を蹴った。

 迷いを振り切るように、勢いを込めて身を流す。

 秋生が銃を構える。早苗が杖を取り出し、祐介たちも剣を抜き放った。

 激突が始まる。

 その勢いに煽られるように……雨が、激しく地面を打ちつけた。

 

 

 

 あとがき

 どもー、神無月です。

 ……んー、長くなってしまったですなぁ(汗

 プロット段階では河南子の部分が無かったですからねぇ。割り込ませちゃったんでにんともかんとも。

 というわけでクラナド編とも呼ぶべきシーンが開幕しました。

 朋也と渚の逃避行、秋生たちの戦い、駆けつける祐一たち、葉子の思惑、そして亜衣たちは、などなど……。

 いろいろと今回はありますのでどうぞお楽しみに。

 ではまた。

 

 

 

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