神魔戦記 第六十五章
「……皹」
夜。
空には綺麗な上弦が差し掛かり、地を緩やかに照らす時間。
エア王城内。そんな月夜を見上げる男の姿があった。
「やれやれ……だな」
見上げながら嘆息したのは、エア王国王族分家、橘の当主、橘敬介だ。
眼鏡をかけた理知的な顔は、しかしいま疲れたように覇気が無かった。
理由はいたって簡単。自国の女王がいつまで経ってもカノンに対して戦闘の姿勢を見せないためだ。
動けない理由は確かにある。この国の第二王女であった神尾観鈴がこともあろうにカノンの魔族と婚儀をしていたのだ。
おそらく精神操作の類か、なにかの脅迫を受けたのだろう。そうでなければ考えられない事態だ。
だからこそ、迂闊に行動できない。それはつまり人質であることと同義なのだから。
だが、だからとこのままでいては魔族たちを調子付かせてしまう。
観鈴はもう致し方ない犠牲と割り切り、ここは攻め込むべき、という声がエアとクラナド間で行われ始めている。敬介も賛成派だ。
だが、反対とする声も同じく多い。現状、半々というところだろうか。
「いっそカノンが攻めてきてくれれば話は早いのだろうがな」
どういうわけか攻めてこない。
好戦的な魔族のことだから、すぐにでも攻め入ってくると思っていたのだが……。
「なにか……なにか口実があれば良いんだ。戦うしかないという口実を」
「でしたらその口実、作って差し上げましょう」
不意の声に、え、と思った瞬間だ。いきなり腹部に熱を感じた。それは――、
「……剣……?」
見下ろした先、自分の腹部から突き出ているのは……剣。だがそれは通常の剣ではなく、魔力で編みこまれた剣であり……。
「げふっ」
口から出るもの、血。腹からこぼれていくのも、血。
死ぬ?
その思考が、熱を奪っていく。
「この時期、この状況であなたが死ねば、きっと誰もがカノンの魔族のせいだと思い込んでくれますわ。
あなたの思い描いた通りの結果になるのです。安心して死んでくださいな」
背後から聞こえてくる幼い少女の声。
だが、剣の突き刺さったこの状況で後ろを振り向くこともできず、ただ恐怖に支配されたかのように敬介は叫んだ。
「き、貴様……何者だ!」
「言う義理はないと思いますが……まぁ、冥土の土産、ということで教えて差し上げましょう。私の名は……法皇テムオリン。
……とはいえ、冥土にもあなたの魂は行けないでしょうけれど」
それ以降敬介の言葉が紡がれることはなかった。
血が、舞う。
そして崩れた肉体には……既に魂というものが消失していた。
「こんなカスの魂を吸収しても別に意味は無いでしょうけど……まぁ、塵も積もればなんとやら、です。地道にいきましょう」
それを見下ろす白髪の少女――テムオリン。杖を持つ反対の手に形成されていた剣が消失していった。
別に、剣など具現させずともこの程度の人間を殺すことなど造作も無い。
だが、これはあくまで『カノンがやった』と思わせなければならない殺しだ。故に肉体を消し飛ばすわけにもいかず、こうした手を取った。
「封を切ればあとは勝手に加速していくでしょう」
テムオリンが踵を返す。シャラン、と杖が響き、その表情に笑みを浮かべ、
「では、せいぜい多くの命を狩り合ってくださいね、キー大陸」
その姿は闇へと消えていった。
翌朝、エア王国の重鎮、橘敬介が死亡したという報はエアはもちろんのこと、その他キー大陸内の三国にもすぐさま伝わることとなった。
カノン王国。
報を聞きつけた祐一は皆を会議室へと集めていた。
皆の表情はどこか重い。皆も既にエアの重鎮が何者かによって殺されたことは知っており……またそれがどういう結果を招くかを理解してた。
「皆も既に知っていると思うが、エア王国の重鎮橘敬介が昨夜何者かによって殺された」
シン、と静まる室内。そんな周囲を見渡し、
「……その犯人をエア側は我らだと決め付け、戦闘準備に入りだしているとのことだ。クラナドも続くようにして部隊の編成に掛かっているらしい」
「そんなっ!」
バン、と手を叩き立ち上がったのは亜衣だ。
「そんな、どうして決め付けたりなんて! だって、そうと決まったわけじゃ――」
「どうでも良いんだよ。あっちからすれば」
亜衣の隣、静かに口を開く時谷。
「以前からあっちは俺たちと戦いたがってた。だが、観鈴がいるために手出しをできなくなっていた。国民の意思は無視できないだろうしな。
だが、こうして誰かが死んだりすれば話は別だ。もう、止まってなんかいられないだろうよ」
「でも……」
「不安を持ち、その間に不測の事態が起こればその恐怖は一気に不安の対象へと向けられる。当然のことと言えば当然ね」
杏が肘を突きながら嘆息一つ。だからこそ、と続け、
「誰かの策略なんでしょうね。あたしたちとエア、クラナドを戦わせるための」
「もしかしたらこの殺人自体エアがしたことかもしれませんしね」
続く美汐の言葉に、それも考えられると祐一も頷く。
「……どうあれ口火は切られた。エアもクラナドもじきに動き出すだろう。俺たちも動きを決めなくては……な」
「また……戦いが始まるんですね」
「……いつかは必ず通らなければならなかった道です、栞さん。覚悟を決めましょう」
「美咲さん……」
美咲と栞の話を横で聞きつつ、今度は香里が立ち上がる。
「陛下、部隊の編成はどういたしましょう」
「おそらくエアとクラナドは同時に攻めてくるだろうな。とすると、部隊を三分割しなくてはならない」
「三分割? 二分割じゃなくて?」
「あゆ。じゃあ、お前は城を空にしていくつもりか?」
「あ……」
そう。エアとクラナドが同時に攻めてくるとなれば、城を防衛する部隊を含め三分割しなくてはならない。
加えて、
「部隊の比重はエア優先だな」
エアはおそらくその翼を利用してアゼナ連峰を越えて攻めてくるだろう。タイミングが勝負のこの戦いでわざわざ回り込んではくるまい。
とすれば、アゼナ連峰付近で迎撃できなければ、王都カノンへすぐ突っ込まれてしまう。
故にエアを最優先で迎撃するしかない。
「エアはその大半が飛べる。近距離戦闘がメインの騎士団を多く連れて行っても意味が無い。魔術部隊は全員こっちだ、佐祐理」
「はい、了解です」
「あと空が飛べる者……名雪、あゆ、さくら、真琴、ヘリオンもこっちだ。
その他、魔術含め遠距離が得意な連中――鈴菜、美咲、栞、リリス、亜沙もこっちに入れる。
あとは通常騎士団の三分の一を」
名を呼ばれた者が頷きを返す。それを見届け、
「クラナドは王都から国境都市ラドス、アストラス街道経由で攻めてくるだろう。……復興中のルクリナの村を拠点とするしかないか。美汐」
「はっ」
「クラナド迎撃部隊の指揮はお前に任せる。近衛騎士団全隊と、通常騎士団の三分の一を率いていけ。一弥と留美もそっちだ。
その他、時谷、神耶、水菜もこっちに参加してくれ」
頷く三人の中、水菜はとりわけ嬉しそうだった。
以前、旧カノンやホーリーフレイムと戦ったときになにもできなかったことがいまだに尾を引いていたのだろう。
その意気込みを頼もしい、と思いつつ今度は香里に視線を向ける。
「香里は残りの騎士団の三分の一を使って城の防衛を。浩一と亜衣もこっちを頼む。マリーシアとプリムラも手伝ってやってくれ」
各々返事を返してくるが、亜衣だけが俯き気味だった。また戦闘に出れないことを、嘆いているのだろう。
だが、それも仕方の無いことだ。
時谷にも言われたことだが、亜衣は天性の戦闘センスを持ち、また神殺しという武器を持ってはいるが、その特異体質上身体強化ができない。
故にスタミナが無い。これはかなり致命的だ。
これから行われるであろう戦いはかなりの乱戦になるだろう。その状態で体力が尽きていたらどれだけの手だれであろうと隙を突かれる。
日頃の努力を見ていれば可哀そうだがな、とも思うも、これも亜衣のためだ。
さて、と呟きいま一度美汐を振り向き、
「クラナド迎撃部隊は魔術師がいない分不利になることもあるだろう。美汐、もし不利を感じたら撤退も構わないからな」
「ですが――」
「今回はなによりエア優先だ。クラナドは最低、時間さえ稼げれば良い。無駄に兵を減らせるわけにもいかないだろう?」
「……確かに、それは」
「戦争は勝負じゃない。その戦いで負けても最終的に勝った者が勝者だ。……引き際は見誤るなよ」
「御意」
頭を垂らす美汐から視線を外し、室内にいる皆に視線を等分し、
「では、各自解散して部隊編成並びに装備の準備を。時間にそう余裕は無いことを頭に入れて動け。以上」
席を立ち、それぞれの動きを見せる皆を見渡し、祐一は誰にも気付かれないように大きく息を吐いた。
「大きなため息ですね」
だが、気付かれた。それは、
「有紀寧……それに観鈴か」
横に立つのは微笑を浮かべた有紀寧と、そのやや後ろに少し落ち込んでいる風の観鈴だった。
その観鈴はちらりと祐一を見ると、すぐさま顔を俯かせ、
「……始まるんだね、戦いが」
「あぁ」
簡潔に返答だけを。なにかを言う必要は無いだろう。ここでなにかを言えば、それはただの気を紛らわすためだけの軽い言葉になる。
「エアとも……戦うんだね」
「あぁ」
「……わかってたし、覚悟してたことの……はず、なんだけど、ね。にはは、なんでだろう。やっぱり……複雑」
「仕方ないだろう。お前の生まれた国なんだからな」
「でも、それを言えば祐くんだってエア生まれだよ?」
「境遇が違う。俺がエアにいたのは生まれて四、五年といった程度だが、お前はいままでずっと生きてきただろう?」
「でも、だけど……。エアには二葉ちゃんだって――」
あ、と慌てたように口を塞ぐ観鈴。
二葉。懐かしい名だな、と思いつつ、
「わかってるさ。そして、きっと二葉が俺を恨んでいるだろうことも、な」
「祐くん……」
悲しそうな観鈴の表情。
――観鈴は優しいからな。
いろいろなことを、納得できないのだろう。俺たちの過去、二葉の感情。それら全て――でも仕方ないことだ。
「気にするな。少なくとも、それはお前の気にすることじゃない」
「……でも」
「二葉とのことは……両親を除けば俺にしかどうにもできないことだ。だから、気にするな。気にしたって過去は変えられない」
納得していないようだが、ここで話は強引に切ろう。そうでなければ進まないだろうから。
そして視線を有紀寧に転じる。有紀寧はいつもの微笑だが、
「……気になるか?」
「それはもちろん」
「聞かないのか?」
「聞いて欲しいんですか?」
思わず笑ってしまう応答だ。だが、言外に込められたその気遣いにいまは感謝しておこう。
「……お前は平気なのか? クラナドと戦うことになっても」
「平気ではありません。ですが――」
一拍。その間を置いて、
「戦ってでもわからせなきゃいけないことがあることも、知っています。ですから何も言うことはありません」
「そうか。強いな、有紀寧は」
「貴方の妻ですから」
「――」
……強烈な返しだった。
だがそんなことすらもいまは励みになり、
「では、準備をしよう。負けるわけにはいかない戦いのためにも」
そうやって前に進めるというものだ。
エア王国。
眼下、神奈は忙しなく動き回る兵たちを王室から見下ろし、わずかに息を吐いた。
――ついに、この時が来てしまったな。
昨夜、重鎮である橘敬介が何者かによって殺された。
他の重鎮たちは口を揃えて魔族の――カノンのせいだと決め付けた。魔族を批判する国民もまたそう思い込み、いまやムードは完全にカノン討伐だ。
魔族がやったなどという証拠はない。が、神族を目の敵にするなど魔族しか考えられない、というのは神族のほとんどの者の共通意識だった。
国民が望むなら、それも仕方ない。女王として成すべきことは、国民が望むことだ。
自分の一存で国の意思を無碍にはできない。たとえそうできる地位であっても、それは女王としての行動ではないと思っている。
……だが、個人的意思を言うのであれば、敬介を殺したのはカノン――祐一たちではないと考えている。
そう信じたい、という気持ちももちろんあるが、それよりも状況が合わない。
祐一は頭が回る。それは子供の頃からそうだったし、諜報部から回ってくるカノン王国の情報を聞いてもそう思う。
現段階で祐一はまだどこの国とも戦いたくはないと思っている。国の基盤がまだ整っていないからだ。
故にこの状況、このタイミングで祐一たちがそんなことをする理由がない。
とするならば、これはそうしてカノンと自分たちをぶつけるための策略……という線が一番濃い。
「しかし、となると誰が……」
自分たちが潰し合って得する人物、ないし国。
「……シズク?」
その辺しか考えられないが、だが彼らにしては行動が回りくどい気がする。
「……むぅ」
駄目だ。他に該当しそうな国が見つからない。
とすると、
「誰か個人か……?」
だが、そうとも思えない。直感――というより“翼”がその考えを拒否している。
相手は国ではなく、また個人でもない。つまりは、
「一種の団体……ないし組織の犯行か」
だが、なおのことわからない。そういう組織が仮にあったとして、自分たちとカノンをぶつける必要性はなにか?
……どれだけ考えても、そこから先は見えてこなかった。
「予想以上に根が深いかもしれんの。今回の騒動」
ふと、扉の向こうに気配。敵ではない。見知った気配だ。
「ノックは良い。入れ」
扉の向こうに立つ者の小さな驚きが気配越しに伝わってくる。だが向こうも慣れたものか、それも一瞬であり、扉がゆっくりと開かれた。
「失礼します、女王」
入ってきたのは霧島聖。エア王国軍第三師団長であり、霊的手術の権威でもある女性だ。
抜き身の刀のように鋭い気配。だが、そこに野生のような熱は感じられず、ただ氷のように冷たい気配。
それはその整えられた鎧やきりっとした態度、そしてやや厳しい表情にとても似合っている。
――既に戦闘モードじゃのう。
日頃は……特に妹の佳乃と共にいるときはいまとはまるで対極のような温かい気配を振りまいているというのに。
まぁ、その切り替えの早さが聖の良さでもあるだろう、と心中で少しだけ笑った。
「何用じゃ?」
「はっ、第二師団と第三師団、および第二部隊と第三部隊、準備整いまして御座います。
第一師団と第一部隊、そして第四部隊も王都防衛の配置に着いたとのことです」
「そうか。ご苦労」
シズクの脅威がある以上、全部隊を率いて進撃……というわけにはいかない。
――というのは、もしかしたら建前かも知れんな。
無意識のうちに祐一や観鈴と戦いたくない、と思ってしまっているのかもしれない。
駄目な女王だな、と思いながら……ほんの少し、虚しい気分になってしまった。
「……女王」
「ん?」
「…………いえ」
「なんじゃ、言いかけて止めるでない。申せ」
「……」
聖は逡巡し、しかしそうと見せぬように表情を変え、
「美凪と二葉の件なのですが」
話を変えたな、と神奈は悟る。いま言いかけたことはそれではないだろう。
だが、言いたくないのなら別にそれでも構わない。聖は必要なことはちゃんと言う人物だ。
それに、その話も神奈にとっては重要な件だ。続けろ、と促すことにする。聖は頷き、
「美凪、二葉両名共にこのたびの作戦に参加したいと申しています」
「二葉は……まぁわかるとしても、何故美凪が?」
「さて……。理由だけは頑と申さなかったもので」
美凪は好戦的な人物ではない。むしろ安泰を望む、平和主義者だ。
それに彼女は、神族だけが住むことを許されるこの国においては異端。確かに四分の一は神族の血だとはいえ、それだけでは許さないのが周囲の神族たちだ。
――滑稽なことだがな。同じ生命に違いなどなかろうに。
とはいえ、それを神奈が言って国を荒らすわけにもいかない。第一、こういうのは上から言って従わせるのではなく、自ら知るべきことだ。
それはさておき、そんな美凪がなぜカノン進攻に参戦したがるのか。
……考えれば、なんとなく理由は思い至った。
――祐一、か。
思えば、あの二人はどことなく境遇が似ている。
早くに父も母も死に、周囲には異端として奇異の目で見られ、温もりを知らぬままに育ち――、そしてその存在意義までも。
なにか答えを見つけようとしているのだろうか。祐一と戦うことで、その過去に。
「いかがしましょうか」
「ふむ……」
美凪は、神奈にとって観鈴同様妹のような存在だった。だからこそ、その彼女の決断にはできる限り沿いたい、とも思う。
「良いだろう。美凪は連れてってやれ。じゃが……」
「二葉は、置いていきますか?」
先手を打たれた。聖に二葉の過去を話したことはないが、鋭い彼女のことだ。……薄々勘付いているのかもしれない。
「あぁ、そうしてくれ」
「御意」
慇懃に頭を下げ、聖が退出した。
それを見送り、神奈は再び眼下を見下ろす。
「二葉……。お主は未だ祐一を恨んでおるのか」
無理もない、とは思いつつも……やるせない気になってしまう神奈だった。
クラナド王国。
謁見の間、玉座に座る国王――宮沢和人の前にはクラナドの主要メンバーが皆跪き頭を垂らしている。
「皆も既に聞いていると思うが、昨夜エアの重鎮、橘敬介氏が何者かによって殺害された」
その皆を和人は見下ろし、威厳を込めて言う。
「エア側はこれをカノンの魔族どもの犯行と決め、現在進攻準備に入っている。
エアの大事となれば我が国の大事と同義。よって我々も時を同じくしてカノンへ攻め入ることとする」
「待ってください、陛下!」
その言葉を聞き、言葉を荒げたのは朋也だ。
そんな朋也を和人はどこまでも冷たい眼差しで見下げ、
「……なんだ?」
「カノンへ進攻すれば、敵の内にある有紀寧王女の身が危険に晒されます。それを陛下は――」
「だからと手を拱いていて事態が好転するか?」
「そ、それは……」
「カノンが魔族たちの手に落ちて二ヶ月。有紀寧のためにとこうして傍観していた結果が橘氏の死だ。
このままでいることはそれこそカノンの思う壺だとなぜわからない?」
ぐっと朋也は歯噛みする。悔しいが、和人の言っていることは間違ってはいない。いないが、
「……では、陛下は有紀寧王女を見捨てると?」
「仕方あるまい。有紀寧には運が悪かったと思ってもらうしかないだろう」
「陛下!」
「くどい!」
「が、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
和人の指が不規則な術の動きを見せた途端、朋也が頭を抱えて蹲る。
「朋也!」
「朋也くん!」
近くにいた騎士団長坂上智代と魔術士団長一ノ瀬ことみがその体をなんとか支えるが、あまりの激痛に朋也はそれすら気付いていない。
「お前はただ言うことを聞いていればいい。いっそここで殺すこともできるんだぞ?」
ふん、と鼻で笑う和人。それを智代がキッと睨み上げ、
「陛下! 朋也の力はクラナド王国にとって重要なもののはず! 殺すなどと――」
「ふん」
パチン、と和人の指が鳴ると同時朋也の激痛が治まり、力の抜けた身体が智代たちに寄りかかっていく。
それを支えつつ、それでも智代は和人を睨むのをやめない。
「なんだ坂上。なにか文句でもあるのか?」
「文句などありません。ですが、なぜ朋也の力を封印したままなのですか? 朋也の力さえあればカノンなど恐るるに足らないはずなのに……」
「その力を以ってまた裏切られてはたまったものではないからな。
お前こそ知っているだろう? あのときそこの男によってどれだけの兵がやられたと思っている?」
「それは――」
「危険な犬には鎖を付ける。当然のことだ」
犬。その言い方にいつもは冷静な智代ですら怒りを覚え、その腰に挿す剣に手を宛がい、
「!」
しかしその腕は止められた。
その腕はことみだ。ことみは首を横に振り、和人に視線を向け、
「陛下。カノンへ進攻する部隊の編成はどうされるのですか?」
話を進めるような言葉を放った。
ここで智代が剣を抜けば、智代だけでなく朋也にも被害が及ぶ。そのままもし聖痕の力で朋也が死ぬようなことがあれば、悔いても悔やみきれない。
そうなって嘆くのは智代も、またことみも同じこと。だから智代はそんなことみに心中で謝りを入れつつ剣から手を離した。
そんな三者を面白くなさそうに見ていた和人は、一息。声が通るようにとわずかに顔を上げ、
「カノンへは騎士団と魔術士団全隊を投入する。シズクに対する国の守りは近衛騎士団に任せる」
「「「!」」」
智代とことみ、その後ろで跪いていた近衛騎士団長芳野祐介までもがその言葉に息を呑んだ。
「恐れながら陛下、近衛騎士団だけの警護では万一シズクが攻めてきたときに対処できるかどうかは……」
祐介が頭を垂らしたまま異を唱えるが、和人はただ口元を歪めるのみ。
怪訝に表情を染める皆に、和人はやや自信気に口を開き、
「わかっている。そのため、というわけでもないが既に新たな部隊を結成してある。それも守備に回す。抜かりはない」
「新たな……部隊?」
疑問を口に出す祐介。それは智代もことみも同じことだ。そんなことはいままでに一度も聞いたことはない。
「後々わかる。いまは各々の準備を開始せよ。以上だ」
言うことは言った、と言わんばかりの態度で玉座から離れていく和人。
それを頭を垂らし見送った一同は、すぐさま朋也の周りへ集まってくる。
「すまんな、すぐに駆けつけてやれなくて」
「い、いえ……。あそこで芳野さんが来てたらきっとこの前の二の舞になってましたよ」
「あぁ、そうだな……」
安心させるように祐介に笑みを向け立ち上がろうとするが、まだ身体がふらつく。バランスを崩しそうになり、だが智代とことみに支えられた。
「っ……、悪いな。智代、ことみ」
「そんな身体で私たちのことは気にするな、朋也」
「いまは朋也くんの方が心配なの」
そんな二人の心遣いに、朋也は力ない笑みを浮かべるのみだった。
智代たちの肩を借りてなんとか立ち上がった朋也は息を整えるように大きく息を吐き、
「近衛騎士団は守備配置……か。体良く動きを抑えられたな」
「陛下は朋也の力を恐れているからな。本気であれば、小国家程度一人で壊滅できるだろう朋也の力をこのクラナドに向けられるのではないか、と」
「無茶は言うな智代。いくら俺だってそんなことできるわけないだろ?」
「いや、朋也は自分の力のすごさをわかってない。もしお前が本気になったら私を含めここにいる全員で同時に掛かってもまず勝てないだろう」
そうなのだろうか。あまり力を誰かに向けようとはしなかったあの頃ではよくわからないことだ。
だが、いまはあのときの力があれば……と悔しい気持ちになることが多い。
とはいえ結局それも叶わぬこと。それで割り切れればどれだけ楽なことだか……。
「大丈夫」
不意な声は、ことみだ。ことみは笑みを持ち、
「有紀寧ちゃんのことは私たちに任せるの。智代ちゃんと一緒に、絶対に助け出すから」
その瞳、その言葉、その触れる手の暖かさ。どれもが心強い……そう思える。
横では智代も頷いている。
大丈夫だ。自分には、この仲間たちがいる。あのときの力は戻らなくとも、それはかけがいのないものであり――、
「あぁ、頼んだ」
信頼できるものだ。
ワン自治領。
首都ワンの中央に聳える王城、ワン城の通路を歩く少女がいる。
栗色の髪を腰にまで垂らした少女だ。その少女はやや早足で目的の場所に向かっていた。
一際大きな扉の前にて歩を止める。普通の城であるなら間違いなく王室であろう場所に、しかしその少女はノックもせずに入室する。
「浩平、大変だよ!」
少女の第一声。だが、それに返る言葉はない。
少女が周囲を見渡す。するとデスクの方、大きく椅子を仰け反らせ、両足をデスクにどかっと乗せた青年がいた。
「もう、浩平。またそんな格好して……。浩平は王様なんだよ?」
その青年、名を折原浩平。
威厳もなにもないように見えるが、これでこのワン自治領の王である。
その浩平はんー、と気の抜けた返事をするだけ。少女――この王の秘書官をしている長森瑞佳は小さく嘆息し、浩平に近づいていく。
「それよりも浩平、大変だよ」
「エアの橘敬介が死んだことならもう聞いたぞ」
「あ、そうなんだ」
ならどうしてボーっとしているの、と訊こうとして――しかし言葉を止めた。
見えた横顔に、いつもの陽気さがまるでない。その表情は幼馴染の瑞佳ですらあまり見ない真剣さに包まれていた。
「……浩平」
「長森。お前、今回の件……どう思う?」
「え、どうって……」
「風評通り、カノンの誰かがやったと思うか?」
えーと、と瑞佳は考える。だが、出てくる答えは一つでしかなくて、
「多分、違うと思う」
「根拠は?」
「いまカノンは必死に国造りをしてる。国民の信頼もようやく得てきたこのタイミングでやることじゃないと思う。それに……」
「それに?」
「里村さんから聞いた話じゃ、そんなことする人には思えないしね、相沢王って」
ふむ、と頷く浩平。その頷きがいったいどういったものなのかは、瑞佳にはよくわからない。
長年幼馴染をやっているが、いまだに破天荒な彼の考えていることは把握しきれない。特にこういった真面目なときは特に……。
だから、こちらから訊くしかない。
「でも、真偽はともかくエアとクラナドはカノンへの進攻準備をし始めてるよ? 私たちはどうするの?」
「このまま中立を保てば、まぁ二国は黙っちゃいないだろうなぁ」
「……じゃあ?」
「それでも中立を貫くさ。俺たちがカノンを攻める必要性はない。エアに従う理由もない。それで攻められるなら――戦うだけさ」
「……でも、それじゃあカノンにはなにもしないの? ただ傍観してるだけ?」
「茜も随分と肩入れしてるしなぁ。俺としてもその相沢ってやつの思想は共感を覚えるんだが……その前に俺はここの王だからな。
国民の意思に俺は従う。一存でどうこうは決められないさ」
浩平の言っていることは正しい。だが、それでは……。
「そんな顔するな。暇なときにちょくちょく街に出てその話を国民に聞かせてる。概ね賛成してくれてるよ。あとは……時間だな」
ワンには人間族だけでなく、若干名だが魔族や神族もいる。どちらもなにかしらの理由で自分の国を追われた者たちかその血族だ。
だがその存在は秘匿とされている。それが明るみになれば、ワンはエアやクラナドに攻め込まれてしまうからだ。
大儀よりも、嘘で戦わずにすむのならそちらを選択するのが浩平だ。だが、それは恭順しているというわけじゃない。
もし、どうしても譲れない一線を相手が踏み越えてくれば浩平は容赦なく戦いを選択するだろう。
ただ浩平は……自国の民を愛しているだけなのだから。
だけど、
「でも、その時間がくる前にカノンが潰れちゃうかもしれない」
「かもしれない。だから、ちゃんとそれ用に手は打ってある」
「……え?」
思わぬ返答に首を傾げると同時、軽い音が部屋に響き渡った。
「失礼するわよ」
言葉と共に開く扉。その向こうから現れたのは二人の少女で、
「……え?」
それこそ意外。この二人が王城に現れるなど、滅多にないはずなのに……。
「お、来たか」
だが、浩平はそれを待っていたかのように小さく笑った。
「お久しぶり。雪見さん、澪」
そこにいる二人の少女に対し浩平が軽く手を上げる。
右側、色の抜けた赤髪のウェーブを揺らして鋭い視線を向けてくるのは深山雪見。
左側、頭の後ろに見える大きなリボンが印象的な、にこにことしている上月澪。
両名とも、ワンの軍籍にこそ名を連ねていないがかなりの実力者であり、また浩平や瑞佳の共通の友人でもある。
「呼ばれたとおり来たけど、いったいなんの用?」
「悪いんだけど、二人に大事な話があるんだ」
話? と首を傾げる雪見たち。だがそこで瑞佳は浩平の思惑に気が付いた。
振り向けば、浩平はいつもの……悪戯をしているときのような笑みを浮かべていて。
「浩平……」
「言ったろ? 既に手は打ってあるって」
キー大陸にある四国が動き出す。
止まっていた時間はもう終わり。
あとは……どこかが止まらざるをえない状態に陥るまで、動き続ける。
「ふふふふふ……」
白髪の少女はその高みでただ笑う。
あとがき
ども、神無月です。
えー、はい。なんとか均衡していた各国の緊張が崩れました。
いよいよ次回から各国動き出します。
混迷へ向かうキー大陸。はたしてこれからどうなっていくのか?
お楽しみに。