神魔戦記 間章 (六十五〜六十六)
「エクレール」
カノン王城の地下牢獄。
光が差し込まない地下の世界では、遠い間隔で設置された灯りが儚げに揺れて明暗を作り出している。
奥へと続いていく牢。だが、いまこの広く静かな空間にいるのはただ一人だけ。
一番手前。階段から見える場所にある牢に、いま一人の少女が瞼を閉じて座り込んでいる。
青い短髪のその少女の名は、エクレール。……以前カノンを攻め込んできた、ホーリーフレイムの一人であった。
だがいまはその両手に魔力封印の文字魔術を込められた手錠をされ、投獄されている。
響く音は何もなく、ただ無音が続く中で、
「……っ」
不意にエクレールの眉がわずかに動いた。それにわずかに遅れて、階段の上の方からわずかな物音が響いてくる。
軽い金属が擦れ合うような小さな音だ。
どんどん近付いてくる音にも、しかしエクレールは何の反応も見せない。
なぜならこれは、この無作為な二ヶ月の間でいつものことだったからだ。
音は丁度、エクレールの目の前で止まった。そして、
「あの、昼食、持ってきました」
少女の声。わずかにこちらを伺うような声色の、それもいつもの声だった。
とはいえ、別段こちらを恐れているというものではない。単純に、こちらの機嫌を伺うような、そんな意味合いだろう。
「えっと……エクレールさん?」
無反応なこちらに対し、少女の困ったような雰囲気が伝わってくる。それに嘆息し、エクレールはゆっくりと瞼を開けた。
視界に映るのは昼食を乗せたお盆を持った、薄白い髪を肩まで垂らした可愛い顔の少女。
この二ヶ月で随分と見慣れた顔だ。
その名は雨宮亜衣。エクレールがカノンに侵略に来たときに戦った相手でもある。
「お腹、空いてませんか? 今日は美咲さんご自慢のシチューなんですよ〜?」
こちらの視線を反応ありと受け取ったのか、喜々としてお盆を置く亜衣。
「すごい美味しいんです。亜衣もいつかはこれくらいのお料理を作ってみたいんですが……どうにも上手くいかないんですよねぇ」
あはは、と苦笑しつつ食器を牢下側の通過口からこちらに入れてくる。
確かにそのシチューは見た目に美味しそうで、食欲をそそられるものだった。
「……ふぅ」
吐息一つしつつ、エクレールはその食器に手を伸ばす。
……本来ならば、魔族の仲間が作った料理など口に含まず、自害を選ぶ。
それこそがホーリーフレイムの幹部たる自分が魔族に敗北した後の末路だと思っていた。
しかし捕虜となってすぐ、シオンと名乗る錬金術師に脳を弄られ、自ら死に繋がる行為ができなくなるようにされてしまった。
最悪だ。
故に、餓死しないようにと身体は意思に反してこのように食べ物に手を出してしまう。
そうして、スプーンを手にとってシチューを口に含む。
身体は素直だ。確かにこの少女の言うとおり、そのシチューは美味しかった。
「どうですか? 美味しいですよね?」
まるで自分のことであるように笑顔で聞いてくる亜衣。
ここで美味しい、とでも言えば喜ぶだろう。でも、いつもはここで無言を返すのがエクレールだった。
亜衣も、最初こそ意気消沈していたが、いまはさほどそれを気にしなくなっていた。
けれど、言葉は不意に口から漏れた。
「どうして」
「……え?」
「どうしてわたくしを生かすのです?」
それは捕虜となってからずっと、この牢の中で延々考えていたことだ。
情報を得るため、というのならまだわかる。しかし、それはシオンのエーテライトによって既に抜き取られている。
ならば生かす必要などないはずだ。
こちらも死にたいと望んでいるのに、なぜ死なせてはくれないのか。
……おそらくこの少女に言ったところでどうしようもないことだろう、とは理解している。けれど、それでも一度問い質したかった。
「どうして……わたくしを生かすのです? 死にたいと願う、わたくしを」
再び同じ問いを投げかける。
亜衣は、悲しそうな表情で俯いていた。
なぜ、と思う。なぜ、一度は自分を殺しそうになった相手が自殺したいというだけでそんな表情をするのか。
「亜衣は……よくはわかりません。全てを決定するのは、祐一さんですから」
でも、と続け、亜衣はわずかに顔をあげる。そこには懇願のような意思が見え、
「でも、亜衣は……できることなら誰にも死んで欲しくないと思っています。それは、エクレールさんも同じです」
「戯言ですわ。戦場に赴く人間の言う言葉ではありませんわね」
「そうです。戯言です。理想論です。亜衣だってこの手で人を殺しました。それくらい、わかってます。でも……」
亜衣は自らの手を見下ろし、
「だからこそ、思います。戦場で助かった命なら、その命を粗末にしてほしくはない、って。通したい意志があったり、譲れない思いがあるのは理解できます。でも、だからって死ぬのは良くないと思うんです。……死んだらなにもかも終わりじゃないですか」
最後の言葉は、消え入りそうなかすかなものだった。
その言葉に込められた意味に、エクレールは口を開く。
「……誰か、大切な人を亡くしたことがあるのですか?」
「……はい。両親を、亡くしました」
力ない言葉。
「カノン軍が、エフィランズに大量殺戮兵器を使ってきたんです。本当に一瞬のできごとでした。……それまで平和に暮らしていたのに、そんなのが嘘みたいに一瞬で消し飛んだんです。なにもかも」
「つまり、あなたの両親はカノン軍――人間族に殺された。だから魔族の仲間になって、復讐をしようと?」
常々、どうして人間族であるはずのこの少女が魔族に加担するのか疑問に思っていたのだが、これで納得がいった。
なるほど、確かにその状況なら人間族に恨みを持ってもおかしくはない。魔族に加担したくもなるだろう。だが亜衣は曖昧に首を振り、
「確かに、最初は復讐をしようと思ってました」
「……最初は?」
「はい。……実は祐一さんも、魔族のお父さんと神族のお母さん……両親をカノンに殺されてるんです。知ってましたか?」
初耳だ。こちらの驚きを知らなかったことと見て亜衣は頷き、
「祐一さんはその復讐のためにカノンに戦いを挑んでいたんです。だからこそ亜衣の意思も通じるだろうと、そう思ってました」
一拍の間。
「……確かに、祐一さんに通じました。でも、その上で祐一さんはこう聞いてきました。『復讐を遂げ終えたとして、お前はその後どうする』って」
「!」
復讐を遂げ終えたとして、その後どうするか。
……そんなこと、考えたこともなかった。
復讐を終えることなどない。そう思っていたから……。
「亜衣は答えられませんでした。だって復讐をしよう、と思った直後のことでしたから。
……でも、祐一さんは十数年、ずっとずっと考えて、迷って、それでも答えを出したんです。…・・・『新しい国を造る』と」
亜衣は手を祈るように組み、浅く目を閉じて、
「魔族、神族、人間族、獣人族、エルフ、スピリット……。全ての種族が共存できる国を造る。種族同士のいがみ合いを失くして、恨みや憎しみを抱かないですむ世界があれば……それはとても素晴らしいことだと思いますから」
まず最初に馬鹿な、という単語が頭に浮かんだ。次いでありえない、とも。
けれど、目の前の少女はそれを信じている。そうとわかる表情を浮かべている。
「……そんな世界が本当に造れるとでも?」
問えば、亜衣は小さく笑いを浮かべた。
次いで笑ったことに対しごめんなさい、と前置きして、
「亜衣も似たような台詞を返しましたから。そう言うと祐一さんは『やる前に無理だと決め付けていたらなにも進まないし進めない』って。
あぁ、確かになぁ、って。そう思ったんですよ」
「安易ですわね」
「安易ですよ。そんな言葉で信じちゃうんですから。でもそんな安易な人がたくさんいれば、そんな国もできる気がしませんか?
事実この国の人たちは大半がそんな安易な人たちばかりのようで、徐々にですが祐一さんの思想が浸透してきてます。
……まぁ、でもやっぱり中には絶対にそういうの許せない人たちもいて、エアやクラナドに亡命する人もいますけど」
でも、と亜衣は瞼を開け、
「それでもそうして出来上がっていくものがあることは、やっぱり切っ掛けがないと築けないものですから」
強い瞳だ。どのような苦難があってもめげないと、そう告げているような、そんな目。
とても十二、三の少女がするような目ではない。幸せに暮らしていた少女では、このような目はできないだろう。
過去に傷を負い、それでもなおなにかの信念に基づきその道を進もうと、そう決めた者の目だ。
――昔の自分を見ているようですわね。
その目は、いつかの自分の決心を彷彿させた。
「……わたくしも、似たようなものですわ」
「え?」
「いえ。ただ、食事中のつまらない独り言です。聞き流してくださいな」
言って、エクレールは再びシチューを口に運ぶ。そうして主食であるパンを手で千切りつつ、
「わたくしは、辺境ののどかな村に生まれましたの。辺鄙な村でしたから人は少なかったんですが、それでも楽しく暮らしていましたわ。……三歳のときまでは」
亜衣の表情が動くのを視界に納めつつ、パンをシチューにつけ口に含む。それを飲み下し、
「突然でしたわ。……魔族が攻めてきましたの。老若男女厭わず、目に映るもの全てを皆殺しにしながら」
いまでもはっきりと思い出せる、あの光景。
思い出されるのは助けを求める叫び声と、赤いイメージ。
炎の赤。血の赤。そして……魔族どもの眼の赤。
「わたくしは、母によって家の地下収納に隠され、無事でした。……ですが、そこから見た地上の景色はまさに地獄でしたわ。わたくしの目の前で母も、父も、弟も殺された。……弟なんて、まだ生まれたばかりだというのに、あいつらは――」
その小さな身体を持ち上げ、ゴミのように片手で握りつぶした。
吹き出た血は、扉を伝って自分の頬にまで垂れてきて。
……あの熱、あの赤を、いまでもこの頬に感じるほどで。
「……奴らは、食料を盗るでも金品を盗るでもなかった。ただ純粋に殺戮衝動を埋めたかっただけなのです。……わたくしたちを使って」
「そんな……」
「あら、これは独り言よ? 茶々を挟まないでくださる?」
言われたとおりにして口を噤む亜衣。素直な子ですわ、と思いつつ再びパンを千切りシチューにつける。
「そうしてわたくしを除く全員が殺され、村に呆然と立ち尽くしていたわたくしに、偶然立ち寄った一人の女性が声を掛けてくださいました」
それが、と口に出した直後にハッとして口を抑える。そんな動作に思わず笑みが浮かびそうになるが、ここは独り言。それは無しの方向でいこう。
「それこそ、ホーリーフレイム総帥、ジャンヌ様だったのですわ」
一人壊滅した村に立ち尽くす自分。その自分を見つけ、その神々しいまでの風貌を携えたジャンヌがこちらを見下ろして、言った一言。
『共に行こう』
この世界から魔族を排除して、平和をもたらそう。そう告げたジャンヌにエクレールは、確かに強く共感したのだ。
だからこそ死に物狂いで特訓と修行をし、幹部まで上り詰め、どんなときもジャンヌの役に立てるように、恩を返せるようにと剣を振るった。
心地良かった。自分たちの行っていること全てが正しいのだと、そう信じていることが出来たから。
……けれど、けれど今は?
「エクレールさん」
名を呼ばれ、思考を中断する。パンを口に含ませつつ見上げれば、真剣な表情をした亜衣がいる。
何を言うのかと、そう身構えれば、
「お替りは、どうですか?」
「……はぁ?」
「あ、きっともっと食べますよね? 亜衣、持ってきますね」
いきなり素っ頓狂なことを聞いてきたかと思えば次は自己完結ときた。
わけがわからず動きを止めるエクレールをよそに、亜衣はパタパタと階段の方まで足を向けて、
「……?」
止まった。
そうしてこちらに背中を向けた状態のままに、
「……エクレールさんは独り言を呟きました。そして、それを亜衣が偶然聞いてしまいました。きっと、この状況で亜衣がなにかを問うたり意見したりするのはお門違いだと思うんです」
「……」
「だから、これは亜衣の独り言です」
亜衣はわずかに肩越しにこちらを向き、
「エクレールさんたちのやり方では、平和になんかなれないと思います」
「……」
沈黙。そこから数秒の間が開き、亜衣が視線を階段の上に戻すと同時に、
「エクレールさんはとっても良い人なんだと思います」
でも、と前置きし、
「……エクレールさんの戦い方は世界を平和にしたいというよりも……助けてもらったジャンヌさんの役に立ちたいと、そう願う戦い方だと思うんです」
「!」
「生意気な言い方でごめんなさい。でも、これは独り言ですから」
踏み出し階段を昇っていく亜衣。だがそれを押し止めるようにエクレールが口を開き、
「なら、こちらも独り言を述べますわ。疑問に思うことを」
亜衣の歩が止まったことを確認し、エクレールが疑問を紡ぐ。
「同じ種族同士ですら戦争をし、互いを憎み合うこの世界で……全種族共存なんて生ぬるい夢想が実現し得ると、あなたは思っていますの?」
「思います」
即答だった。
「難しくて、時間も掛かる大変なことだっていうのはわかってます。でも、祐一さんなら……そんな世界を創れると思うんです。
そう信じられるから、亜衣はあの人と一緒に頑張るんです。亜衣なんてたいした力になれないけど……でも少しでもお手伝いができるのなら、って」
底まで続けて、あ、と何かに気付いたような声が漏れ、
「……独り言に答えてしまいました」
その様にエクレールは口元がわずかに崩れるのを自覚した。
とはいえそれを見せるわけにもいかず、エクレールは言葉を発さぬまま顔を背けた。
それをどう見たかは知らないが、亜衣もまた無言のままに地下牢を出て行った。
気配を辿れないので、それを音で確認したエクレールは小さく一息。
「まったく……困ったお嬢ちゃんですわね」
牢に背を預けると同時に漏れた言葉はいったいどういう意味なのか。
……自分でもよくわからなかった。
「……世界の平和、ですか」
まぁ、考える時間はある。
相手は殺さず、こっちも死ねぬというのなら、この無為な時間も当分は続くのだろう。
ならその間を思考に当てるのも悪くない。それで答えが出るとも思えないが、まとめるにはちょうど良いだろう。
スプーンを手に取り、シチューを掬って口に運ぶ。
「美味しいですわね」
素直に漏れた、感想だった。
あとがき
どーも、神無月です。
というわけで、今回は間章エクレールです。
エクレール、原作では声もないキャラですが、個人的には好きな部類に入ります。くそぅ、仲間にできれば……。
キー大陸編は前半に結構な量の間章の予定があります。多分次はヘリオン。
お楽しみに。