神魔戦記 第百七十三章
「我らが国を取り戻せ!」
静寂に支配された王都カノン。普段は活気があっただろう街の中心にも、いまは人の姿はおろか気配さえ感じられない。
これが戦の後だとわかるほどに荒れていれば人がいないのも当たり前と頷けるが、カノンとウォーターサマーの戦いは計らずも少数同士の激突となった。
そのため局所的には荒れているが、全体的に見れば王都は綺麗なまま保たれていると言って良い。
だからこそ、人気が何もないというのは不気味に映る。生活感が残っているのに人がいないというのは、まるで自分だけが別世界に迷い込んだかのようすら感じられる。
「……なんてね。別世界なんてものにはもう慣れた僕が言うことじゃないか」
ある民家の屋根の上、足をぷらぷらさせながら座る氷上シュンは苦笑まじりに呟いた。
「でも、うん。良い街だよね、ここ。いつもはさぞ人の笑顔が溢れていたんだろう?」
「さてどうだったか。興味もなかったので覚えていないな」
声は背後から。そこに眼鏡をかけた一人の青年が立っている。もちろんシュンは彼がそこにいたことにはとっくに気付いていた。
「っていうか、君はどうしてそう人の背後に立つのが好きかなぁ。人の正面に立つのがそんなに怖いかい?」
「あぁ、怖いな。特にまだお前たちと同列ではなかった少し前までは」
「ふーん。その言い方から察するに……貰い受けたんだ?」
「ええ、私も驚いたがね。予定を早める必要性があったらしい」
「なるほどね。でもそうなると、もうカノンの人たちは君の事を覚えてないわけだね? ――久瀬隆之くん」
首だけを振り向かせれば、その男――かつて相沢祐一の片腕と言われていた久瀬隆之は、だからどうしたと言わんばかりに嘆息しながら眼鏡を正す。
「関係ないな。自分のことを覚えていてもらいたいなどという人間染みた感覚は生憎持ち合わせていない」
それに、と隆之は眼鏡を押し上げ、
「前々から敢えて人の記憶に留まらぬよう目立たぬ配慮をしてきたし、大きな仕事も私ではなく美坂香里や天野美汐に割り振って『私』という存在を薄めてもいた」
「相変わらずそういう面倒なこと好きだね? けど、そんなことしなくても記憶は消えるというのに、なんでわざわざ?」
「記憶から消える、というのは万能ではない。例えば私が過去に大きな功績を残したとしよう。皆から私の記憶が消えたとて、その功績が消えたわけではない。
もしもいつか誰かが過去のその功績を見つけ、しかし行った人物の記憶も記録もないという矛盾に気付いたとき……」
「記憶が戻る可能性もある、か。限りなく低くはあるけど、確かに実例がないわけじゃないしね」
そう、実例がないわけじゃない。過去に数回、そういった事例はあったのだ。
「であれば、万全の準備をするまでのこと」
「なるほどね。君が『ド』がつくくらい真面目だってことはわかったよ」
でも、と前置きしてからシュンは懐から紙切れを一枚取り出し前方に投げた。 にも関わらず、紙はふわりとUターンし後ろにいる隆之の手の中におさまった。
魔力で風を操作したのだろう。簡単に見えてその実、こういった細かい操作はかなり難しいものである。
無論のこと、シュンが見せたいのはそんな小手先の技術ではなく紙……否、正確に言えば写真であるわけだが。
「こんなものが届くとは僕も予想外だったよ。いくらタイミングが良いからって、こっちまでけしかけるなんて君も結構大胆になったものだよね」
「……何を言っている」
「え? いやだからさ――」
その写真のことだよ、と言いかけてシュンは動きを止めた。いまの隆之の声にとぼけた気配はなかったからだ。
だとするならば――。
「……もう一度確認するよ。もしかして君はその写真を……知らないのかい?」
「知らない。私が撮ったものでもない」
シュンの表情から笑みが消えた。どんなときであってもそのアルカイックスマイルを崩さぬはずの彼が、である。
何故なら、これは二人にとってとてつもなく大きな意味を持つからだ。
「白河ことりと白河さやかが一緒にいるこの写真……。これがなければウォーターサマーはカノンを攻めはしなかった。
この写真は使い魔を利用して直接僕のところに運ばれたから、君からの贈り物だと思ったわけだけど……」
良和でもない。宏でもない。ウォーターサマーの王でもない。周囲から見れば水瀬の食客扱いでしかないシュンに対してこれを渡してきた。
それはつまり、ウォーターサマーを誘導しているのがシュンであると知っているということだ。
「私じゃない。そもそも計画の前倒しの一因はこのウォーターサマーの侵攻もあるくらいだ。むしろその件でお前に一言いってやろうと思っていたところだが……」
「つまり……僕らは利用されたわけだ。僕たちの正体を知り、そしてカノンを追い詰めようとしている……カノン内部の誰かに」
隆之とシュンの繋がりを知らなければ、シュンが動くと断定は出来ない。
何故なら、もしシュンに『カノンに隆之という仲間がいる』という事実がなければ、写真を受け取ったとしても信じはしなかっただろう。
更に加えて、ことりとさやかの写真を撮れる者など限られている。この『誰か』はまず間違いなくカノン内部、しかも主力級の者だ。
理由は簡単。この写真はことりはともかくさやかがこの至近距離で気付かない、あるいは気付いていても警戒していない者にしかこの写真は撮れないからだ。
「二重の意味で驚きだよ。僕らの正体を知っていることもだけど……あの仲が良さそうなカノンの中にこんな辛辣な手を打つ裏切り者がいることもね」
「……確かにな。しばらくカノンにいたが、それらしい動きは感じたこともない。私も欺かれていたということか……」
隆之はその与えられた任務の性質上、カノンの高名な将に対して常に監視をし続けていた。
にも関わらず、裏切り者(隆之にとってどうかはまだわからないが)と思われる素振りは誰も見せていない。
誰にも悟られず気付かれず、そしてシュンと隆之の関係やその正体を知った上で誘導した何者か。
「これはちょっと厄介なことになったね」
「ええ。であれば、私は早急に戻ることにする。このことも報告しなければならん」
「そうだね。こっちも正直かなり気にはなるけど……僕はもうしばらくウォーターサマーの中に潜んでおくよ」
「……伊吹風子か」
「あぁ。ウォーターサマーの他の連中はどうでも良いけど彼女だけは別だ。彼女はエターナルに匹敵……いや凌駕さえしかねない。
にもかかわらず、本人がその力の重要性をまったく理解していないことが性質が悪い」
例えば蜘蛛の初音や吸血鬼のアルクェイドなどであれば、その力を自覚している分まだ対処しやすい。だが風子は凶悪な力を持ったただの子供だ。
気分次第で何を起こすかわかったものではない。そんな人物が今後、自分たちの計画に支障をきたさないとも限らないのだ。だから、
「しばらく様子を見てもしもどうにもならないと判断したなら……僕が彼女を殺す」
「出来るのか? お前がさっき言ったばかりだが、エターナルにも匹敵するのだろう?」
「本気を出せば、ね。ただ彼女はいまだ自分と互角以上の戦闘経験がなく、必ず相手を見下して見るところがある。奇襲が得意な僕だからこそ、勝算は高いはずさ」
正面から戦えば難しい。なら話は簡単で、最初から正面から挑まなければ良いだけのこと。単純な話だ。
そして奇襲はシュンの十八番であり、相手の性格も鑑みればその成功率は100%近い。だが、それは最終手段である。
「もう少し成長して、世界への認識とかいろいろと学んでくれれば大助かりなんだけどね」
「そう上手く行くとも思えんが……精々頑張ると良い。私は一足先に表舞台から袖に下りるとしよう」
「あぁお疲れ様」
告げる頃にはもう背後に隆之の姿はなかった。
忙しい人だね、と思うが、彼の状況を考えればむしろいままでが暇すぎたのだろう。自分から空気になろうとするのも面倒だ。
「さて、と。これから忙しくなりそうだねぇ……」
立ち上がる。そうして一つ伸びをして、
「謎の裏切り者も気にはなるけど……鬼のお姫様はまだ虫遊びに夢中かなぁ?」
瞼を閉じてもありありとわかる、最強の鬼の気配を辿ってカノン王城を見つめた。
伊吹公子はカノンの王城内を歩いていた。
現在ウォーターサマーの者には各自自由に待機、ただし王都からは出ないようにという命令が出ている。
命令を出したのはもちろん良和、宏、小夜の三人だ。合流した水瀬家を含む三家は、この王都でカノンの主力部隊を待っているのだ。
――水夏が見つけた件の装置。二つのうち片方が破壊され、もう一つが無事であるもののどのような操作をしても動きもしなかった。
だがそれを見た氷上シュンが、装置は受信と送信で別でありだからこそ片方だけ壊したのではないかという考えを示し、それはその場にいる誰もが納得するものだった。
民が消えたのは間違いなくそこで間違いない。そして敵の幹部がその命を賭してまで片方を壊したということは、それ相応の理由があるはず。
それが追撃阻止であるならば、もう片方の装置は受信側……つまりカノンの主力がやって来るかもしれないということになる。
そうなればウォーターサマーの決断は早かった。
迎え撃つ。そのための策も何もない。王都を奪還するために来るカノンの主力を殺し、あるいは捕まえ、そして王女や白河さやかの居所を吐かせる。
とはいえ良和や小夜辺りは、もしも奪還に来るのなら白河さやかも一緒にやってくるだろうと踏んでいるようだったが。
稲葉家は難を示していたが、現在三家となってしまっている以上、征木と水瀬が結託してしまえばそれでお終いなのである。
結局何の策も罠もないまま自由待機だ。もちろん会議にさえ出ていなかった風子はそんなの関係なしにどこかへと消えた。王都カノンを制圧してからというもの、彼女はどこかで遊びに行くかのような足取りでどこかに向かうのが日課のようであった。
それはそれで良い。あてがわれた部屋に閉じこもり星型(風子が言うにはヒトデ)を構っているよりはよっぽど有意義だろう、と。
だがそれもこう連日で続くと気になるのが姉というものだろうか。だから公子はいま城内で風子を探している。征木直下の兵が言うには城外には出ていないという話だったが、能力が多岐にわたる風子だ。姿や気配を消しての移動や空間跳躍などを持っていてもなんら不思議ではない。
見つかれば良いけど、と不安を感じた矢先だった。
「〜♪」
鼻歌が聞こえる。そしてその声は間違いなく風子のものだった。
苦笑する。どうやらいらぬ心配だったらしい。それに彼女がこうも機嫌が良いのも珍しい。何があったのだろうか。
「おはよう、ふうちゃん。何を――」
角を曲がり、中央の大広間のような場所に出た。そこにいるだろう風子に話を掛けようとした公子だったが、その笑顔は一瞬で凍りつく。
「え……?」
その光景を見て、血の気が引いた。
「ふうちゃん……? 一体なにをしているの?」
「あ、お姉ちゃん」
返ってきた声はいつも通りの爛漫なもの。……だが、眼前に広がったその光景は狂気そのものだった。
血が、流れている。
それだけならまだ良い。公子もここで戦いがあったことは知っている。血が流れていたとて不思議はない。
だがその血は黒ではなく赤。つまり固まった古いものではなく、真新しいもの。
それも当然。なぜならば、
「あ……ぅあ……」
呻いているソレは、間違いなく生きているのだから。
ソレはまさに字の如く、十字架のように壁に貼り付けられていた。
手を、足を、翼を、そして腹を……縫いつけるように星型の力が串刺しにしている。
……それは少女だった。
おそらくとても可憐な少女だったのだろう。が、その表情は生気の抜けた……そう、まさに“人形”のようなものだった。
唇を噛み締めて堪えたのだろう、口の端から血の流れた痕がある。泣き叫んだのだろう、涙の痕もくっきりと残っていた。
相当な激痛だったに違いない。だが度重なる痛みの波に、その少女の自意識は崩壊しているようだった。
ともすれば、死んだ方が少女にとっては救いだったかもしれない。けれど少女は生かされていた。
少女の頭上に白く光る星型がくるくると回っている。風子の力はその色によって効果を分けるが、あれはその中でも治療の力を持つものだ。
ショック死や出血多量死など認めないと言わんばかりに風子の治癒能力が少女に降り注いでいる。
治療と激痛の間断なき連鎖。それはもう、生き地獄と言って何の差支えがあるだろう?
「見てください、お姉ちゃん。この子は風子の友達なんです」
「とも……だ、ち……?」
何を言っているのだ、という姉の怪訝にさえ気付かず、風子は心底喜んでいるように顔を綻ばせて、
あまりに無造作に、あまりに無邪気に、手に持つ星型を少女の足に突き刺した。
「…………ッッぃあ!!?」
声にならない悲鳴が上がるが、それが聞こえていないかのように風子は公子だけを見つめていた。
その視線にまるで邪気がないことを見て取って、
「何を……何をしてるんですかふうちゃん!!」
ようやく公子は我に返った。
「? 何を、って。そんなの見ればわかります。風子はお友達と遊んでいるんですよ?」
意味が分からない、と風子は首を傾げた。それは、心底からの本音だった。
「聞いてくださいお姉ちゃん。この子は、風子と似たような能力を持ってるんです。綺麗なんですよ?
こう、黒い羽がぶわーっと舞って、風子のヒトデみたいにいろいろな方向からいろいろな能力で動き回るんです!
しかも風子が殺すつもりで撃った攻撃を受けて生きてたんですよ? これはもう友達になるしかないと思いませんか?」
「なっ――」
「でもですね、この子風子の友達にはなってくれないんだそうです。風子悲しいです。涙出てしまいます。
でも風子は優しいのでやむをえません。友達になってくれないのなら、“するしかない”ですよね?
だからこうして風子はこの子に教えてあげてるんです。風子の友達になれることの幸福さを」
いけしゃあしゃあと言い張る風子に、公子は言葉が出なかった。
伊吹に生まれ『天才』と称された風子はそれこそ何をしても怒られることはなく、あまつさえ崇め奉られさえした。
だからこそ風子の意識に『悪』というものはない。自らの行動・思考全てが『正義』であり『絶対』だと信じきっている。
自らの邪魔をする者は殺す。自分を楽しませる者ならば手に入れる。唯我独尊の行動が、当然であるのだと認識していた。
「……っ」
わかっていながら、それでも何も言えなかった自分が悪いのだろう。
姉と言えど、伊吹において力の差こそが序列の基本。公子程度の能力では妹の風子に意見するだけで処罰ものだ。
だが、それを恐れず叱れば良かった。いけないことはいけないのだと、そう教えておけばこんなことにはならなかったはずなのに。
戦いの中にあっては、それもやむなしと思っていた。思っていたが、これはもう戦いなどではないではないか。
風子には罪悪感がない。ないのだから正せと言っても意味もあるまい。風子にとってはこれこそが正しいことなのだから。
――けど。
そう、けれど、後悔するだけでは解決にならない。昔に出来なかったことなら、いますれば良い。
もう遅いかもしれない。けれど、だからと言って何も言わなければ、そのつけは更なる未来に圧し掛かってくる。
それを避けるためには、いま、自分がこれが間違っているということを教えなくては。
「……ふうちゃん」
「はい? なんでしょうお姉ちゃん」
わずかに手が震える。けれどそれを押し殺し、公子は毅然な態度で風子を正面から見つめた。
「ふうちゃん。そんなことはもうやめて」
「……?」
「ふうちゃん。それはいけないことなの。そんな風に、人を……いえ、生きている者ならなんであろうと、そんなことをしては駄目」
「何を言っているんですか、お姉ちゃん」
「ふうちゃんのしていることはとってもいけないことなの。だって――」
と、続けようとした声はしかしかすれた声に取って代わった。
「……なっ、……え?」
最初に感じたのは、虚脱感。そして背中を伝う悪寒を感じ、そして寒気を感じる頃には公子の視界は九十度ずれていた。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんはまるでわかっていません」
床が横にあり、横に座っている風子が表情を変えずに言う。
「いけないこと、なんてそんなことはありません。風子のしていることに間違いなんてないんですから」
そこで、ようやく気付く。
視界がおかしくなったのではなく……自分が倒れたのだということを。
「つまり、間違っているのは――」
そして同時に、ようやく理解した。
「お姉ちゃんでしょう?」
自分の身体が、崩れ落ちたのだということを。
いつの間にか公子の身体に数十個のヒトデが突き刺さっていた。
ダクダクと血が流れ出す。傷が深い。意識が朦朧とする。公子の自己再生能力では、おそらく修復は間に合わない。
公子は泣いた。
……だが、それは決して死に逝く自らを嘆いてのことではない。
結局風子に姉らしいことが何一つできなかった、という悔い故に、だ。
「風子とても残念です。風子はお姉ちゃんと仲良くしたかったのに、お姉ちゃんは風子が嫌いなんですね」
なら仕方ありません、と前置きし、
「ここでさよならです。お姉ちゃん」
公子の身に刺さったヒトデが緑から赤に切り替わる。
その意味を悟り――だが公子は苦笑を浮かべた。
「ふう、ちゃ……ん」
魔力が集束する。だがそれを批難するでもなく泣き叫ぶでもなく、公子はただ静かに笑って、言った。
「ごめんね――」
だがその言葉は、轟く爆音にかき消されて風子の耳に届くことはなかった。
「ん?」
良和は城下で、王城から響いた爆発音と見知った者の気配が完全に消えたのを知覚した。
だが……それだけだった。
「チッ、公子め。風子を怒らせるようなことをしたんだな。死ぬのは勝手だが、それで風子の機嫌が悪くなってこっちにも飛び火したらどうするつもりだ、まったく」
悪態を吐き、再び歩き出す。
征木良和にとって伊吹公子という存在は所詮その程度のものでしかなかった。
カノン王国第二首都クラナド。現在クラナド城の敷地内にある訓練場には簡易組み立ての診療所がいくつも建てられていた。
傷は治療術師でどうにかなるものの、戦いの肉体的、精神的疲労は魔術ではどうしようもない。そしてそれを解消するには寝ることが一番であり、診療所と言っているものの用途的には兵士たちの休息所と言ってほぼ差支えないだろう。
そして本来静寂の空間であるはずのその場所で、バタバタと誰かが走り込んでくるような騒がしい音が響き渡った。
周囲の皆はキョトンとした顔をしているが、古河渚は近付いてくるその音の正体にいち早く気付いていた。
何故なら彼女にとってこの騒がしさは懐かしいものだったからだ。
「大丈夫なのか、渚!?」
バタン! と勢いよく入ってきたのは案の定、岡崎朋也その人だった。
「朋也くん、心配してくれるのは嬉しいんですけどここは他の方々もいる診療所なんですからもう少し落ち着いてください」
「ぬぐ……す、すまん」
そんな朋也の反応に室内にいた人たちが揃ってクスクスと笑う。
もちろん小馬鹿にしているというのではなく、やんちゃな子供を見た時のような、そんな温かなものだった(まぁ朋也からすれば針のむしろだろうけれど)。
ぺこぺこと周囲に謝りながら近付いてくる朋也を渚は苦笑を浮かべて迎えた。
「もう……。ここは家じゃないんですよ?」
「すまん。ただ渚がウォーターサマーの連中と戦って倒れたって聞いたからな……」
確かにその表現は間違っていないし、そう聞かされれば動揺もするだろう。逆の立場だったら自分だってそうなるはずだ。
まぁ実際は初陣の精神的な疲労によって倒れてしまっただけで傷らしい傷はほとんどないのだが。精々酷使した手に怪我を負ったくらいで、両手が包帯で覆われていること以外に渚を怪我人と証明出来るものは一切ない。
とはいえ、その相手があの征木良和であると知れば、初陣でありながら生きて帰ってきたことがもはや奇跡だと誰もが口を並べるだろう。
もちろんその理由の大半は、魔族七大名家である古川の力を受け継いでいたこと、またその力が守りに特化していたからであることは言うまでもないが、同じポテンシャルなら誰でも生き延びていたかというとそれは違うだろう。
古河渚がこうして朋也と再会出来たのは紛れもなく彼女の力と言える。
そんな渚の心の強さをもちろん朋也は知っているそして渚が言うほど簡単な戦いではなかっただろうことも察していた。
もちろんそれを責めるつもりは毛頭ない。むしろ……。
「守りたいもの、守れたみたいだな」
「全部守れたわけじゃないですけど、譲れない部分はどうにか。私、頑張りました」
「あぁ、さすが渚だな」
渚の頭に手を置きゆっくりと撫でる。くすぐったそうに身じろぎしながらも、渚は目を弓にして受け入れた。
「えへへ……」
「でも本当、無茶だけはしてくれるなよ?」
「はい、なるべく。……でも無茶を通さなくちゃいけないときもありますよ?」
「まぁ、そりゃあな……」
「だから、その……無茶するときは朋也くんも一緒にいてくれるととても心強いです」
照れたようににっこりと微笑む。
反則だろうこれは。そう思わずにはいられなかった。
「……そろそろ入っても良いか?」
「あ! わ、悪い!」
その声に弾かれたように横へずれる。首を傾げる渚の視線の向こう側、そこに智代やことみ、杏といった面々が集っていた。
「皆……!」
「皆でお見舞いにきたの」
「わぁ、ありがとうございます!」
笑顔で駆けよることみを笑顔で迎える渚。二人は当たり前のようにきゅっと手を繋ぐ。相変わらず仲が良い二人である。
とはいえこんな光景も渚の環境故に懐かしい。特に渚は死んでいたと思っていたことみからすればその生存は嬉しい報告以外の何物でもなく、クラナド併合以降暇を見つけてはカノンに来て渚と話をしてもいた。
「元気そうで安心したわ。聞く話じゃウォーターサマーの幹部級とやりあったらしいのに。さすがは秋夫さんたちの娘、ってところかしら?」
杏は気さくな調子で片手を上げる。元々カノンにいた時間が長かっただけに、二人の仲は完全に昔のものに戻っていた。
「私一人だったら負けてたと思います。ちとせちゃんがいてくれたからです。……むしろ私よりちとせちゃんの方が重症で」
渚はそっと隣、入口から見て奥側のベッドを見る。
そこで稲葉ちとせが静かな寝息を立てていた。
見た限り顔色も良いし、治療術師が言うには峠は越えたという話だが……もしも渚に治癒系の術がなければ間に合わなかったかもしれない、という危機的状況にあったのも事実。
ちとせ自身はほぼ無傷であったが、彼女の使い魔である『ヒノカグツチ』が良和の槍の直撃を受けてしまったのが原因だ。
本来であれば使い魔へのダメージが召喚者に及ぼす被害などそうないのだが、精神的なリンクを極大まで繋げていたならば話は別になる。
使い魔の使役には精神的なリンクを用いる。これは基本中の基本であり、構造的には精神感応のそれに近いが、異なる点を上げるなら密接度が違う。
精神リンクは基本的にその召喚者がその程度を調整出来る。精精神リンクが浅ければ使い魔はほぼ独立で思考し、動く。命令も簡単なものしか受け付けない代わりに、使い魔が討たれたとしてもダメージは発生しない。だが逆に修復も容易ではなくなる。
逆に精神リンクを深めると、使い魔の感覚そのものが召喚者の感覚と合一する。
命令、という次元ではなく、あたかも自らが動いているかのような感覚で使役が可能となるのだ。
しかしそれは同時に、使い魔のダメージもダイレクトに召喚主に伝わってしまうというリスクをも抱える。もちろん使い魔を討たれても修復が容易であるという利点もあるが、それで術者が死亡などしてしまっては意味がないため、戦闘に使用する使い魔であってもある程度の深さにとどめておくことが一般的なのだ。
だがちとせはそれが極限まで深く設定されていた。ヒノカグツチは胸を貫かれていたが、その痛みはちとせにもそのままフィードバックしただろう。ショック死していても不思議ではないほどのことだったのだ。
でも彼女はどうにか生きている。助けることが出来たのだと思えば、自分の力に誇りを持てそうな気がした。
「早く目を覚ましてくれると良いわね」
「はい」
頷いてから、ふとまだ一人扉の近くに立ったままであることに気付いた。
智代だ。
「坂上さん?」
「……」
朋也は智代が動かない理由を察していた。
渚が先祖還りで魔族の力を宿しているとわかったときも、彼女が生存しているとわかったときも、智代は常に家族のため渚と敵対する側にいた。朋也や秋夫とだって戦った。もちろんその時は相手を殺すつもりで。
……きっと全てが終わったいまも、それはしこりとなって彼女の心に圧し掛かっている。加えて、その守りたかった対象の一人であるはずの可南子を亡くしたこともあり、あらゆる意味で智代は渚の傍に立てないのだろう。
けれど渚は笑顔だった。智代がしてきたことを理解したうえで、笑顔だった。
渚はおもむろにベッドから足を下ろし、立ちあがろうとする。慌てて支えようとする朋也やことみを笑顔だけで制止すると、ゆっくりと歩き出す。
最初の一歩こそふらついたが、二歩目以降はしっかりとした足取りで智代のもとへと近付いて行き、
「あ……」
どうしたものかわからず顔だけを右往左往している智代の袖をぎゅっと掴んで、笑った。
「捕まえました」
「……古河。私は……」
「坂上さんは坂上さんの家族を思って坂上さんの出来る最善をしたんです。私に罪悪感なんて持つ必要はありません。家族を大事にすることに罪なんてないんです。
私だってきっと同じことをすると思います。だから気にしないでください。過去はどうあれ、私も坂上さんも、いまこうして一緒にいられるんですから」
「古河……」
「ね?」
「……あぁ、すまない。ありがとう」
朋也たちが顔を合わせ、安堵の吐息をこぼす。もうこの二人は大丈夫だろう。
そう思って力を抜いた朋也を、しかし振り返った渚の真剣な顔が射抜く。
「朋也くん。ちょっと真面目なお話……良いですか? 皆さんにも聞いてほしいことです」
再度顔を見合わせる朋也たち。何のことだかわからないが、しかし渚がこんな表情をするくらいなのだから相当のことなのだろう。
皆が揃って頷くのを見て、渚は薄く微笑むと、ベッドに戻り……そしてそのまま未だ眠ったままのちとせに視線を向けた。
「朋也くんたちが戻ってきたということは、これから王都カノンの奪還に向かうんですよね?」
「あぁ、そうなる。ワンはもちろんリーフ三国も少しばかり協力してくれるし、エアも手を出さないと約束した。俺たちの居場所を取り返しに行く」
「はい。そこで頼みがあるんです」
一度考え込むように瞼を閉じ、そしてちとせから視線を外すと皆へと振り返り、
「私もカノン奪還作戦に連れて行ってください」
「「なっ!?」」
「ウォーターサマーにはきっとちとせちゃんのお兄さんがいます。だから説得したいんです。ちとせちゃんが戦いを望んでいないこと、その全てを」
「それなら俺たちが……」
ふるふると、渚は首を横に振って拒絶した。
「ごめんなさい。でも私がしたいんです。ちとせちゃんは大事な恩人で、そして掛け替えのないお友達です。だから彼女のために、私がしてあげたいんです」
「渚……」
「そして、連れて行ってもらいたい理由はもう一つあります」
「もうひとつ?」
「はい」
頷くと、真剣な表情から一転、優しくもどこか照れた笑みを浮かべて、渚は朋也の手を取った。
「私はもう守られてばかりの私じゃありません。これからは私も皆さんを……そして朋也くんを守ります。守ること、それが私の力ですから」
「いやでも……」
「私は朋也くんの傍にいます。いたいんです。いさせてください」
あぁ、これはもう駄目だな、と、朋也は心中で白旗を上げ、苦笑した。
古河渚という少女はその性格や普段の態度からは考えられぬほどに、頑固な一面を持つ。一度こうと決めたら梃子でだって動きはしない。
しかも長年付き合っている朋也にはわかる。彼女の瞳が浮かべる本気の度合いを。これは秋夫や早苗でさえどうにも出来ないだろう。
だとすればもう、朋也からすればどうしようもないし、それに……、
「ったく、仕方ないな」
嬉しいと。そう思ってしまった感情は紛れもない事実なのだから。
「わかった。一緒に来てくれ渚。一緒に戦って、守って……頑張ろう」
「はい!」
満面の笑みで、古河渚は頷いた。
結論から言えば、奪還作戦に参加する人員の選出には時間を要した。
まず、戦力どうこう以前にシズクでの戦い及び、王都カノンでのウォーターサマーとの戦いで大きく疲弊した者は正直にそれを告げて辞退せよと通達しておいた。
にも関わらず……。
「誰も何も言ってこないってのはどういうことかしらね」
はぁ、と香里は大きく息を吐いた。まぁ概ねこんなことになるだろうとは思っていたが、しかしまさか誰一人として来ないとは思わなかった。
「どうするのお姉ちゃん?」
机の正面には雑務やら何やらを手伝ってくれている栞が座っている。彼女もまたシズクであれだけの戦いを繰り広げたというのによくもまぁ働くものである。
――それだけカノンに愛着があるってことよね。まぁそれは私も同じわけだけど。
であればこそ、早急に編成を済まさなければならない。香里は小さく息を吐き捨て、ぐるぐると疲れた肩を回すと、ゆっくりと姿勢を正した。
「まぁまず治療術師から危険だと通達が来てるやつらは除外ね」
「例えば?」
「斉藤とかさくら、水菜ね。斉藤はシズクで操られている際に、さくらも鹿沼葉子との戦いで魔眼を酷使しすぎて精神的にボロボロ。水菜も使い魔の大量同時使役で精神的な疲労がきついそうよ」
「水菜ちゃんを残すなら鈴菜さんも残した方が良いのかな?」
「そうでしょうね。羽山は身体的には特に問題ないみたいだから、これは水菜たちの説明をしてから本人の意思を聞きましょう。
あとはここの守りにも戦力を割かなくちゃね」
いくらカノンの送信側エーテル・ジャンプ装置が壊れているとはいえ、アストラス街道から陸路でクラナドに来る可能性もなくはないのだ。
おそらくウォーターサマーもそれを考えているからこそ、エフィランズに大量の兵を置いたままなのだろう。
何故そんな情報を手に入れているかと言えば、明日美の千里の魔眼で見てもらったからだ。彼女の力は応用性が広くて作戦立案にはとても有効になる。
「主力は全部王都カノンに留まったままだとしても、ウォーターサマーの兵力が全部なだれこんで来る可能性も考慮すれば相応の戦力を残す必要があるわ」
「とすると……やっぱり地理的に詳しい元クラナドの人たちが妥当?」
「ええ。候補としては坂上智代とか一ノ瀬ことみね。あとは軍師的ポジションで杏を据えても良いかもしれないわ。
あとはなのはとかね。彼女の長距離狙撃の精度と威力は凄いみたいだし、防衛には向いているでしょう。事実王都カノンでも活躍してくれたみたいだし」
「じゃあそういう方向にしようか。……そういえばワンの人たちってどうなってるの?」
「まぁウォーターサマーがエフィランズに兵を置いている以上、ね。アストラス街道で繋がっているワンも危険ってことで半分以上が国に戻ったわ」
「え? ってことは……」
「協力すると言った手前、ってのもあるでしょうけど、折原王と里村茜の二名が残ってくれた。まぁあの二人の実力ならそれでも十分助かるけれど」
「とすると、いま出てこなかった人とその二人、あとリーフから協力してくれる三人を含めれば……やっぱり結構な大所帯だね」
「皆の意志を挫きすぎるのも、ね。それにウォーターサマーの実力、特に朝倉たちから聞いている伊吹風子って子もいることを考慮すれば、これでもむしろ足りないかもしれないわ」
「確かに……。でもエーテル・ジャンプ装置を使って飛べるのは一度に数人でしょ? こんな人数転送終わるまで何も起こらなくてすむかな?」
「そこは名雪に頼んであるから問題ないわ。彼女に一番にカノンに飛んでもらって、『隠者の夜』を展開していてもらう。そうすれば気取られずにすむもの」
事前に聞いてある名雪の新しい技であり、姿はおろか、気配や音さえも遮断する『隠者の夜』の対象は、人物ではなく空間であるとのことだ。
であれば名雪に先に出向いてもらい、エーテル・ジャンプ装置がある部屋を『隠者の夜』で覆ってもらえば安全に移動が出来るということになる。
「なるほど。やっぱりお姉ちゃんは頭が良いね」
「いまは内政寄りとはいえ、軍務も預かる身ですからね。これくらいのことはしないと。それに祐一がいた頃は彼が全部やっていたことだわ」
椅子から立ち上がり、腕や腰を伸ばして固くなった身体をほぐす。そうして一息吐き、
「だからこそあたしがしっかりしなくちゃ。祐一が戻ってきたときに国も守れなかったのかなんて言われないようにね」
そんな香里を見て、栞はクスリと小さく笑った。こうも真っ直ぐな姉を見るのは随分と珍しいような気がしたからだ。
「……なによ」
「うん、そうだね。頑張って皆のカノンを取り戻そうね!」
やや頬を赤くして半目で問う香里に、栞は頷くことで強引に話を終わらせた。
やれやれ、と苦笑しつつ……こんな一時の会話で随分と気持ちが解れたと自覚する。自分も何だかんだ言いつつ、疲れが残っているのだろう。
無理をするなと言いつつ、自分が無理をしている自覚はある。だがそれでもなお前へ進むのが聖騎士たる自分の役目だとも思っている。だから、
「祐一。必ず生きて帰ってきなさいよ。あたしたちも、あなたとあたしたちの国を取り戻してみせるから」
だからいまは――その意地を押し通す。
そして――時は来た。
クラナドに作られたエーテル・ジャンプ装置。その前に、この作戦に参加する者たちが集っていた。
その周囲にはそんな彼らを送り出すために集まった居残り組もいる。
そして装置の右側に立つ大賢者ヨーティアが、集った面々を見渡しからゆっくりと口を開いた。
「さて良いかい? 最後にもう一度確認しておくよ。これからあんたたちはこのエーテル・ジャンプ装置でカノンへと行くわけだが、これは片道通行だ。
向こう側の送信機は機能を停止している。おそらくあっちに残った誰かが追撃阻止のために破壊してくれたんだろう。つまり行ったら撤退は厳しいってことになる。
で、ウォーターサマーの連中の強さはかなりのものらしい。それでも問題ないと断言出来ないやつはいまのうちに一歩下がることをお勧めするよ」
ヨーティアの現実を突きつける言葉に……しかし誰一人として応じる者はいなかった。
「言われるまでもない……ってことか。皆カノンが好きなんだねぇ」
「自分たちの国が嫌いな人なんていないよ。ヨーティアさんだって、エターナル・アセリアは好きでしょ?」
「はは、さすが月宮は真っ直ぐだな。言うことが違う。……んじゃ、野暮な話もここまでにしておこう。おい」
「はっ」
ヨーティアの指示でその部下たちが速やかにエーテル・ジャンプ装置を起動。光を灯し、その機能を発揮せんとする装置の前に皆が一歩近付く。
「武運を」
道を譲るように横にずれたヨーティアに頷きを返し、そして各々が各々の顔を見渡した。
その中で、香里が代表して口火を開く。
「連戦の疲れもあるでしょう。でもカノンはあたしたちの国。ウォーターサマーみたいな連中にこれ以上は絶対に好き勝手させないわ。そうよね?」
「もちろんだよ」
「あぁ。これから仲良くする国なんだ。こんなところでくたばられてたまるか」
名雪が、浩平が、そして皆が同じ気持ちだ。ならば恐れることなど何もない。だからもはや言葉は必要なく――。
「行きましょう」
ここに、カノン奪還作戦が開始された。
あとがき
こんな間隔で更新するのはいつ以来だろうか。どうも神無月です。
なんというか終わりが近付いてきたために腕が乗っている感じがします。次も割と早く出せるかもしれません。
さて今回はウォーターサマー側のお話をメインにしつつ、渚本格参戦もあり、そしていよいよ次回から奪還作戦です。
特にウォーターサマー側では気になる点がちらほら出てきたかと思いますが……それはこうご期待ということで!w
では今回はこの辺で。
誰と誰が戦うんだろう、とか予想して待っていてくださいね。ではでは。