神魔戦記 第百七十一章

                     「守れたもの、守れなかったもの」

 

 

 

 

 

 ――09:00――

 

 黒衣を纏う少女は静かな廊下をただ歩く。響くのはコツコツという彼女の足音だけだ。

 廊下を抜け、階段を下り、更に廊下を行く。

 向かう場所に何があるかは、知らない。だが人々の気配は皆そちらに向かって行ったのだ。

 そして突き当り……広い空間に出た。

 地下とは思えぬほどの広さだった。そしてそこには、左右に並ぶように置いてある二つの装置があった。

 が、それだけだ。他には何も……あれだけあったはずの人の気配はどこにも感じられない。

 つまりは――、

「逃げられたみたいだね」

「うむ。状況から察するに、この装置が原因であろうな。集団を隠蔽する装置……いや、意味がないか。やはり転移装置か何かであろうか」

「かもしれないね。途方もない技術だけど、そういうのがエターナル・アセリアで完成しそうだ、って話聞いたことあるし。でも二台あるのはどうしてだろう?」

「ふぅむ……。む、お嬢、あれを」

「え? あ……」

 それを見て、黒衣の少女――水夏は、全てを理解した。

 

 

 

 ――08:46――

 

 時間は少々遡る。

「皆さん! 慌てず、しかし速やかに進んでください! 後ろは私たちが守ります!」

 そう言いつつも、有紀寧自身慌てていた。

 突如城内で響いた爆音は、まるで予期せぬ出来事だった。もちろんそれは誰にとっても同じであり、それまでどうにか落ち着きを見せていた都民もこれには混乱した。

 更に爆音は続く。だが続くということは、予期せぬ侵入者に対し誰かが相対しているということだ。

 戦える人員は先にクラナドへ向かったか、あるいは美汐たちのように場外にいるはず。なら誰が……と一瞬考えたが、そんな思考もしている余裕はなかった。

「王妃様! 都民が装置に殺到しています! 許容量以上のエーテルジャンプは人体にどんな影響を及ぼすかわかりません!」

「わかっています! こちらもどうにか混乱を抑える努力をします。そちらも水際で何とか対処してください!」

「わ、わかりました!」

 頷き、走り去る兵士を見送り、有紀寧は気配を探る。

 おそらく、もう既に残りの人数は五百人は切っている。順調に行けばあと十分……いや、七分もあれば終わる。そのはずだったが。

 ――この調子では十五分は掛かってしまうかもしれませんね……。

 もはや混乱はピークに達している。

 城内の爆音は未だ止まず、更には場外からも激しい戦闘の音が聞こえ始めている。激しい轟音と共に城は揺れ、魔力灯が明滅する。

 エーテル・ジャンプ装置に接続されている魔力ラインは別途用意してあるので魔力切れや破損の心配はないが、混乱を煽るには十分過ぎる材料だろう。

「皆さん、どうか落ち着いてください! どうか……!」

 いまや有紀寧の声さえも届かない。喉を枯らすほどに叫んでも、彼らの耳に届くのは激しく響く戦場の音だけだ。

 歯噛みする。こうしているいまも、美汐や誰かが必死に戦ってくれている。時間を稼いでくれているのに、自分たちはいまそれを無為に消費してしまっている。

 自分たちが早く避難できれば出来るだけ、彼らの生存率に繋がるというのに……!

 自分の無力さに打ちひしがれそうになった――そのときだ。

「有紀寧!」

「え?」

 自分の名を呼ぶ声に振り向けば、数人の大人たちと一緒に広間へ駆けてくるプリムラを発見した。

「プリムラちゃん!?」

 驚いた。プリムラはとっくの昔に避難したと思っていたのだ。

「どうして……! まだ残ってたなんて……!」

 しかしプリムラはそれには答えず、ぶつかるように有紀寧の胸の中に飛び込むと、縋りつくように服を握り締め、こちらを見上げてきた。

「そんなことより、早く……早く逃げないと。じゃないと、必死に戦ってるマリーシアが……!」

「え!?」

 どうやら城内に現れた謎の侵入者と戦っているのはマリーシアらしい。

 確かに彼女の姿は朝以降見ていない。しかし彼女が戦闘というのは……。

「っ!」

 いや、それは彼女自身わかっていたことだろう。特に、争いというものを嫌うマリーシアならなおのこと。

 ……だがそれでも彼女は戦っている。何のために? それはプリムラたちや、そして自分たちを守るためだ。

 守られている。何人もの人たちに守られて、いまの自分たちがいる。

 それで自分はどうだ? 彼ら彼女らに報いる何かが出来ているのか?

 ――否。自分はまだ王妃として、彼らの命を賭した行動に見合うだけのことを何一つしてはいない!

「落ち着きなさい!!!」

「「「!?」」」

 それは怒り。まさしく怒号だった。

 あれだけ混乱し、我先にと動いていた都民たちが思わず身を止めてしまうほど、それは迫力と鬼気に満ちていた。

 宮沢有紀寧。普段は温厚で笑顔を絶やさぬカノンの王妃はこの時、間違いなく怒っていたのだ。

「死にたくないと思うのは当然です! 生きたいと願うのも当然です! 皆さんが焦るのも良くわかります! でもどうか落ち着いてください!

 いまこうしているいまもなお、私たちの仲間が必死に戦っています! 命を賭けて……いえ、命を燃やして敵を食い止めてくれています!

 誰だって死にたくないのに、彼らは私たちを守るためにその命を燃やしているんです! そうして作ってもらっている時間を、いま、私たちは無駄にしている!!」

 誰もが何も言えなかった。

 有紀寧の迫力に飲み込まれて、というのもある。だがそれ以上に……彼女の言葉は皆の心に深く突き刺さった。何故なら、

「私たちは弱い! 彼らに何も出来ない! でも、それでも報いることがあるなら……それは一秒でも早く彼らの荷を軽くすることです!

 私たちが無事に避難を終えること! そうでしょう!? ですから……お願いですからどうか、皆さん力を貸してください! 協力してください!

 ほんの少しの勇気をください! ほんの少しの我慢をください! そうすれば……彼らの命が一つでも多く助かるかもしれないのだから!!」

 宮沢有紀寧は……泣いていた。

 怒号と呼ぶに等しかった叫びは、しかし途中から悲痛な訴えに変わっていた。

 自分の無力を嘆き、守られてばかりの自分を嘆き、戦う彼らを見捨てることしか出来ない悲しさを嘆いた。

 だがその痛みは言葉と共に都民にも突き刺さった。自分のことしか考えられなかったことを誰もが悔やみ、反省した。

 すると混乱は波が引くように消え去り、それからはどれだけ巨大な爆音が聞こえてこようとも皆粛々と自分たちの順番を待ってくれた。

「……」

 心からの訴えは、どうやらきちんと届いたらしい。

「皆さん、落ち着いて。大丈夫。絶対に助かりますから」

 その言葉を一から十まで真に受ける者はいないだろうが、最後まで戦場に残る王妃の言葉というだけで重みは違った。

 避難は続く。じれったい速度ではあったが、徐々に、しかし確実にエーテル・ジャンプ装置でクラナドへと転移されていく。

 あと少し、あと少しで……。

「まだ残ってるのか!」

 突如響いた声は、廊下を滑空して広間に躍り出た魔理沙のものだった。すぐ後ろには鈴仙の姿もある。

「霧雨さん! 鈴仙さん! どうして……」

「美汐にこっちを任されたんだ! それより城内の敵ってのはまだこっちには来てないのか?」

「え、えぇ。どうやらマリーシアさんが足止めをしてくれているようで……」

「……魔理沙。城内の戦闘音が消えてる」

「え……?」

 有紀寧は鈴仙のその言葉を聞いて、ようやく乱れ響いていた爆音が消えていることに気が付いた。

「決着が着いたってことか。……そのマリーシアってやつが勝ってくれてれば良いんだけどな」

「いえ、これは……」

 魔理沙や鈴仙はマリーシアを知らないからわからないだろう。だが、有紀寧は彼女を……そして彼女の気配を知っている。

 なのに……探っても探っても、マリーシアの気配が見つからない。

 ここにまだ残っている都民は百人ちょっと。先程までならともかく、この程度の人数で気配探知が乱れることなどありえない。

 だとすると考えられることは……。

「っ……!」

 決め付けるには早い、と心中で叫ぶ自分がいる。だが冷静な部分がその結果の意味するところを明確に察していた。

 マリーシアが生きていることに賭け、いますぐに救援に向かいたい。それが有紀寧としての正真正銘の思いだった。

 だが王妃としての自分がそれに否を唱える。マリーシアが敗れているのだとすれば、相対していた敵がいつここに来てもおかしくない。

 だからいまは逃げるべき。生きているかどうかわからないマリーシアのために、更に多くの命を賭けるわけにはいかないのだと。

「――退避しましょう」

 逡巡は、一瞬だった。

 再び頭を上げた彼女の瞳に迷いはなかった。あるのは都民を救うのだという決意を持つ、一国の王妃としての有紀寧の顔。

「マリーシアさんはおそらく突破されました。……美汐さんたちはどうですか?」

「……正直を言えば、あれは『決死』ってやつだ。おそらくは……そう持たない」

「では急がなくてはなりません。そして絶対にここにいる人たちは退避させます。それが、命を賭けて戦ってくれた彼女たちへのせめてもの報いでしょう」

 非情とも取れる決断だった。だがそれを誰も責めたりはしない。有紀寧がどのような気持ちでその言葉を吐き出しているのかは、歯噛みしすぎて唇の脇から滲む血を見てもわかる。

「霧雨さん、鈴仙さん。もしものために殿をお願いできますか?」

「あぁ、それくらいはさせてもらうさ」

「むしろそれくらいしないと、私たちの気が治まらないわ」

「……ありがとうございます」

 礼を言って、有紀寧は再び民の先導に戻った。

 以降の有紀寧の迫力は相当なもので、兵らの指揮ぶりも堂に入ったものだった。おかげで民の避難は予定通りに完了する。

「あとは私たちだけだが……」

「行きましょう」

 もしも美汐が生きているのなら、自分たちがさっさと避難していた方が空間跳躍を扱う美汐にとっては撤退しやすいだろう。

 ……それがどれだけ希望的観測であるかは重々承知している。でも願うくらいはさせて欲しい。それくらいしか……出来ないのだから。

 そうして有紀寧たちは最後にエーテル・ジャンプ装置に入る。本来なら追撃を避けるためにエーテル・ジャンプ装置も破壊していくべきなのだろうが、そういった魔術具や火薬の類は事故回避のために近辺にはなかった。

 かくなるうえは、クラナドにある受信側の装置を破壊するしかない。

 装置を起動する。

 守りきれなかった王都カノンを思い、救えなかった仲間たちのことを偲びながらエーテル・ジャンプの感覚に身を預け、

 ――飛び立つ瞬間、カツン、という小さな音を聞いた気がした。

 

 

 

 ――09:05――

 

 カノン城門前。

 そこに大量の血の海に伏す一人の少女がいた。

 天野美汐だ。

 まだ死んではいない。しかし虫の息だった。

 胸には大きな傷。神殺しの漆黒の光がいまなお傷口を燻っている。その傷は心臓を貫いており、どう見ても致命傷だった。

 心臓を穿たれたとはいえ、強力な魔族であれば即死することはあまりない……が、それも時間の問題だ。

 美汐の自己再生能力による効果もこの傷では結局は延命程度。この修復速度では心臓の修復まで間に合うことも無いだろう。

 強力な治療術者がいればどうにかなったかもしれない。だが現実にそんな者はここに存在せず、打つ手は一切ない。

 故に彼女の死は――もはや回避できない。

 朦朧とした意識の中で、美汐はガツン、と何かが近くに突き刺さるような音を聞いた。

「――これ、あなたの槍」

 声にどうにか見上げれば、そこにはほぼ無傷の水夏が立っていた。そして彼女が突き立てたのだろう槍がすぐ目の前にある。

「ぅ……私の……槍……?」

 その揺らぐ声を水夏は聞いた。

 もう意識も朦朧としているのだろう。槍に向けられた視線は、焦点が合っているかどうかさえ定かではない。

 しかしそれでも槍に手を伸ばし、柄に触れて、美汐の表情が苦々しいものへと変わっていく。

「そ、んな……」

「ううん、違う。失敗してない」

 水夏はゆっくりと首を横に振り、視線を合わせるように膝を折る。

「心配ないよ。あなたの槍はちゃんとあの装置を壊してたから」

 美汐の瞳が見開かれる。

「……それを、私に教えて、ぐっ……どうするんですか……?」

「心残りにならないように、ね」

 水夏はどこか、寂しそうに微笑んだ。

「戦いだから、同情はしない。……でも、正直な気持ちとして、ボクはあなたの行為に敬意を表したい」

「うむ。敵ながら実に天晴れであった」

 アルキメデスも同調する。

 水夏は美汐と激突し、完全に意表を突かれた最後の瞬間を思い出す。

 

 出遅れた。どう考えても美汐の一撃が水夏に直撃する。ならば問題はその一撃をどう最小の被害に抑え、いかに美汐を早く無力化するかだ。

 美汐の持つ武器は法具であるとはいえ、大した攻撃力を持っているわけではない。なら多少の被害を覚悟で美汐をどうにかすることを最優先した方が良いのではないだろうか?

 これだけの一手を思いつく相手に、保身を優先したままで勝てるとも思えない。

 だから水夏は覚悟を決めた。例え大きな傷を負おうとも、いまはまずこの天野美汐を最優先にすると。

 ……だが、覚悟をした衝撃は一切なく、あるのは感じ慣れた人を断つという手応え。

 振り向きざまに放った一撃は美汐の心臓を的確に貫いていた。防御も回避もない。その一撃は間違いなく天野美汐という存在へのトドメだった。

 しかし、美汐が最後に繰り出そうとしていた槍がその手から消えている。

 また何か隠しの一手があるのかと意識を集中させてみたが何秒待ってもそれらしい現象は起きない。

 にも関わらず、心臓を貫かれたはずの美汐はその顔に笑みを貼り付けていた。まるで自分の役目は終わったと言わんばかりに、だ。

 

 そしてその意味を、あの地下の空間でようやく理解した。

 美汐はあのとき、槍そのものを『空間跳躍』させて、送信側のエーテル・ジャンプ装置を破壊したのだ。こちらから追撃をかけられないように。

 装置の使い方は知らないが、壊れてなければいくらでもやりようはあっただろう。だからそれを阻止する必要があった。

 とはいえ、本来美汐の『空間跳躍』は自己を中心としたものであり、所有物や他者を希望の位置まで移動する『空間転移』とは根本から意味が違う。

 しかしそれを成し遂げた。火事場の馬鹿力、否、命を燃やした過剰能力執行。それが答えだ。

 そう。美汐はあの時最初から命を捨てる覚悟だった。

 これこそが、彼女の言っていた『役目』。任された民を、絶対に逃がしてみせるという誓いの結果。

 それが彼女の生き様。彼女がまっとうさせてもらうと断言した行動だった。

「……だから君は誇って良い。君は君のすべきことを、やり遂げたんだから」

「そう、ですか」

 それを聞いて、安心したように美汐の表情が笑みを象る。その笑みを見て……水夏はどうしても聞きたくなった。

「……ねぇ、一つ聞いて良い? あなたはいま笑っているけど……後悔はないの?」

「後悔、ですか? ……まぁ、ないと言えば嘘になりますけどね」

 口の端から血をこぼしながら、美汐はゆっくりと空を見上げた。

 ――私は、出来たのです。

 最後の最後に、美汐が選んだこと。

 どうなるかわからない戦いの勝敗ではなく、確実なる守護。

 それは祐一という主から国の守りを預けられた、天野としての誇りか。

 ……いや、違う。

 美汐はあの最後の瞬間、自分の意思でそちらを選んだのだ。

 守りたい、と。この国の者たちを守りたい、と。

 ……美汐はいままで、ただ己が主と定めた者の命に忠実に動いてきた。それで良いと思っていたし、そんなふうに出来る自分を誇ってもいた。

 だが祐一の配下に加わり、この新しい国を見て、過ごして、触れて……きっと何かが変わってしまったのだろう。

 祐一に対して軽口を言うようになったり。

 香里やシオンと祐一の態度に頭を抱えたり。

 鈴菜や名雪に引っ張られて買い物に出かけたり。

 時谷と協力して賊を壊滅させたり。

 街の者に声を掛けられ笑みを浮かべたり。

 ――あぁ、自分はいつの間にか、こんなにも変わっていた……。

 昔の自分からじゃ考えられない、現在の自分の姿。

 でも、決して嫌じゃない。むしろそんな生活を自分は……そう、きっと楽しんでいた。

 強者に従い、戦いでしか楽しみを見出せなかった自分が、そんな些細な日常を楽しんでいたのだ。だから……、

「いまではこの選択が正しかったと……、胸を張って言う事が出来ます」

 涙が頬を伝う。

 涙など流すのはいつ以来だろうか。もう、思い出せないほど昔だった気がする。 

 でもこれは悲しみや悔しさの涙じゃない。決して、違う。

 そう、これは……嬉し泣きだ。

 ――私は、皆を守ることが出来たのだから……。

 その事実を誇りに思う。祐一が……いや、祐一たちと、そして自分で築き上げたものをこの手で守り遂げられたことを。

「もし、あなたの主に会うことがあったら、必ず伝えるよ。あなたの部下は、最後の最後まで全力で戦って、そして国民を守り抜いた、って」

 水夏の言葉に、思わず笑みがこぼれる。

「……ふっ。敵である私に……そこまでのお節介を焼くだなんて……とんでもない、死神もいたものですね……」

「敵とか味方とか関係ないよ。ボクはあなたを殺した責任として、それを伝える義務がある」

「本当に、あなたは……笑えるほどに、お節介ですね……」

 でも、と美汐は呟き、

「……どうか、お願いします」

「うん。必ず」

「……ふふ、安心したら眠くなってきてしまいました……」

「ゆっくり、寝ると良いよ」

「ええ、そうさせて……いただきます……」

 静かに美汐の瞼が落ちていく。

 全ての感覚が消えていく。

 闇に飲まれていく。

 けれど、決して嫌悪ばかりではなかった。

 恐怖がない、と言えば嘘になる。しかしそれ以上の何かがあった。

 ――主様、先にいきます。

 けれど、

 ――どうか、すぐには来ないでくださいね……。

 消え行く意識の中、最後に美汐が見たものは――。

 

 

 

 最後に何を想って逝ったのか。

 美汐の顔は、どこまでも澄んだ笑顔を浮かべていた。

「また、殺しちゃったね」

「……お嬢。それは――」

「うん。わかってる。わかってるよ、アルキメデス」

 ギュッとアルキメデスの身体を抱きしめる。それ以上を言わせないように。

 だからアルキメデスもそれ以上は言わず、話の方向を変えた。

「……お嬢、そろそろ戻らないとまた奴が心配するぞ」

「うん。戻らないと、だよね」

 頷きながら、水夏はそっと美汐に手を伸ばす。

「おやすみなさい、天野美汐」

 口元の血を袖で拭い、水夏は踵を返しその場を後にする。

 その去り際に一言だけを残して。

「どうか、良い夢を……」

 

 

 

 ――09:35――

 

 元王都クラナド、現カノン王国領第二首都クラナドと名を変えたこの街は、いま大量の人間で溢れ返っていた。

 無理もない。元々のクラナドの民に加え、現在は王都カノンから避難してきた民も合わさり、その数はまさに倍近いのだ。

 先にクラナドへ来ていた観鈴王妃の命令により、緊急用の住居テントが用意されており、避難してきたカノンの民の移動も開始している。

 そこかしこでクラナドの民との小競り合いが生じたりもしているが、兵らがどうにか上手く対処をしてくれている。

 小さなものは仕方ないとしても、特別大きな混乱はどうにか生じていない状況と言えた。とはいえ、

「……王都カノンは陥落。実質、ウォーターサマーに国土の半分を占領された形になりますね……」

 その事実は誰にも無力感を与える。

 残った将と共に戦略テントに入った有紀寧は、大きく息を吐く。周りを見渡せば、悔しそうに肩を震わす者、いまにも泣き出しそうな者など様々な負の感情が場を支配していた。

「確認してきたぞ」

 そう言ってテントに入ってきたのは、エターナル・アセリアの賢者ヨーティアだ。

 彼女はエーテル・ジャンプ装置の設置作業及びその設定のためにまだクラナドにいた。カノンにいなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。

 白衣のポケットに手を突っ込みながら歩いていくる気だるげなヨーティアに、有紀寧は一礼して、問う。

「ありがとうございます。……それで、どうでしたか?」

「あぁ。どうやらカノン側の送信基は壊れてるみたいだな。反応がない」

「とするとやはり最後に聞いたあの音は……何かが装置を破壊する音だったのですね」

 しかしあの場には誰もいなかった。ならば誰が、と考えて、そして真っ先に浮かんだのは……美汐だった。

 彼女の生死は未だ不明。だが、何故だろうか。希望的な考えが浮かばない。理屈も直感も、どちらも悪い結果しか見出さないのだ。

 ……だが、いまはそれは置いておこう。結果のわからぬことに思考を避けるほどの余裕は微塵もないのだから。

「これで当面の追撃はないと考えられそうですね」

「まぁ突然の襲撃ってのは、ほぼないだろう。仮に敵に天野クラスの空間跳躍者がいたとすればまた話は別だが」

 それを軽く否定出来ないのが現状だった。

 最後の最後、マリーシアと戦った謎の襲撃者。プリムラの話では、自身と同じか少し上くらいの女の子だったという話だが、まったく気配がしなかったという。

 つまりは気配完全遮断の能力者か、あるいは道具、固有のスキルなどによってそれを再現出来る相手。

 だとすればこちらもそう早いうちに襲撃はありえないだろうが、イコール敵に空間跳躍者がいないという結論を出すのは早計というものだろう。

 想定していなかったから対応出来なかった、では話にならない。カノンを落とされた以上、ここからはあらゆる事柄を想定して万全に対処する必要がある。

 今回はまだクラナドという避難地があったから良い。だがここさえも潰されたら、民はそれこそ行き場を失ってしまう。

 戦勝国ウォーターサマーも、一般人には手を出さない……なんて考えるような相手ではない。負けられないのだ。もうこれ以上は。

 過剰だろうがなんだろうが、知ったことではない。常に最悪を考えて行動する必要がある。それで結果意味なかったとしても、後で笑って叱責してくれれば良い。

「ヨーティア様。私も後で行きますが、ひとまずシャッフル王国と連絡を取っておいてもらえないでしょうか?」

「援軍を頼むってか? それが出来るような状況じゃない、ってのはあんたも十分知ってると思うが」

「知っています。でも出来ることは全てやっておきたいんです」

 同盟国であるシャッフルとエターナル・アセリア。だが両国はいまそう簡単に動けない事情がある。

 エターナル・アセリアは原因不明の疫病が流行していて国自体の機能が低下している。

 そしてシャッフル側はそんなエターナル・アセリアと敵対中の王国チェリーブロッサムに睨みを利かせていると同時、北にも気を配らなくてはならなくなっていた。

 スノウ王国で何やら内乱が起きているらしい、という情報はウォーターサマー侵攻の直前にカノンも既に得ている。それに対する警戒だろう。

 さすがに内紛の原因やその規模までは届いていないが、別段敵対しているわけじゃないキャンバスやウインド王国でさえ厳重体制を敷いているというのだから簡単に収まるようなものではあるまい。

 タイミングが悪いのか。あるいはウォーターサマーがこの機を狙ったのか。

 いや、と有紀寧は思う。これはほぼ直感に等しいのだが、ウォーターサマーの進軍は他所の状況を考慮してのものなのではない気がする。

 カノンだけじゃない。いまやもう世界全体がどこかおかしな奔流に流され始めているのではないか。そんな風に思わずにいられなかった。

「世界情勢はいまどこの大陸でも危険な状況であるのは百も承知。ただ、わかった気になって何も行動をせず、それで何かに蹂躙されるなど愚の骨頂でしょう。出来得る手は、取り得る方法は、一から十まで試す。いまはそういう時なんです」

「……やれやれ。カノンは王だけじゃなく王妃まであらゆる意味でハイスペックだったか。オーケー、こちらも手伝えるものは手伝ってやりましょ」

「感謝します」

 ヒラヒラと手を振って出て行くヨーティアを見送って、有紀寧は傍にいる兵士に視線を移す。

「観鈴さんは?」

「はっ! 数十分前に小型飛行艇でリーフへ向かいました」

「そうですか」

 カノン陥落の情報を祐一に伝えなければならないのだが、美汐が試した時同様、未だに連絡水晶での魔力ラインが途絶している。

 クラナドに来てなお状況が改善しないというのなら、これはおそらくあちら側で何かしらの理由があると考えて良いだろう。

 魔力的な連絡手段が取れないのであれば、物理的な方法で連絡を取るしかない。それが小型飛行艇で直接向かうという方法だった。

 本来であれば、王妃である観鈴でなくても何も問題はない。だが、観鈴がそれを良しとしなかった。

 自分だけ先に逃げた、という負い目があるのかもしれない。だが観鈴はクラナドに先に来たことで事前に避難民の受け入れ手配などをきちんと準備していた。

 責められる要素などどこにもないのだが、本人の気が収まらないのだろう。もちろん有紀寧は反対したかったが、カノン脱出の際に妥協してもらった手前、今度ばかりは何も言えはしなかった。

 護衛もつけた。それに向こうには六ヶ国の精鋭が集っている。現地に着いても危険はそうないだろう。

 ……もちろん、六ヶ国がシズクに勝っていれば、だが。

「後は信じて待つばかり……ですね」

 ここにいる戦力でカノンを奪還することなど不可能。防衛さえ出来るかどうか怪しいほどだ。

 いま有紀寧に出来ることと言えば、政治的なことばかり。そして出払っている皆の無事を祈り、そしてその帰りを待つことだけだ。

「祐一さん……美汐さん……」

 両手を合わせ、神に祈る。

 その切実なる願いは、果たしてどこまで届くのだろう?

 

 

 

 9時20分。

 王都カノン、完全に陥落。

 侵攻してきたウォーターサマー軍に対し残存戦力で迎撃に出るも、その90%あまりを失ってしまう。

 また、この戦いによって、美汐、マリーシア、ヒミカといった面々の消息が不明となる。

 反撃の準備は――未だ整わず。

 

 

 

 あとがき

 というわけでどうもこんばんは神無月です。

 えー、というわけでカノン(残存戦力)VSウォーターサマーの戦いはこれにて終結です。

 そしてここまで来ると、後はカノン(全力)VSウォーターサマーが残るのみで、三大陸編もいよいよ終わりが見えてきましたね。

 ……やー、長かった。ここまでちょいと長すぎましたね。

 ちょっとずつではありますが物語も進んでいますし、更新頻度も月1は取り戻しつつあるような気がします。

 欲を言えば月2更新くらいはしたいもんですが……さすがに動画とゲーム製作ととなると無理がありそうw

 当面はこんな感じのペースを維持することを優先で考えたいと思います。

 さて、そろそろ本筋だけでなく間章や番外も進めておきたいところですね〜。次回辺りできるだろうか……?

 ってなところで、ではではーノシ

 

 

 

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