神魔戦記 番外章
「正義を信じる者」
『士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ』
昔、尊敬する人物がそんなことを言った。
『いいかい、正義の味方に助けられるのはね、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。当たり前の事だけれど、これが正義の味方の定義なんだ』
わかる。それはわかっている。
仮に誰かを襲う人物がいて、その人を助けるためにその襲ってきた人物を撃退したのならば。
ここに助けられた人物と殺されてしまった人物が出る。
簡単な論法。当然とも呼べる事実がそこにある。
けど、そんな決め付けは嫌だった。
救える定員が決まっているなんて、そんなのは認めたくない。
理想論だと、夢物語だとわかっている。けれど、そうしなければ自分が自分じゃいられないと、そう思ったのだ。
だって。何故ならばそれは……、
自分を象っている、全てだったからだ。
「ん……?」
そうして、衛宮士郎は目を覚ました。
「夢、か……」
ここのところ夢なんて見ることはなかったのだが……なんで今更あんな夢を見たのだろうか。
「正義の味方……か」
そう呟き――ふと、士郎は動きを止めた。
「……ここ、どこだ?」
気付けば、自分はベッドに寝ていた。
士郎は基本的に布団派であり、そもそも士郎の部屋にベッドなんてものはない。しかも天蓋つき。だからおかしい。
いやそもそも部屋からしておかしい。士郎の部屋じゃない。
というかこんな無駄にでかい部屋は衛宮邸のそれとは大きくかけ離れている。
じゃあここは一体どこだ、と首を傾げて、
「おはようございます。やはり朝は早いのですね、シロウ」
不意に、どこまでも澄み渡るような声が耳に届いてきた。
「なっ――」
声のした方向に視線を向け、唖然とする。
そこに――眠気なんて一発で吹き飛ぶほどの美人がいた。
「? どうしたのですかマスター? どこか身体の調子でも?」
「え、なっ!? ま、マスター……!?」
身を乗り出してこちらの身を案じてくる少女に対し、士郎は後ずさったが、
「うわっ!?」
布団ではなくベッドであることが災いした。
そのまま落ちたのである。
「ま、マスター!?」
「いつつつつ……あ、あぁ、大丈夫。大丈夫だから」
脳天から落ちて星が舞ったような気もしたが、おかげでパニックしていた頭がハッキリした。
「……挨拶がまだだったな。ともかく、……こほん。おはようセイバー」
「はい。おはようございます。シロウ」
そう、いまこうして目の前にいる少女の名はセイバー。
いや、正確に言えばその名は本名ではないし、何より彼女は見た目こそ人間であるが、決して人間ではない。
サーヴァント。
聖杯戦争のために聖杯に召喚された、衛宮士郎のサーヴァントである。
「しかしシロウ。突然慌ててどうしたのですか?」
「え、あぁ、いや、それは、だな……」
いきなり目の前に絶世の美人が顔を現したからだ、なんて素直に言えるはずもない。
士郎は頬を掻き、誤魔化すように視線を背けた。
「いや、なんでもない。ちょっと夢を見ててボーっとしてたみたいだ。すまん」
「夢、ですか」
「あぁ。ちょっと昔のな」
「……あまり、良い夢ではなかったのですか?」
「え、なんで?」
「いえ。顔色があまりよくなかったですから」
「顔色が……?」
そんなはずはない。
何故なら夢で見たことは誇りこそすれ、決して不安に思ったりすることでも悲しい出来事でもないからだ。
正義の味方になる。
それが士郎の昔からの夢で、それを目指すきっかけになったのが夢に出てきた男。
衛宮切嗣。
士郎の父親で、命の恩人で、師匠で、そして……目標。
だからこそ、その夢を見て顔色が悪くなるはずなんてない。
「いや、それはきっとセイバーの気のせいだ」
「……そうですか。シロウがそう言うのであれば私としても言うことはない」
どこか納得してないようなセイバー。だが士郎としても本当に顔色が悪くなるような要素がないので、どうしようもない。
それに、いまはそれよりも優先すべきことがある。
「それよりセイバー、いま何時だ?」
「まだ六時にもなっていません。十分に早い時間だと思いますよ」
「そうか。……あ、遠坂は?」
「覚えてないのですかシロウ? 凛は昨日も動き出すのは遅かったではないですか」
「そうか。そうだったな。しっかし……これこそ夢じゃなかったんだな」
士郎は周囲を見ながら、改めて呟く。
部屋の様相は士郎の部屋とか明らかに異なっている。
それも当然。ここは衛宮邸ではない。
ならばどこか?
何を隠そう、こここそフェイト王国の王都フユキにある王城、その一室なのだ。
絶対自分が足を踏み入れるような場所ではないし、きっと一度も入ることはないだろうと思っていたはずの王城で、それどころか一泊。
「……いや、正確には二泊か」
士郎は思い出す。
この二日間で起こった、突拍子もない出来事を……。
二日前。つまり一昨日の夜。そこから異変は始まった。
「あなたたちの力を貸して」
吸血鬼ネロ・カオスをなんとか撃退してすぐ遠坂凛から放たれた言葉に、一同は動きを止めた。
「……それは、どういうことだ?」
数秒経って、一番最初に口を開いたのは士郎だった。
セイバー、そしてライダーと呼ばれたサーヴァントは周囲を警戒していて口を開こうともしない。
桜に至ってはよほどこの状況に驚いているのか唖然としたままだ。
ならその役目は自分しかいない、と士郎は判断した。
そんな士郎を、何故か凛は面白そうなものを見るように口元を釣り上げた。
「ふぅん」
「……なんだよその笑みは」
「ううん、別に。ただ思いのほか冷静なんだなぁ、ってちょっと感心しただけよ」
「ふん。冷静でなんてあるもんか。いろんなことが立て続けに起きたから開き直ってるだけだ」
「へぇ、はっきり言っちゃうんだ。ふふ、衛宮くんらしいわね」
「?」
衛宮くんらしい、とはどういうことだろうか。
凛は学園でも成績トップの秀才だし、何よりこの国の女王なのだから士郎が知っているのはおかしくない。
だが凛が士郎を知っているというのは一体どういうことだろう。会話らしい会話さえした覚えはないのだが……?
「まぁ、そうね。説明はもちろん必要だと思うけど……とりあえずうちに移動しましょうか。このまま立ち話ってのも疲れるしね。
とりあえずそれまで休戦。……ってことでどうかしら、衛宮くん。桜?」
士郎はセイバーを見やる。セイバーの顔には不満が浮かんではいたものの、特に何も言うつもりはなさそうだ。士郎に一任する、ということなのだろう。
士郎は聖杯戦争のことをよく知らない。もちろんフェイト王国の出身者として基本的なことは知っている。
このセイバーという少女は聖杯によって呼び出されたサーヴァントである、ということ。
そして自分がセイバーのマスターである、ということ。
ただ知識としては知っていても実際どういうものなのかはわからない。表面上は把握していても、その内面までは知る由もない。
それにそもそも、と士郎はセイバーを一瞥し、
「……英雄、には見えないよな」
失礼な意味ではない。こんな小柄で綺麗な少女が、過去『英雄』たらしめる所業を行ってきたということが想像できない。
しかし現に彼女はあのネロ・カオスと渡り合ったし、感じる魔力も士郎のそれとは桁が違う。
少なくともそんじょそこらの剣士や魔術師を凌駕しているのは、士郎でさえ理解していた。けれど……、
「……くそ、なんで」
そう、理解しているのだ。この少女の強さは肌で感じその上この目で直に見たのだから。
しかし、それでもなお。
心に渦巻くこの『苛立ち』はなんなのか。
「……いや」
かぶりを振る。いまはそんなことよりも、
「その……遠坂。聖杯戦争はしばらくしない、って言ったな。そしてしばらく休戦する、とも。……信じて良いのか?」
士郎個人の感覚としては、信じたい。
遠坂凛という少女のことは外面上こそ知っているが、それほど深い仲ではないのだ。
とはいえ士郎の持つ凛のイメージからは彼女がそんなことを言って不意打ちするようには思えない。しかしそれはあくまで希望的観測でもある。
セイバーから方針の決定権を預かった以上、慎重になるのは当然だ。
そんな士郎の言葉に凛は満足げに頷いた。
「慎重になるのは良いことよ。聖杯戦争に名を連ねた以上は人を信じすぎないのが得策だわ」
「……遠坂。それ言っていることとやっていることが違わないか?」
「あくまで心得の話。ここから先は衛宮くんや桜自身の判断に任せるわ。強要もしないし」
それ以上凛は本当に何も言わなかった。ただ腕を組み、士郎と桜の出方を待っている。
後ろに控えている彼女のサーヴァントも黙したまま微塵も動かない。
言うとおり、完全にこちらに任せる姿勢のようだ。
「……」
士郎はどうする、という意味でセイバーを見る。しかし彼女の態度も変わらない。
「マスターに任せます」
「……そうか」
鉄面皮を貫くセイバーに士郎は嘆息。確かに綺麗なのだが……厳格な雰囲気と凛とした声からどうにも居心地が悪い。
次いで士郎は桜を見やった。どうやら桜はずっと士郎を見ていたようで、バチッと視線が合う。
「桜はどうする?」
「あ、あの、……わ、わたしは先輩に従います」
桜の後ろに控えたサーヴァント――ライダーの肩がピクリと反応する。
自分たちの行動を他者に委ねることに抵抗があるのだろう。しかしそれがマスターの指針であるのなら何も言うことはない、という風にライダーもまた口を開きはしなかった。
結局この後の展開は士郎に委ねられた形になった。
「……」
しばらく考える士郎だったが、結局終始答えは変わらなかった。
「わかった。話を聞かせてくれ」
士郎の返事に、凛は満足そうに頷いた。
最初に気付くべきだった。
凛は確かに「うちに移動しよう」と言ったし、それはちゃんと覚えている。
だが抜けていた。遠坂凛はこの国の女王である。つまり、彼女の家とは――、
「う……わぁ……」
城、である。
「ちょっと衛宮くん。なにそんなとこで突っ立ってポカーンとしてるの? ほら、さっさと入って」
自分の家である凛はともかく、桜も平然とした顔で入城しようとしていることに少しショックを覚える。
住む場所の大きさに驚くのなんて小さいことなんだろうか。いや、そんなことを考えている時点で小さい気もする。
「桜は驚いたりしないんだな」
すると桜はやや慌てたように手を振り、
「え? ええ、まぁ。……でも先輩の家も十分大きいと思いますけど……」
「そりゃあ、普通の家に比べれば大きいかもしれないけど……どう考えてもこれは違いすぎるだろう?
それに俺たち庶民が城に入るなんてまずありえないし……」
「ちょっと二人とも! なにしてんのー!」
気付かぬうちに随分と離されたようで、遠くの門の方から凛の怒鳴り声が聞こえてきた。
「……っていうかあいつ、学園と随分キャラ違わないか?」
いや、最初からなんとなく気にはなっていたのだが死徒やらサーヴァントやらで頭の片隅にでも追いやられていたようだ。
しかしなんとなく思う。きっと……というかほぼ確実に、こっちの遠坂凛が地なのだろう。
「行きましょう先輩。遠坂先輩、怒るととんでもないですから」
「やっぱりそうなのか。……って、桜。遠坂と面識あったのか?」
そういえばさっき桜と呼び捨てていたような気もする。
「はい。いろいろと良くしてもらってます」
「ふーん」
あれで後輩の面倒見は良いのかもしれない。……確かにいまの凛からは姉御肌のような雰囲気を感じるが。
「行きましょう、先輩」
「あぁ」
門を潜った時点で何かしらの結界を通過したのを士郎は察知した。凛と一緒にいるからいまは反応してないようだが。
本来であれば気付かぬ程度の違和感だが、士郎はこの手の違和感に敏感だ。これが侵入者対策の何かしらの結界なんだろう、と理解する。
そのまま城内のホールへと足を踏み入れる。美術品が綺麗に飾られているのかと思えば、思いの外そんなことはなかった。花などは飾られているが、さほど高級感を醸し出す物は置かれていない。
「そういえば、あまり財政良くないとかいう話聞いたことあるな……」
にも関わらず税率を引き上げたりしない辺り、さすがは国民に好かれる女王遠坂凛である。
お金が足りないから即座に税率を引き上げるなんて言語道断、まずは削れるものを削ってからだ、というのが凛の方針だ。
きっとこの辺が寂しく見えるのもその方針による結果なのだろう。そこまでする凛に尊敬の念を抱く士郎であった。
「とりあえずここで良いかしら。あ、適当に座ってて」
通されたのは広めのサロンだった。凛はそのまま奥へと消えた。ちょっと覗いてみれば簡易のキッチンがあり、軽い食事やお茶などはそこで作れるようになっているようだ。
「って、ちょっと待て!? 女王自らお茶淹れるのか!?」
「他に誰が淹れるのよ?」
「誰にって……あ」
そういえばさっきから給仕などの姿を一人も見かけない。気配を探ってみようとも感じられるのは遠方にわずか二、三人だけだ。
夜とはいえ、いくらなんでも寝るにはまだ早い時間だろう。にも関わらずほぼ無人というのはどういうことなのだろう。
「一番お金が掛かるのはなんと言っても人件費だからね。必要最低限な人以外は雇わないようにしているし、五時くらいには皆帰しちゃってるわ」
そんな士郎の疑問を読み取ったかのように答え、凛はお盆にティーセットを乗せて戻ってきた。
「座りましょ。じゃなきゃ、何のためにここまで来たのかわからないわ」
確かにその通りなので、士郎は手近な椅子に座った。セイバーは座る気がないのか、士郎の後方に守護者のように立つまま。
桜はそんなセイバーを思ってか、士郎の隣には座らず、一つ分席を離れて横に座った。ライダーの姿はいつの間にかない。霊体化したのだろう。
そして凛がお盆をテーブルに乗せ、士郎たちの向かいに座った。こちらもアーチャーの姿はない。
凛はそのまま慣れた手つきで紅茶を人数分淹れて、士郎と桜それぞれにコップを手渡した。
「サンキュ」
「ありがとうございます」
「濡れちゃって身体も冷えてるでしょ? 少しは温まると思うわよ」
言われるまで気付かなかったが、そういえば雨の中を戦って、そして歩いてきたのだった。
自覚をした途端一気に身体が冷えてきたように感じてきた。よっぽど意識が別のところに行っていたようだ。
なのでありがたく紅茶をいただく。口に含んだその味は、お世辞抜きで美味しかった。
凛も紅茶を一口含み、優雅な動作でソーサーにカップを戻す。その一連の動きがあまりに絵になっていたので、士郎は一瞬見惚れてしまった。
「さて、と。まずは状況確認が先かな……って、なに衛宮くん? わたしの顔に何かついてる?」
「あ、ああいやなんでもない! なんでもないから話を進めてくれ!」
「? まぁいいけど。……それで。二人とも、いま自分がどういう状況でどんな立場にあるかわかってる?」
士郎、そして桜も頷いた。
他の大陸ならばいざ知らず、ことフェイト王国の魔術師たちに限っては『聖杯戦争』というのはそれなりに有名な名称だ。
細部は知らずとも、おおよそそれがどういったものなのかは、大概の魔術師は知っている。
「そう。手間が省けて良いわ。当面はそれさえわかっててくれれば良い。それじゃあわたしのさっきの言葉の説明をしましょうか。
まずは……この国の現状をしっかりと把握してもらうことが先かしら」
この国の現状? と士郎と桜が顔を見合わせる。
「この国がいま戦争中、ってことは知ってるわね?」
「隣のムーンプリンセス王国、ですよね。でもいまは小康状態が続いていると聞いてますけど……」
「いまのところは、ね。でも近いうちに本格的に動き出すはずよ」
断言するような物言いだ。桜は眉根を顰め、
「……どうして、そうわかるんですか?」
「じゃあ桜。逆に聞くけど、どうしてムーンプリンセスはこのフェイトに攻め込んでくると思う?」
「え、それは……」
桜はその理由を知らない。もちろん士郎も。とはいえ、それはある意味で当然だろう。
なんせムーンプリンセスとフェイトの戦争はかなり昔から行われているものだ。少なくとも既に百年は越えている。
士郎や桜が生まれたときから敵対関係にある国であるから、どうしてそうなったのかという理由は結局知らないままだった。
学園でもムーンプリンセスとの歴史は語られるが、その戦いの発端は『ムーンプリンセスが攻めてきた』とあるだけで、理由については言及されていない。
「ムーンプリンセスとは昔から敵対関係ではあるけれど、あの国が本格的にこの地に攻め込んできたのは開戦から三度。
それ以外は小さな小競り合いだけで、向こうも本腰を入れていないのは見え見え」
「三度?」
ええ、と頷き凛はカップを手に取る。
「投入兵数が四桁を越えた戦いはわずかに三度。百三十年前と七十年前、十年前。……これ、何かに符合すると思わない?」
紅茶を飲みながら言う凛の試すようなその口振りに、すぐに反応したのはやはり桜だった。
「聖杯戦争が始まった年と同じ……!」
「そう。百三十年前は第二次、七十年前は第三次、十年前は第四次聖杯戦争が行われた年」
つまり、とソーサーにカップを戻し、
「ムーンプリンセスが狙っているのは聖杯なのよ」
士郎と桜が身を固めた。つまりそれは、
「サーヴァントが召喚されている以上、もうすぐ聖杯戦争は幕を開ける。だから――」
「また近いうちに大きな戦争が起きるって言うのか、十年前のような……!」
士郎の脳裏を掠めるのは、十年前のとある光景。
燃え盛る炎。
どこまでも続く闇。
充満する血の臭い。
蔓延する死の気配。
ソシテ、テンニソビエル、クロイ――、
「せ、先輩……?」
「っ……! な、なんでもない」
相当怖い表情をしていたのだろう、怯えたような顔で桜がこちらを見ていた。凛もどこか驚いたような顔でこっちを見ている。
「衛宮くん……どうかしたの?」
「いや……。十年前のあの火災にはちょっとあってな」
途端に、凛と桜の顔が翳った。
多くの死傷者を出したあの大規模火災は、聖杯戦争に干渉しようとしたムーンプリンセスによるものだ、と言われている。
凛も桜もあの火災で士郎が誰か身近な者を亡くしたりしたのだろう、と考えた。
だが実際は違う。
巻き込まれたのは士郎本人だ。
あの火災の中心地で生き残った唯一の人間。それが彼、衛宮士郎であり、そして……、
士郎の目標たる、衛宮切嗣との出会いでもあった。
「――いや、いまはそんなことはどうでも良いんだ」
士郎はかぶりを振り重くなった思考を追い出す。
そう、いま考えるべきはそんなことじゃない。問題は、これからあんな惨事が起きる可能性がある、ということだ。
「つまり遠坂が言う『力を貸して欲しい』っていうのは、ムーンプリンセスを止めるっていうことだな?」
「ええ。ムーンプリンセスが聖杯を狙っている以上、聖杯戦争なんてしている場合じゃない。そんなことをして聖杯が奪われでもしたらどんなことになるかわかったもんじゃないし……。だから当面は聖杯戦争を開始せず、ムーンプリンセスをどうにかしないと」
凛の意図は理解した。その理由も。だが士郎も桜も迷うように目を伏せるだけ。
だが凛もそんな反応を予期していたのだろう。小さく笑みを浮かべながら、
「……ま、すぐに返事を欲しいだなんて思ってないし、それに聖杯戦争に関するちゃんとした説明もまだだしね。
聖杯戦争の詳しい話は……そうね、今日はもう遅いし明日あそこに行って聞くとしましょう。わたしから説明するのも面倒くさいし。
で、その後で返事を聞かせてちょうだい」
その言葉に、士郎は思わずガタン! 椅子を揺らして立ち上がった。
「明日……ってまさか!?」
「ここに泊まっていけってことですか……?」
士郎はもちろん桜も大分戸惑っている。しかし凛はしれっと、
「なに? 駄目なの?」
「だ、駄目ってわけじゃないけど……ほら、ここもう人も少ないしいろいろと不謹慎じゃないか!?」
「何言ってるの。わたしたちにはそんじょそこらの警備兵なんかより優秀なサーヴァントがいるのよ? 何の心配があるの?」
「そ、そりゃあそうだけど……」
どもる士郎を見て、不意に凛は「ははぁん?」と意地悪な笑みを浮かべ、
「そっかー。衛宮くんは女の子の家に泊まったことないんだ?」
「と、ととと、当然だろ!」
「あはは、初々しくて面白いわねぇ。ま、でもここはお城なんだから部屋なんていくつもあるし、遠いから大丈夫でしょ?」
「そういう問題か……?」
そもそも同じ屋根(と言って良いかは微妙だが)の下であの遠坂凛やこの間桐桜と一緒に泊まる、というのが士郎にとっては問題なのである。
凛は士郎にとって憧れのような存在だし、桜は桜でここ最近ますます綺麗になってどぎまぎしっぱなしなのだ。
いくら広い城の中だとはいえ、そう考えるだけでどこか落ち着かない。
しかし凛はそんな士郎にトドメを刺すような台詞を口にした。
「まぁわたしや桜は良いとしてもさ、士郎?」
「な、なんだよ……」
ニヤニヤと笑いながらピッ、と士郎の後ろを指差し、
「問題はセイバーなんじゃないの?」
「え……?」
振り返る。するともちろんそこには不動のまま直立しているセイバーがいる。
注目されていることを自覚してか、表情は変えぬままセイバーが口を開く。
「私が何か」
「ねぇセイバー。あなたさっきから霊体化せずにそこにいるけど……もしかして霊体化できないんじゃないの?」
「……どうやらそのようです。しかし、さほど問題はありません」
「そうね。それじゃセイバーはどこで寝るのかしら?」
「そんなこと、マスターの傍に決まっています」
「なっ……!?」
ほーらやっぱり、と呟く凛を他所に、愕然とした様子で士郎は呻いた。
「ま、待ってくれセイバー! 傍って、まさか一緒の部屋で寝るつもりなのか!?」
「無論です。就眠時こそ最も隙が生じます。マスターを守るためには当然のことでしょう」
「駄目だ! そんなことは認められない!」
「何故ですマスター。理由を聞かせてもらいたい」
「というかそのマスターっていう呼び方もどうにかしてくれ! こう、慣れなくて鳥肌が立つ!」
「ではシロウ、と。ええ、この発音は私としても好ましい」
「っ……! そ、そんな顔をしても一緒の部屋ってのは駄目だからな」
「シロウ。脈絡がありません」
「駄目なものは駄目なんだ!」
ギャーギャーと言い合う二人を見ながら、凛は苦笑。その横で桜が神妙な面持ちで声を掛けてきた。
「あの……遠坂先輩」
「ん? なに? まさか桜まで嫌だなんて言うわけじゃないでしょうね」
「いえ。それは別に……」
あまり『別に』という表情ではない。まぁ仕方ないか、と凛は思う。桜はこの城には多少の因縁があるわけだし。
「そ。それじゃあ何?」
「その……さっき言っていた、『あそこ』あそこってどこなんでしょう?」
ああそっか、と凛はなんでもないことのように指を立て、
「言峰教会よ」
軽い口振りで告げた。
そして翌日。凛は士郎と桜を引き連れてこの場所までやって来た。
言峰教会。
士郎も名だけは知っている。王都の北側にある、高台の上に建つかなり立派な教会のことだ。
しかし行った事はない。行く必要もなかった、ということもあるのだが……それ以上にその場に寄り付きたくなかったのだ。
「それにしても……凄いな」
噂には聞いていたが、まさかこれほど豪勢だとは思わなかった。
大きさはそれほどでもないが、装飾などだけを見て取ればちょっとした城にも匹敵するのではないだろうか。
広場の中央に聳えるように建つその教会は、それだけで威圧感を放っているようだった。
「……」
その威圧感に飲まれているのか、桜も士郎同様に顔が強張っている。
「……桜、大丈夫か?」
「え、あ、はい。大丈夫です先輩」
咄嗟に笑みを見せてくれるが、それは気丈に振舞っているだけだとすぐに悟った。
とはいえ、桜は案外頑固であることも士郎は知っている。いまそのことを追求したとしても突っぱねるだけだろう。
「そうか、無理だけはするなよ」
「はい」
だから士郎はそれだけを言うに留めて、向き直った。
「それで、中に入るのか?」
「当然よ。そのために来たんじゃない」
それはそうだ。そんなことわかりきっているのに、何故自分はそんなことを聞いたのだろうか。
「シロウ」
名を呼んだのは、道中ずっと後ろにいたセイバーだった。
サーヴァントは本来霊体化できるはずなのだが、セイバーはどういうわけかそれができないらしい。実際、凛のアーチャーや桜のライダーは姿を消している。霊体化して各々のマスターを守護しているのだろう。
セイバーが言うには、おそらく事故に近い召喚による影響の一つだ、ということらしい。
「どうしたセイバー?」
「私はここに残ります」
「え、なんで?」
「私の目的はシロウを守ることです。目的地がここならこれ以上離れることもないでしょう。ですからここで帰りを待つことにします」
よくわからないがセイバーはこの中に入るのが嫌なようだ。なら無理強いをする必要もないだろう。
「わかった。待っててくれ」
「はい」
頷いて一歩引くセイバー。そして三人は教会へと足を踏み入れた。
「――」
足を踏み入れた瞬間、士郎の中で何かがざわついた。
それがどういったものなのか、自身理解できなかった。恐怖でもない。敵意を感じたのとも違う。
ただ、そう。言うなれば漠然とした――悪寒。
「あの、先輩……?」
「いや、なんでもない。ちょっと目眩がしただけだ」
さっきまで心配していた桜に逆に心配されるようじゃ話にならない。士郎は一つ深呼吸すると、その悪寒を気合で払拭した。
そうして三人で祭壇の近くまで進んでいく。中は外で見たときより広く感じる。幾多もの椅子に挟まれた通路を歩き、そして足を止めた。
「綺礼、いるんでしょ?」
「綺礼?」
「言峰綺礼。ここの教会の神父。そして聖杯戦争の監督役よ。ついでにいえば十年来の知人でもあるわね」
十年来。それはまた、
「なんとも年季の入った間柄だな。もしかして親戚とか?」
「親戚じゃないけど、わたしの後見人。更に言えば父さんの元教え子……つまり兄弟子で、第二の師と言えなくもない相手よ。ま、敬ったりなんかこれっぽっちもしてないけど?」
その言葉に、何故か桜がかなり驚いた表情を見せた。しかしそれも一瞬であり、すぐに俯いて表情を消してしまう。
どうかしたのか、と桜に声を掛けようとして、
「師を敬わな弟子など私も持ちたくはなかったのだがな」
ゾクリ、と。全身の神経が警告を発するかのような怖気に見舞われた。
弾かれるようにして振り向けば、祭壇の裏側から長身の男が現れたところだった。
見たこともない顔。しかし、本能で理解した。
なるほど。この男の住処であるのならこの建物の悪寒も頷ける、と。そしてこの男こそが、
「やっと出てきたわね、綺礼」
……言峰、綺礼。
「そう急かすな。お前からこちらに訊ねることなど滅多にあるものじゃない。だから対応が遅れただけのことだ」
「ふん。何言ってるのよ。どうせあんたのことだからわたしたちがここに足を踏み入れた瞬間から気付いていたんでしょ?
それをここまで一回も声を掛けずに待ち構えてるなんて、悪趣味も良いところだわ」
「ふっ。あまり私を過大評価するな。嬉しくはあるが、私とて万能ではない」
どうだか、と凛は肩を竦める。どうも対応を見る限り、あまりこの神父を好いてはいないようだ。
「それで?」
と、綺礼の視線が凛の後ろ……士郎と桜に向けられる。
「っ……」
その瞬間、士郎はハッキリと悪寒を感じた。
駄目だ。この男は絶対に受け入れられない。自分とは根本から何かが違う。そう悟った。
「その二人は新たなマスターか」
「ええ、そうよ。一応わたしからも現状は話したけど、聖杯戦争の監督役でもあるあなたからも話しておいてもらおうと思ってね」
「なるほど。そういうことか。……ではとりあえず君たちの名を聞いておこうか」
「あ、ま、間桐桜です」
「――衛宮士郎だ」
「間桐桜に、衛宮……士郎」
悪寒が増す。
名を告げた瞬間、言峰綺礼は確かに口元を釣り上げたのだ。
「二人には礼を言わねばならないかもしれんな。コレが私を頼ることなどそう滅多にないからな、私は素直に嬉しいよ」
「そんな御託はどうでも良いの。さっさと話を始めてくれる?」
言うだけ言うと凛は後ろに下がり、通路の脇に並ぶ椅子の一つに腰を下ろした。あとは勝手に話せ、ということらしい。
「さて。折角アレが頼ってきてくれたのだ。私も私の務めを果たすとしよう。それで? 聖杯戦争についてはどれくらい知っているのかな?」
「一応、常識的な範囲でなら知っている」
「ふむ。この国は昔から聖杯戦争を行ってきたからな。他大陸とは違って魔術師であるならば誰でも表面部分は知っている、か。
ということはマスターやサーヴァント、その仕組みや戦う理由はわかっているのだな?」
「あぁ」
聖杯戦争とは読んで字の如く『聖杯』を手に入れるための戦争である。
フェイト王国でほぼ六十年に一度の周期で行われるこれは、過去にも四度あったと聞く。
万能の釜たる『聖杯』。手にしたものは世界さえ手に入れることができるという願望器。
探求者たる魔術師がそれを手に入れたがるのはある意味当然のことであろう。
そのために行われる戦いが聖杯戦争。だがそれは一定のルールの下で繰り広げられる。
一つ、聖杯戦争に参加する者は聖杯自体が選ぶということ。その証が士郎の腕にある令呪である。
そしてもう一つ、選ばれし魔術師たちはそれぞれサーヴァントと呼ばれる過去の英雄を顕現し使役して、この戦いに望むということ。だが、
「俺が知ってるのはこのくらいだ。でも、だからこそわからないことがある」
「ふむ。それは?」
「なんでわざわざサーヴァントなんてものを呼ばなくちゃならない? 自分たちの争いに他者を巻き込むなんて、おかしいだろ」
「英霊に対してそのような一般論を持ってくるとは驚きだが……ともかく、その質問には答えよう。
そもそも聖杯とは決して常時そこにある品物ではない」
「え? いや、でも聖杯は管理されているはずじゃ……?」
「それは器にすぎん。あるタイミングで本物の『聖杯』という霊体を、形を模した器たる『聖杯』に憑依させて始めて真の『聖杯』たらしめるのだ。
聖杯戦争はその儀式としての側面も持つ。サーヴァントが持つ巨大な魂を吸収し力を蓄え、願望器としての性能を上げていく。
そして霊体たる聖杯に触れられるのは同じく霊体のみ。こういったいくつかの点から、サーヴァントはこの戦争において必要不可欠なのだ」
なるほど。それなら頷ける。
サーヴァントは決して戦いの術としてだけではなく、いくつもの必要性があったものなのだろう。
上手く出来ている、と思う。
「わかったか? ではわかった上で今度はこちらから問おう。――衛宮士郎、お前は聖杯戦争に参加する意欲はないのか?」
「なんですって……?」
その言葉に反応したのは凛だった。
「聖杯戦争に意欲がない、ってどういうこと? だって衛宮くんは聖杯戦争に参加するためにサーヴァントを召喚したんでしょう?」
「……いや、セイバーを召喚したのは事故に近い偶然だ。呼び出そうとして呼び出したわけじゃない」
「偶然……? そんなことってあるの……?」
士郎は注意深く綺礼を見やる。
「どうしてあんたはそう思ったんだ? 俺が聖杯戦争に意欲がない、って」
「これでもれっきとした教会の神父でね。悩みを抱えた者と触れる機会は多い。故に、顔を見ればわかる。
衛宮士郎。君は聖杯戦争を……いや違うな、戦い自体を否定するか」
「……俺は殺し合いなんてしたくない。確かに遠坂が言ってたように今日明日で聖杯戦争が起きることはないんだろう。
でも、それはただ後に延びただけでなくなったわけじゃ決してない。俺は聖杯になんて興味はないし、マスターになりたかったわけでもない」
「ほう?」
綺礼は面白そうに笑う。
「ならば少年。君は聖杯戦争を放棄すると考えて良いのだな? もし仮に聖杯戦争の結果、どんなことが起ころうとも目を瞑ると?」
「……」
返答に窮する士郎。
それを言われると士郎は反論が出来ない。
士郎とて魔術師の端くれだ。過去の英霊たるサーヴァントを呼び出す聖杯、なんていうものがどれだけふざけた代物かは理解できる。
もし聖杯戦争で最後まで勝ち残り聖杯を手に入れた者がとんでもない悪人だったなら?
その後巻き起こる被害は、きっと大陸だけに留まらず世界にさえ飛び火するだろう。最悪の災厄になるに違いない。
そんな士郎の苦悩を理解しながら、綺礼は言葉を続ける。
「いたって単純なことではないか? 多くの被害を出したくないのであれば、自ら戦い自らの望む帰結をその手で掴み取れば良い。
困難ではあると思うが、決して不可能ではない。他者に任せるよりはよっぽど有意義だと思うがな?」
綺礼の言っていることは極論だが、間違ってはいない。だからこそ士郎もそれを切り捨てることができない。
「まだ迷うか衛宮士郎? ……そもそも、君の中では既に答えが出ているような気もするがな?」
「っ……」
癪だが、きっとその通りだ。
凛から再び十年前のような戦争が起きると聞いた時。そして綺礼から聖杯戦争の周囲への危険性を示唆された時に、
「俺は聖杯なんて興味はない。それはいまでも変わらない。でも……聖杯戦争を中心にして戦いが巻き起こるというのなら」
士郎にはもう、向かうべき道が決まっていた。
「俺は出来うる限りそれを止めたい。……そのために、戦う」
偶然とは言えセイバーのマスターにもなり、死徒とも戦いを行った。
もしこれからもあのようなことが起こるのなら、止めたい。
また聖杯を望む者にとんでもない奴がいても、それも止めたい。
士郎の行動原理は結局はそこに帰結する。
彼の目指す正義の味方として。誰をも守りたいのだ、と。
そんな士郎を見て満足げに頷いた綺礼は、その横へ視線を転じた。
「では次に君だな、間桐桜。見たところ、君もあまり乗り気ではなさそうだが……どうかな?」
「え、わ、わたし……は……」
桜は何故か悔しげに唇を噛むと、
「……戦い、ます」
どこか悲しげな瞳で士郎を一瞥して、絞り出すかのようにそう告げた。
「聖杯を手に入れることは間桐の悲願……ですから」
「そうか」
深く頷き、綺礼は一歩後ろに下がると歓迎するかのように両手を広げ、聖者のように微笑んだ。
「では君たちを聖杯戦争に参加するマスターとして迎えよう。聖杯を手に入れるため、各々力を振るうが良い」
「綺礼。言ったでしょ? 聖杯戦争はまだしない、って」
凛が立ち上がる。
「しばらくはマスター同士協力してムーンプリンセスをどうにかしないと。だから監督役としてしばらく聖杯戦争を開始しないように通達して欲しいの」
だが綺礼は首を横に振った。
「いや、その必要はないだろう」
「? どういうこと?」
「まだ聖杯戦争は始まっていないからな」
「……まさか、七人のマスターが揃ってないっていうこと?」
「いや、マスターは揃っている。だが――」
「まだ召喚をしてない、ってことか。なるほど、マスターが既に決まってるんじゃ他の魔術師で代用して始めることもできないわけね」
「そうだ。つまり私が停戦を通達するまでもなく、聖杯戦争は未だ始まってすらいないということだ」
「そ。なら協力要請は?」
「出来ないこともないが、受け入れるかどうかは相手次第だ。それにフェイト国内にいない者もいるから、こちらは手出しできんな」
「外国に……?」
それは凛も意外だったのか、思わず眉を顰めた。
「聖杯に選ばれるのはフェイト国内にいる者だけじゃないの?」
「過去の例を見る限り、そうではないようだ。実際、この地に足を踏み入れたこともない人間がマスターになったこともある。
いまは戦時中の国も多いからな。こちらからの連絡が届くとも限らん」
「ふ〜ん……」
しばらく考え込むように目を伏せていた凛だったが、すぐに表情は崩れた。
「ま、いっか。当てにできないものに思考を割くなんて心の贅肉よね。でも一応通達だけはしておいて」
「わかった。そうしておこう」
頷く綺礼を一瞥し、「さて、と」と呟いて凛は真剣な面持ちで士郎たちの方へ振り返った。
「――士郎、桜。改めて聞くわ。わたしにあなたたちの力を貸して」
聖杯戦争の全てと、現状を把握した上で、凛は再度同じ言葉を口にした。
その言葉を受け、士郎は笑う。
「さっき答えは言った、遠坂」
手を差し出し、
「俺は俺の目的のために戦う、って。……それに、遠坂と仲間っていうのは心強い。これからよろしく」
「な、仲間じゃないわよ? 一時休戦なんだからね。いつかは敵になるんだから」
「それでも良いさ。俺は嬉しいんだから」
「……ふん」
そっぽを向きつつも凛はその握手に応じた。その横で慌てたように桜がその手の上……主に士郎の手の上に自らの手を置く。
「わ、わたしも……出来る限り助力します!」
「ん、これで同盟成立ね」
微笑んだ凛が手を引いて、安堵の息を吐いた。
「さて、と。それじゃあとっとと戻りましょう。これからのことも話し合いたいし……正直あんまりここに長居したくないのよね」
ここの主である綺礼の目の前でとんでもない言い草ではあるが、それには士郎も、そして桜も同意だった。
神聖な場所であるにもかかわらず、どうしてか空気が淀んでいるような気がするのだ、この場所は。
凛は綺礼に一言の挨拶もせぬままさっさと教会を出て、桜も一礼だけを残しその後に続いた。
士郎もすぐ追いかけようとしたが、不意に感じた圧力に思わず振り返る。
「うぉ!?」
するとどういうわけかすぐ背後に綺礼が立っていた。
「な、なんだよ。声も掛けずに人の背後に立ちやがって」
だが綺礼はすぐに答えない。まるでねめつけるように士郎を見下ろすと、不意に口元を崩し、
「――――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」
ドクン、と。その言葉を聞いて心臓が大きく疼いた。
「なに、を」
「とぼけるのは結構だが、自身わかっているはずだろう? 明確な悪がいなければ正義は行えない。
……そう、正義の味方には倒すべき悪が必要なのだから」
「っ……!」
言葉を振り切るように踵を返し、士郎は教会を後にする。
この足は、一体何から逃げているのだろう?
『喜べ少年』
この動悸は、一体何を恐れているのだろう?
『君の願いは、ようやく叶う』
言峰綺礼の言葉に動揺した? 何故?
それは、まさか、
その言葉が、衛宮士郎が望んだことの真理だとでも言うつもりか……?
「バカな」
悪なんて望んでいない。そんなものはなくなって、全てが平和であればそれで良いと思っている。この気持ちに嘘はない。
そう信じて、士郎は二度と振り返ることはなかった。
それが、昨日までに起こった顛末である。
「……くそ」
「シロウ?」
「いや、なんでもない」
切嗣の夢を見たのは、あの神父の言葉が頭に残っていたからかもしれない……と士郎は思う。
ニュアンスこそまったく異なるが、士郎の想い描く『正義』という形には無理があると断じた点では共通している。
切嗣の言っていることは、わかる。
綺礼の言っていることは、暴論だが一理あるようにも感じる。
だが、そのどちらも考えた上でなお、衛宮士郎は自らの正義を貫きたい。
一人でも多くの人を救いたい。犠牲を妥協したくはない。守れるものは守りたい。不条理な死は避けさせたい。
そう願い、思い、行動することがそれだけ悪いことなのだろうか。いけないことなのだろうか。
歪であることは認めよう。難しいことも……否、そんな夢物語はほぼ不可能だともわかっている。
それでも、それでも理想を追うことはいけないことなんだろうか。
「なぁ、セイバー」
「なんでしょうシロウ」
「セイバーには理想、ってあるか?」
それはよほど意外な質問だったんだろう。セイバーはポカンとした表情で動きを止めた。現界して初めてではないだろうか、セイバーの鉄面皮がこんな形で崩れたのは。
士郎は頬を掻き、
「あー、そんな変な質問だったか?」
「あ……いえ。起きぬけにそのようなことを聞かれるとは思いもしませんでしたので……。別にシロウを侮辱する意図はありませんから」
「はは、そんなことはわかってるよ」
こほん、と咳一つ。セイバーは佇まいを直す。
「私にももちろん理想はあります。それがどうかしたのですか?」
「いや。もしセイバーがさ、その自分の追い求める理想を他の誰かに否定されたり拒否されたりしたらどうする?」
「――」
瞠目するセイバー。そしてすぐに顔を俯かせる。
「セイバー……?」
その態度から、もしかしたらセイバーもいつかどこかで似たようなことがあったのかもしれない、と感じた。
だがそれも一瞬だ。セイバーが再び顔を上げたときには、いつもの力強い表情が戻っていた。
「理想は……人それぞれですから。それだけぶつかったり、あるいは真っ向から否定される場合もあるでしょう。
もしかしたら相手の在り方に挫折を感じることもあるかもしれない。相手の言い分に理解できる点も……あるときはあるでしょう。
ですが、それでも自らが想い描く理想を自分が信じているのであれば、それは――曲げることはせず貫くべきだ、と私は思います」
「そう……だよな。うん。ありがとうセイバー。少し気分が楽になった」
「いえ。何に役立ったのかはわかりませんが、シロウの助けになったのなら幸いだ」
「あぁ、十分助けになったさ」
よっ、と掛け声一つでベッドから起き上がる。そのまま伸びを一つして、士郎はドアへと足を向けた。
「シロウ、どこかに行くのですか?」
「ん、ちょっと眠気覚ましに散歩」
「そうですか。ここはリンの城ですから敵はいないとは思いますが、注意だけは怠らないように」
「あぁ、わかってるよ」
セイバーの注意に苦笑しつつ、士郎は部屋を出る……その直前で足を止め、振り返った。
「シロウ?」
「えっと……」
士郎は一つ大事なことを言ってないことを思い出した。
セイバーの目を見つめ、ハッキリと告げる。
「セイバー、俺戦うから」
それは、証だ。
「俺は正規のマスターじゃないし、聖杯戦争にも偶然関わるようなことになった半端な魔術師だ。
でも、戦うって決めた。セイバーのマスターとして、俺なりに頑張るつもりだ。だから……一緒に、戦ってくれるか? セイバー」
士郎の想い。士郎の言葉。
それを受け、セイバーはゆっくりと椅子から立ち上がると背筋を伸ばし、そして――力強い笑みを見せてくれた。
「言ったはずです、シロウ。私の剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある、と。私は貴方の剣であり盾。
あなたが戦うと決めたのなら、私も共に参りましょう。これは私見ですが……大丈夫、貴方はきっとどこまでも正の道を進むでしょうから」
「……あぁ、これからよろしく頼むセイバー」
笑い合い、士郎は確信した。
このセイバーと一緒なら、きっと自分は道を踏み外すことなく理想を追えるはずだ……と。
あとがき
ってなわけで、どうも神無月です。
えー、Fateです。若干変わってますが内容はほぼ原作どおりだと思います。
とりあえず状況整理ですね。……それだけでもここまで長くなるなんてさすがFateだ(汗
さて、次回の番外はアッチ側のお話です。
初登場キャラもりだくさんですね。
ではまた。