神魔戦記 間章 (百四十九〜百五十)
「渚」
『いつか必ず、お前を全ての不条理から救い出して見せるから』
そう言った男の子の、真剣な眼差しをいまでもはっきりと思い出すことが出来る。
どこまでも真っ直ぐで、強く、そして自分の信念は曲げない彼の言うことだから、疑いはしなかった。
それは希望だったかもしれない。絶望からくる裏返しの逃避だったのかもしれない。
でも、この事実に変わりはない。
古河渚はいつか、本当にそんな日が来ると疑いもなく信じていた。
そしてもしその日がやって来たのなら、
何もかもを投げ出してまで救いの手を差し出してくれたあの人のために……今度は他でもない、自分が助けになろうとそう決めていた。
「わぁ……」
目の前に広がる光景を見て、彼女――古河渚は目を輝かせた。
賑わう街並。行き交う人々。その喧騒、この雰囲気を窓から眺めるでなく実際に感じるのは一体いつ以来だろうか?
魔力の過度な蓄積、それによる膨張のために身体が弱く、その上クラナドでは死んでいたことになっていたので外になど出れなかった日々。
いつかまた街を自分の足で歩きたいと……そう願っていた現実がいま、こうして目の前に展開されているのだ。
いまのこの感動を、きっと生涯忘れることはないだろうと渚は確信した。
「朋也くん朋也くん! 凄い活気ですねっ!」
「あぁ、そうだな」
興奮気味の渚に苦笑しつつ朋也が寄り添う。
ちとせに魔力を吸われて数日。安定を取り戻した渚のリハビリを兼ねて、こうして二人はカノンの街に繰り出していた。
城の方はいま翌日に控えたシズク侵攻作戦のためにてんやわんやだが、城下町はそんなの知らぬとばかりに活気だっていた。
いや、むしろこれは民なりの手向けなのだろう。彼らとてカノン軍がシズクに向かうことは知っている。
シズクに怒りを覚えているのはキー四国のどの民とて同じだ。だからこそ、挫けず、あの程度の騒動じゃ自分たちはどうにもなりはしないんだとアピールせんとするように、日頃以上の賑わいを見せていた。
もちろん、あの戦いからそう日にちは経っていない。修復されきってない建物もあるし、未だ戦いの爪あとは視界に映る。
それでも店を失った者は露天を開いて客引きをしているし、いまでもなお行商人や大道芸などの旅人もよくカノンに訪れる。
最も新しい国であるのに、最も安定している国。それがカノンなんだな、と朋也は今更ながらに考えた。
クラナドもいまはカノンが管理しているのでそう酷いものではないが、それでもまだいくつかの魔族批判派の集団との小競り合いは起こっているらしい。カノン建国時もしばらくは続いたもののようだから仕方ないと美汐や香里は言っていたが。
……まぁ今日はそう難しいことを考える必要もない。街が賑わっているのは大いに結構だ。渚も喜ぶし。
「朋也くん! あれは何ですか?」
まるで子供のようにはしゃぐ渚は気付いているのだろうか? その左手が朋也の右手を掴んで離さないということに。
――ま、別に良いけどな。
水を差すのも馬鹿馬鹿しい。そりゃあ気付いて顔を真っ赤にして慌てて手を離す渚というのも見たいが、いまはその久しぶりな笑顔を堪能したかった。
「あれってどれだ?」
「あれです、あれ! とっても美味しそうな匂いです」
渚が指差した方向には確かに甘い匂いがする出店があった。何かを鉄板の型で焼いているようだが……。
「あれは……なんだろう?」
「あれはヨフアルと言うんですよ〜」
「おわっ!?」
突然の後ろからの声に思わず飛び退き、条件反射のように剣の柄に手が伸びてしまう。
渚の笑顔に浮かれてて気配にまったく気付かなかった自分の浅はかさを心中で罵倒しながら相手を見て――、
「あ、すいません。そんなに驚かれるとは思いもしませんでしたので〜」
戦意も毒気もこぞって抜かれてしまいそうな柔和な笑みを浮かべる少女がそこにいた。
人……ではない。緑の衣装に緑の髪。そしてこの気配……グリーンスピリットだ。
「……あんた、確か城で何度か見かけたな……?」
「はい〜。ハリオン=グリーンスピリットって言いますー。いまはヨーティア様の護衛のためにエターナル・アセリアより派遣されていますー」
敵ではないことがわかったので朋也は構えを解くが、朋也はハリオンのことを警戒するような視線を解かなかった。
いや、それは警戒というより……疑心。
「護衛……ねぇ。確かヨーティアってやつはクラナドにいるんじゃなかったか? あっちにいるときにそんな話を聞いたけど」
「あら〜?」
「それにあんたが両手に持ってるその袋からはいろいろと甘い匂いやら香ばしい匂いやら漂ってくるんだが……?」
「あらあら〜?」
そう、ハリオンは両手に見た目にも重そうな袋を持っているのだが、その中から見えるのは焼きたての菓子やら何やら、全部食べ物なのだ。
うーん、と小首を傾げているもののちっとも困ってるように見えないハリオンは、何か思いついたのかニコッと笑って、
「……ちょっと道に迷っちゃいました?」
「何で疑問系なのかわからんがどう考えても確信犯だと俺は思う」
「いえ、それほどでもないですよー」
「いまのどこに褒め言葉に聞こえる部分があった!?」
「と、朋也くん落ち着いてくださいっ」
何故か照れたように微笑むハリオンに思わず突っ込んでしまった。なんというか……独特な空気を持っているスピリットだ。
普通スピリットは魔族や神族以上に低く見られがちな種族なために性格も暗いスピリットが多い、という話を聞いていたが……この目の前のハリオンというスピリットを見る限りそんな様子は微塵もない。いまだっていくつかの好奇の視線を浴びていながらけろっとした顔で佇んでいる。
このボケっぷりは性格だな。しかも天然で真症の。
そう決め付けた朋也は、ともかく話を戻そうと嘆息しながら出店を親指で指差した。
「で、ヨフアルってのはなんなんだ?」
「はい〜。ヨフアルというのは焼き菓子の一つなのですが、我がエターナル・アセリアの女王、レスティーナ様の大好物なんです〜」
「へぇ、焼き菓子ねぇ」
「はい〜。材料に使う果物はカノンでは採れないものなのですが、エターナル・アセリアからワン経由で輸入されているんですよー」
「これのためだけにか?」
「そうですねー。他にも使いますけど、メインはこれでしょうかー。むしろこれはレスティーナ女王の押し売りみたいなところもあるようですし〜」
押し売りって。良いのか国交そんなので。
ただでさえ戦争被害の復旧に金が掛かるっていうのにそんなところに限りある国費を使ってしまうのはどうかと思えてしまう。
「大丈夫ですよー。輸入と言ってもそれほど大量ではないですし、ヨフアルもいま静かにブームになってきてますかた採算は取れているかとー」
「静かにブームってなんだ……?」
まぁ内政に関してとやかく言うつもりはないからそれは良いだろう、と朋也は自己完結した。
あの頭の回転が良い相沢祐一のことだからどうにか出来てるんだろう。それよりいまはそのヨフアルという焼き菓子に渚が熱烈な視線を送っているということだ。
「食べたいのか?」
「え、そ、そんなこと――」
くぅ〜。
可愛らしい腹の虫がどこからか聞こえてきた。誰のものかは言わずもがな、だが。
「………………………………すいません、食べたいです」
顔を真っ赤にして俯く渚に、思わず笑みがこぼれる。そんな渚の頭を軽く二度叩き、
「んじゃあ、買ってくる。何個が良い?」
「で、では二個ほど……」
「それではわたしは一個お願いします〜」
「待て。何故ナチュラルにハリオンが入ってくる?」
「?」
本当にわからないのか、心底不思議そうに首を傾げるハリオン。
オーケー、おおよその性格は掴めて来た。こいつはそういうやつなんだと割り切るしかなさそうだ。
「良い。わかった、買ってくる」
二人の少女に見送られ、朋也も並んでいる列に加わった。
なるほど、近付けばさらに良い香りが立ち込めてくる。確かに食欲をそそらされる、嫌味のない甘い匂い。これで味も良ければ確かにブームになるかもしれない。
「はい、お待ちどうさまです。何個ですか?」
「三……いや四個」
「はい」
やっぱここまで来ると自分も食べてみたくなるのが人の心理だろう。一国の女王さえ虜にする味というのも、まぁ正直気になるし。
と、ヨフアルという焼き菓子が紙包みに入れられるのを見ていると、
「うぐぅー! どいてどいてー!」
左の方からそんなけたたましい声が聞こえてきた。
視線を横にずらせば、出店の立ち並ぶ一角から猛スピードで滑空してくる神族の少女がいる。
見間違うはずもない。カノン軍の月宮あゆだ。
かなり切羽詰まっているようだが……何かあったんだろうか?
――まさか敵襲?
思考のスイッチが切り替わるように気配を濃密にする朋也に、
「あぁ、またですか……。すいません、あなたをカノン軍のご武人と見てお頼みするんですが……あの人止めてもらえますか?」
「は?」
よくわからない発言をヨフアルの店員から聞かされた。
また? またというのは何だろうか?
とはいえ、詳しく事情を聞いている暇はなさそうだ。あゆのスピードはかなり速く、既にすぐ傍まで迫っている。
話は後だな、と朋也はわずかに『鏡界の魔眼』を開放し、
「二重防御結界“水の盾”」
あゆの進路を阻むように水の結界を作り出した。
「えっ!?」
後ろを気にしていたあゆはすぐにそれには気付かず、そして気付いた頃にはもう遅く、
「うぐぅ?!」
ごちーん、と。周囲一帯に響き渡るほどの快音と共に顔から結界に突っ込んだ。
空中で静止したあゆは、そのままズルズルと地面に力なく落ちた。
「さすがは結界師。ヒビ一つ入らないな」
仁科理絵の結界の効力を改めて再認識しつつ、顔を物理的な意味で真っ赤にしたあゆに近付いていく。
「で? あんたは一体何してるんだ月宮」
「う、うぐぅ……お、おかにゃきくん……にゃの?」
鼻でも強く打ったのか、言語が危うい。
だがまぁわからないほどでもないので頷いておく。
「そうだ」
「うぐぅ、ひどいよ岡崎くんっ!」
ガバッと起き上がって文句を言うあゆ。なかなか早い復活である。
「いやぁ、お前速いから捕縛系よりこっちの方が確実だっただろうし。っていうか気付かずに激突するとは思わなかった」
「そもそもどうしてボクを止めようとするのー!?」
「止めろって言われたし」
「だから誰に――」
「城下商店街は全店協力体制なんですよ、月宮空長」
「うぐっ!?」
呆れ果てたようにあゆの背後に並ぶのは周囲で店舗を出していた人たちだ。
恐る恐る振り返るあゆに、店員たちは揃って溜め息を吐いて、
「別に後払いでも良いですから、せめて逃げないでください。まったく、どうして毎回財布を忘れたりするかな……」
「うぐぅ、ごめんなさい。なんというか本能というか習性というか〜……」
「はいはい。わかりましたからひとまず謝りに行きましょうね。あとはまた後で請求でもしますから」
「うーぐー」
ずるずると引きずられていくあゆ。……なんというか軍人としての威厳もへったくれもない光景である。
「なんかあの光景を見るとカノン、って感じしますよねぇ〜」
なんてのほほんと言うハリオンに、朋也は呆れるしかない。
「……あれが日常なのか、ここの」
「らしいですよ〜? 後は甘いものを制覇してく三人組とか、子供と鬼ごっこをしている王妃様とか、農作業をしている王様とかたまに見ますね〜」
どんな国だよ、と全力で突っ込みたいが……まぁだからこそのカノンと言えるのかもしれない。
ここに住むようになってまだそう日にちは経ってないが、それが嘘ではなく真実なんだろうなぁ、とわかる程度にはこの国を理解していた。
「良い国なんですね、ここは」
渚は笑って言う。
まぁそれは朋也も同感だ。少なくとも昔のクラナドよりかはずっと良い。
ここには絶望がない。あれだけの損害を受けながらなお、こうして街には笑顔があるし、活気もある。
きっと信じているんだろう。新しい王ならば、このような状況もいずれ打開してくれるはずだ、と。
「ところで〜」
ハリオンの声に思考が中断された。何だと思い彼女を見やれば、ハリオンは小さく小首を傾げて、一言。
「ヨフアルは?」
「……あ」
店員は、そこにいなかった。
店員が戻ってきたのはその数分後で、謝りながら彼は新しいのを焼いてくれた。しかもおまけで二個プラスするというサービスつきで。
そうして朋也たちはヨフアルを食べるために近くの公園のベンチに陣取ったわけだが……、
「なんでお前もいる」
「うぐぅ、そんな言い方しなくても良いと思う〜」
何故かちゃっかりあゆも同席していた。しかもその手にはサービスで増えたはずのヨフアルを持って。
あの後怒られたのか知らないが、肩を落として戻ってきたと思っていたのにヨフアルを目にした途端元気を取り戻すというかむしろギアが変わったとでも言うべきレベルで復活したあゆがこうしてついてきたのだ。
「まぁまぁ良いじゃないですかー。大勢で食べた方が一層美味しいんですから〜」
「ちゃっかりって意味じゃハリオンも人のことは言えないぞ」
「あらら?」
ったく、と朋也はどかっと渚の隣に座り込む。渚はそんな朋也をただニコニコと見ているだけだった。
ちなみにいま同じベンチに朋也、渚、あゆ、ハリオンの順で座っている。気配のわかる者には人間族、魔族、神族、スピリットという組み合わせを感じられたはずだ。
……が、カノンにおいては別に驚く組み合わせでもない。朋也だって気配を探ればこの公園の中にさえ魔族や獣人族の気配を感じられる。
だからこそこうして渚は外を出歩けるし、肩を並べて焼き菓子などを食べているわけだが……、
「わ、これすっごく美味しいですっ!」
ヨフアルを口にして目を見開く渚を見て、朋也はそういった考えを捨てた。渚がこうして笑っていればそれで良いと、そう思えたのだ。
その渚の隣で足をパタパタと振りながらヨフアルを食べていたあゆが、口の周りにカスをくっつけているのも気付かず首を縦に振る。
「だよね〜。ボクもヨフアルは結構好きだよー。エターナル・アセリアの女王様を尊敬しちゃうねっ」
「焼き菓子一つで尊敬されても嬉しくないと思うぞ、俺は」
「いえいえ、レスティーナ様ならヨフアルを美味しいと言うだけで大満足すると思いますよ〜? そして熱く二時間くらい語られます」
「……それはそれで嫌だな」
未だ面識はないが、朋也の頭の中でレスティーナという女王のイメージがかなり変わった瞬間であった。
「朋也くんも、どうぞ」
「ん、サンキュ」
渚から新しいヨフアルを受け取る。焼き菓子特有の香ばしい香りが目立つが、こうして近くに持ってくると、
「……なんか桃みたいな匂いするな」
「はい。味と食感が桃に似ている果物を使用していますからね〜。でも桃以上に栄養価は高いし、ジューシーなんですよ〜?」
「へぇ」
朋也も一口食べてみる。なるほど、確かにこれは美味しい。
甘さも砂糖などの甘さではなくハリオンの言う果物特有の甘さなのだろう。だからこそしつこくないし、何より口に広がる香りが良い。
「こりゃ、確かに人気出そうだな」
「でしょー? これ知ったときの名雪さんや茜さんったら凄かったな〜」
我がことのように喜ぶあゆを見て、本当に甘いものが好きなんだな、と理解した。
「さて、と」
ヨフアル一つを全部平らげて、手についた粉を叩き落としながら朋也は立ち上がった。
「朋也くん?」
「ちょっと飲み物買ってくる。甘いものは苦手じゃないが、飲み物なしだとちときつい」
「そうかなぁ〜?」
「ついでにお前たちの分も買ってくる。適当で良いか?」
「奢ってくれるのならボクは何でも良いよー」
「わたしもです」
「あいよ。渚はどうする?」
「朋也くんにお任せます」
「了解」
手を振って、朋也は歩き出した。
「上手く行くと良いけどな」
誰にも聞こえないようにポツリと呟いた自身の言葉に朋也は小さく苦笑する。
飲み物を買う……というのは実は口実だった。
朋也はこれを良い機会だと思って、渚を一人残したのだ。
なんのためか?
カノン。種族差別のないこの国だからこそ、出来ることがある。それは――、
「まぁ、あいつらなら大丈夫だとは思うけどな」
そうして公園を出て行く朋也の背中を見送っていると、不意に隣のあゆが身を乗り出してこっちを覗き込んできた。
「えと、なんでしょう……?」
「なんていうか、分かり合ってるって感じがして良いね〜?」
「え、え?」
「そうですねー。なんというか見ててとても優しい気持ちになれますねー」
続くハリオンの言葉に、渚はやや顔を赤くする。
クラナドで渚討伐の一件があって以来、渚の世界は両親と朋也だけになってしまった。そのためだろう、この三人以外の誰かにこの状況を見られている、という認識が欠落していたのは。
今更ながらに、思う。
――わ、わたしは少し……ではなく結構恥ずかしいことをしていたのでしょうかっ!?
思春期を家の中で過ごす羽目になった渚は、そういう点での知識がやや遅れているというか感覚が鈍っている。
そのため恋人同士であるのなら別に違和感ないことのはずだが、本当にそうなのか確証が持てない渚はただ慌ててしまう。
なんて返せば良いのかわからずあたふたと言葉を探っていると、
「羨ましい、って思うのは卑怯なことなのかなー……」
これまでと感じの違う、やや憂いを帯びた声音が耳に届き、渚は動きを止めた。
その言葉だけで理解した。あゆには自分のように好きな人がいて……でも自分のようにその気持ちは向けられてはいないのだと。
今度は別の意味で何と言って良いかわからず、口ごもる渚だったが、それより先にあゆの雰囲気は元に戻った。
「岡崎くんが戻ってきてヨフアル食べ終わったらボクも準備しないとな〜」
これまでのこととはまったく違う話題。意図的に逸らしたのかはわからないが、ふと『準備』という単語が気になった。
「月宮さんは――」
「あゆで良いよ?」
「では、あゆさん。あゆさんも明日の戦いに行くんですか?」
「そうだね。行くよ」
淀みない返事。それを聞いて、渚は言葉を整理しつつ……口を開いた。
「それじゃあ一つ教えてください。どうして……あゆさんは戦うんですか?」
あゆの想い人は、あゆに気持ちを向けていない。ならばそれを理由に戦うことはないだろう。
だとすれば、戦う理由はなんだろうか? 国の大儀? それとも友や家族のため?
「んー」
考え込むように瞼を閉じたあゆは、しかしすぐに微笑を浮かべてはっきりと告げた。
「ボクの大切な人がね、そこで戦うからだよ」
「!」
その言葉に、渚は衝撃を受けた。
そんな渚の心情を知ってか知らずか、あゆはそっと空を眺めながら、
「ただただ前を見て、前を進んでいく人なんだ。背中に重いものたくさん背負いながら、それでも頑なに前へ進もうとする、見てて危なっかしい人」
苦笑する。仕方がないなぁ、と言わんばかりの笑み。
そしてあゆはヨフアルをもう一口含んで、
「もぐっ。……ん、だからね、本人がいらないって言ってもボクはあの人の背中を守るために戦うんだ。
重荷を彼は離してくれないけど、でも後ろからそっと支えるくらいのことは出来ると信じたい。ううん、出来てると思うんだ」
また向き直る。真正面から見る、その瞳に吸い込まれるような感覚を覚える。
「渚さんは――岡崎くんのこと、守りたいって思わない?」
問いかけに、渚は自分の息が止まったかのような錯覚を得た。
その答えは……ずっと昔に、もう決めておいたことのはずなのに、何故いまこうしてショックを受けているのだろうか。
それはきっと、あゆの在り方を眩しく感じたことと同じだ。
力があるとかないとか、動けなかったとか、想われてるとかそうじゃないとか、そういう理由や理屈は関係なくて。
ただ『心の持ちよう』が、とても……そう、悔しかった。悔しいと感じた。
あゆの想いと自分の想い、同じ種類のものであるはずのなのに、その差はあまりに大きくて。
……でも、だからこそ、ここより先は違う。
息を吸い、吐いて、あゆの視線から逃げぬよう真っ直ぐ見返し、腹に力を入れて、言う。
「はい。そう、思います」
「――うん、だよね」
ニッコリと笑って頷く。
「大切だから守りたい。守るために戦う。ボクはあんまり頭良くないから、それくらいでしか戦えないんだ。大儀とか正義とか、本当はそういうのも必要だとは思うんだけど」
「良いんですよ〜、きっとそれで」
肯定したのはハリオンだった。
彼女は変わらぬ笑顔でヨフアルを口にしながら、
「誰かが誰かを大切に想うことに意味も理屈もいらないんです。だって、それはわからないからこそ尊いものですから」
「ハリオンさん……」
「わからなくたって良いんですよ。いいえ、無理にわかる必要なんかどこにもないんです。ただ感じるままに、想うままに、したいことをすれば良いんだと思います」
もちろん行き過ぎは駄目ですけどね、と付け足す辺りがなんともハリオンらしいと苦笑する。
「あと、やっぱりこういうのは男の人に言わない方が綺麗だと思うんですよー」
「綺麗?」
「なんというかー、密かに大切な人の背中を支えるっていうのが良い女って感じしませんか〜?」
ハリオンの言葉に、渚とあゆは互いを見合う。そしてややあって噴出すように笑い、
「そう、かもしれませんね」
「うんうんっ。ボクちょっと燃えてきたかもー!」
「あらあら。あゆさんはいまのままでも十分に可愛いですよ〜?」
「えぇ!? ボクは綺麗じゃなくて可愛いなの!?」
「あぁ、あゆさんはそんな感じしますね」
「渚さんまで!? うぐぅ、ひどいよ〜! それ言ったら渚さんだって同じだもんっ」
「渚さんも可愛いですよー」
「そ、そんな可愛いだなんて……」
「渚さんはそれで納得しちゃうんだ……」
「うふふ〜」
「あははっ」
「えへへ」
三人が三人とも、笑い合う。
こんなに笑ったのはいつ以来だろう、と渚は思う。
夕暮れに染まり始めた街。まるで友人のように女三人で語り合うこの時間が、とても楽しくて。
――ううん、違う。きっとわたしたちは……、
「わたしたち……『仲間』、ですよね」
渚の突然な言葉に、一瞬きょとんとするあゆとハリオン。でも彼女たちはすぐに表情を笑みに変え、頷いた。
「もちんだよっ!」
「ちょっと恥ずかしい話が出来るくらいの、ですね〜」
ハリオンの言葉に、あゆが「もー!」と笑いながら抗議する。腕を振るあゆにハリオンは笑いながら謝って、それを見て渚も笑った。
まるで何年も前からこうしていたかのようだ。
自分と、あゆと、ハリオンと。
ほとんど初対面のはずなのに、まるで旧知の仲であるかのようにいまここにいることが楽しい。そう思うのは何故だろう?
『わからなくたって良いんですよ。いいえ、無理にわかる必要なんかどこにもないんです。ただ感じるままに、想うままに、したいことをすれば良いんだと思います』
さっきのハリオンの言葉を思い出す。きっと、これもそういうことなんだろう。
理屈なんかどうでも良いんだ。ただ、渚にとってこの二人もまた、『大切な人』という存在になっただけの話で。
両親だけでなく、朋也だけでなく、クラナドの友人たちだけでなく……こうしてまた繋がりは広がっていくものなんだろう。
そうして大切な人たちが増えていくからこそ、よりそれは力になって戦う意志と動力に変わる。
この人を、街を、国を守りたいと思うようになっていくんだろう。
それが人の繋がり。心の絆。
うん、と渚は感慨深く心中で頷いた。
自分がこの国に来たことは、きっと偶然ではなく――必然だったんだろう、と。
朋也が四つの紙コップを持って戻ってくると、三人は何やら面白そうに笑い合っていた。
「なんか楽しそうだな。何の話をしてたんだ?」
真っ先に口を開いたのはハリオンで、彼女は子供を諭すように指を二度振り、
「あらあら、いけませんよー岡崎さん。女性の秘密のお話なんですから野暮なことを聞いては〜」
「そうなのか?」
「そうなんだよっ。ねー、渚さん」
「はい。残念ですが朋也くんにも教えられません」
結託する三人に朋也はわずかに驚き、そして小さく笑って「そうか」とだけ呟いた。
朋也は渚がこうして誰かと仲良く話し、笑っているだけで嬉しいのだ。
これまでそれすら出来なかったからこそ、その当たり前がただただ嬉しい。
――どうやら上手くいったな。
長い間、渚の話し相手は朋也か秋生か早苗の三人しかいなかった。秋生たちは優しい最高の親だと思うし、自分も渚の力にはなっていると思う。
でも、やはり『友達』というのはいるべきだと前々から考えていた。だがそれはクラナドでは難しく、事実実現できなかった。
けどカノンならば、という思いは……こうして現実となっている。
しかしこうして楽しそうに笑い合う三人を見ていると、あんな心遣いも杞憂だったな、と思ってしまう。
――また戦う理由が増えたな。
渚のためと借りを返すためだけではなく、渚が好きになったこの国と、そして友のために、剣を取る。
戦う理由が多くなり、それが重荷になろうと知ったこっちゃない。自分はそうして抱え込むものが大きくないと動かない馬鹿なのだから。
「さーて、と!」
ヨフアルを食べご満悦のあゆは軽く跳ぶようにして立ち上がると、クルリとその場で振り返った。
「ボクはそろそろお城に戻るよ。明日の準備もあるし、それにちょっと身体も慣らしておきたいしね」
その言葉を聞いて、朋也はあることを思いついた。
「そういえば月宮は槍使いだったよな?」
「うん。そうだけど?」
「ならその慣らし、俺も付き合ってやる。同じ槍使いなら多少は動きに注意も出来るだろうしな」
あゆは目をパチクリして、
「あれ……? でも岡崎くんって剣だったよね?」
「俺も昔は槍使いだったんだよ」
嘘じゃない。渚の一件の以前までは、朋也は剣ではなく槍を愛用していた。
「じゃあどうして槍じゃなくていまは剣なの?」
「ん? あ、あぁ、それは……だな」
朋也はややどもり、
「ほら、槍って両手埋まっちまうだろ? でも片手を空けておきたくて剣に変えたんだ」
「それは魔術とかを使うから?」
「それもある。でも一番大きい理由は違うな」
朋也は自らの左手を見下ろし、グッと握り締め、
「戦うためだけに両手を使うんじゃなくて、せめて片手だけは――大切な人を守るために使いたい、って……そう思ったんだ」
渚が大変な目にあったからこそ、そう考えた。
何のために戦うのか。何のために力を振るうのか。
それを強く意識し、再認識するためにも……敵と戦うためだけに両手を使うことを止めたのだ。
それは戦い方じゃない。いわば意識の問題だ。それを非効率だとか言う者もいたが、朋也は頑として譲らなかった。
信念を曲げた戦いに意味などないと、そう思うから。
「戦うためではなく、守るためですかぁ〜。それはなんというか――」
「素敵な考え方だね」
ハリオンとあゆが揃って頷く。渚は頬をほんのり赤くして俯いていた。
そんな渚を見て、ようやく自分の言ったことが恥ずかしいことだと悟った朋也は、遅れて顔を赤くしそっぽを向く。
「……で、どうするんだ!? 別に無理強いはしないけどな!」
恥ずかしさを誤魔化すために大声を張っているとわかっているんだろう、あゆもハリオンも笑顔で近付いてきて、
「それじゃあお願いしようかな〜」
「では折角なのでわたしも参加させてもらいましょうか。ちょうど武器も同じ槍ですし、たまには訓練もしないと怒られてしまいますから〜」
そのまま朋也の横を通り過ぎ、先導するように前を進む二人。朋也と渚を残していくのは、あの二人なりの気遣いなのかもしれない。
さて、どうしたものか。
渚はまだ俯いている。本当に今更だが、自分も相当恥ずかしいことを言った。まぁそれこそ恥ずかしがるべき言動ではないようにも思うが、それはそれ、これはこれだ。
そんなことを考えつつ、次の言葉を言いあぐねていると、
「朋也くん」
先に口を開いたのは渚の方だった。
「なんだ?」
結構驚いたがどうにかそんな心中を押し隠し、問い返す。だが渚の表情はさっきまでの恥ずかしがっていたものではなく……、
「明日の戦いですけど……」
どこか決意を秘めた表情だった。
この表情を、朋也は過去に数度見たことがある。
クラナドで糾弾されたとき、甘んじて死を受け入れると言ったあのとき。
そしてクラナドから逃げ出すときに、朋也と共にいると誓ったあのときと、同じ目だ。
何か重要なことを言うつもりだ。そう悟った朋也は、だからこそその言葉を聞き遂げようと身体ごとしっかり向き直る。
渚は口を開き、しかし言葉を発さず、躊躇するように一度俯いて、そして顔を上げたら、
「頑張ってくださいね。わたし、帰りをここで待ってますから」
いつも通りの優しい笑みを携えた渚がそこにいた。
予想もしてなかった普通の台詞に、朋也は思わず呆然としてしまう。
……けれど、違う。
いま何かを言おうとして止めたのだ。そして台詞を言い換えた。それは態度の変異から察しはつく。
だがそれが何かまではわからない。
でもそれで良いんだろう。渚が言おうとしたことを止めたということは、いま言うべきことではないと考えたからに違いない。
ならばまたそのうち、渚が自分で言うべき時であると思えばまた喋ろうとするだろう。
だからそれはそのときに聞けば良いことだ。
岡崎朋也は古河渚を信じている。
だからこそ、不安も疑惑もなく、朋也はその言葉を受け止めて、
「当たり前だ。渚がいる以上、必ず俺はここに戻ってくるさ」
そう返した。
城へ戻る途中。
少し先であゆと槍の振るい方について話をしている朋也を見ながら、渚はゆっくりと胸の上で手を重ね、聞こえないように囁いた。
「待ってます。だから……朋也くんも待っていてください」
本当なら一緒に戦いたいと言いたかった。あゆのように、戦地へ赴く大切な人のために、自らも戦いたかった。
けれど自身一番良くわかっている。いまのままでは単なる足手纏いでしかないということを。
だから、いま自分がすべきことは朋也の帰りを待つことであると同時に……努力すること。
現状に甘えるでもなく嘆くでもなく……先こそはと考えるならば、ゆっくりとでも一歩を踏み出していくことに他はない。
だからこそ、いまはこの気持ちを朋也には告げず、自らの心の内に秘めておこう。
これは誓い。
子供の頃、自分に「全ての不条理から救うと」誓った朋也に、今度は自分が誓おう。
あのときと、そしていまの気持ちのままに、この言葉を残す。
「いつか必ず、支えられるばかりじゃなくて、支えられるように……わたしもなりますから」
あとがき
はい、どうも神無月です。
すっかり忘れていた間章渚をお届けでございます。
プロットにはあったのに記憶からは完全に抜け落ちていたという体たらく(汗
まぁギリギリで思い出せて良かったというべきか……w
今回は渚の決意がメインではありますが、あゆやハリオン、朋也もそれなりに内情を書けたのではと思います。
っていうかハリオンのちゃんとした出番らしい出番って初めてか?w
スピリットはなかなか出番を作って上げられないので残念です。
さて、次回間章こそシュンです。頑張ります〜。
ではまたー。