神魔戦記 番外章
「聖なる炎、消えるとき」
緩やかに伸びる広大な大地がある。
緑が生い茂り、小動物たちが戯れ、それらを太陽の光が見守るように照らしている。
ここはアリス大陸に分類される、本島と離れ北西に位置する島の西半分。ホーリーフレイムの独立地帯である。
中央には、見るものに畏怖と尊敬を与えんとするような神々しい大聖堂が木々の間から聳え立っている。
その大聖堂を中心に広がる街一帯こそホーリーフレイムの本拠、首都アルジェであった。
しかしいつもそこを覆う活気が、いまは無い。
ホーリーフレイムの総帥であるジャンヌがいるとなれば、それこそ常軌を逸しているような歓声が常に轟いているような街なのに。
行き交う人々の間に笑顔は無い。
それもやんごとなきことなのかもしれない。
彼らが狂信的に崇拝するジャンヌが、事もあろうに魔族に負けて帰ってきたのだから。
あれだけの傷を受けながらも生還し帰ってきたことこそ神に愛されし証なり。
どうにかそうしてジャンヌという神に近い存在を保とうとしているものの、街の者たちの反応は芳しくない。
ジャンヌは未だ意識不明。集中的な治療を受けながらいまも眠りについている。
しかし、だからこそ残ったホーリーフレイムの兵士たちは息巻き防衛の任に就いている。
ジャンヌが倒れている今こそ、最もホーリーフレイムが危険な時。
隣のスカルサーペント、本土を制圧した王国ビックバン・エイジ、それに他の魔族たちの中にもジャンヌを邪魔に思っている者は多い。
ジャンヌはホーリーフレイムにとってなくてはならない存在。
そうわかっているからこそ、街民とは逆に兵たちの士気はかなり高まっていた。
ジャンヌ様は守る。
いまホーリーフレイムの兵士は一致団結していた。
……しかしそれを嘲笑うかのように、いま凶悪な存在がその場所へと足を踏み入れようとしていたのだった。
ホーリーフレイム、首都アルジェ。
現在数ある街への入り口の多くは封鎖され、残る入り口は一つしかない。
敵の侵入を阻止するための対策だ。
門の周囲には見張り用の塔が二つ設置され、さらには門番も常時配置されている。
街の人間であろうが外へ出たり中へ入るためには申請が必要であるという徹底ぶりだ。それだけこの状況をホーリーフレイムは危惧していた。
「ん……?」
と、見張り塔で視力強化の呪具を使用して周囲を見渡していた衛兵が何かを見つけて声を洩らした。
「どうした?」
「……向こうから何かくるぞ」
「なに……?」
俄かに衛兵が騒ぎ始める中、ゆっくりとそれはこちらに近付いてくる。
肉眼でもわかる距離まで近付いた。それは人間の少女だ。魔族や神族の気配は無い。
しかし、だからといって油断はできない。
対立しているスカルサーペントも人間族。その幹部である河野美潮なんかは少女であるが戦闘力はかなりのものなのだ。
だから衛兵たちは剣を抜き、万が一に備える。
だが、それが見えているだろうに少女は足を止めない。ゆっくりゆっくりと距離を詰め……そしてその姿は目前にまで迫った。
それはどこか衝動的に守りたくなるような、そんな少女だった。
顔は美少女と言っても過言ではないだろう。だが、気弱なのか臆病なのか、そういった気配が周囲に漂っており、暗く見せている。
水色に近い髪が一つに纏められ肩から下げられている。その向こうから覗く青い瞳は、ただ静かに儚く揺れていた。
どう見ても襲撃者には見えない。むしろこの構図を第三者が見れば、襲っているのは衛兵たちに見えるだろう。
だから、だろう。衛兵たちはその様子に気を抜いて……“しまった”。
「どうしたんだい、お嬢さん。ここはホーリーフレイムの本拠だぞ?」
「あぁ、いまここはいろいろと厳しいんだ。すまんが他所に――」
そこで言葉は切れた。
仕方ないだろう。語る口が無くなったのだから。……いや、正確に言えば頭部(が、だ。
「……は?」
誰かがそんな間の抜けた言葉を放つ。
その中で、ただ血飛沫に塗れる少女は、ただ真っ直ぐに衛兵を見つめ、言った。
「えっと……その、知ってます。だから、来たんです」
「なっ――!」
それもそこまで。
門の前にいた衛兵六名は、まばたきの間のような刹那のうちに、首から先が地面を転がっていた。
そして見張り塔にいた衛兵たちは得体の知れない何かによって身体を細かく寸断されていた。
聞こえる声は、ない。
だからだろうか。やや強張っていた少女の表情は、どこか安心したように緩やかになり……浄化の地と呼ばれるその街へ足を踏み入れた。
退魔の結界が火花を散らす。
少女の気配は人間族のものなのに。魔族用の結界が反応した。
けれど少女はほんの少し顔を顰めただけでそこを素通りした。同時、結界が崩壊する。
それはいったいどういう現象なのか。
それを言及する者はそこにはいなかった。
この地は、ホーリーフレイムが治めてからひどく平和だった。
平和すぎたといっても過言ではないかもしれない。
ジャンヌが倒れたということで兵士たちはそれなりに気を張っていたものの、街の者たちはそれとは真逆にどこか抜けていた。
漠然とした不安は付きまとっている。だが、心の奥底では『ここは平和だ』という、無意味かつ無価値な確信が心に根付いていた。
だから。
外交の少ないこの土地で、見慣れぬ少女を見かけるという特異性を、気にはしても恐怖する者はいなかった。
傍目から見れば十分に可愛いと呼べるその少女。それを不思議そうな目で追う者はいても、恐怖の目で追う者は微塵もいない。
誰も気付かない。
その少女が今し方十近い衛兵を一瞬で殺した者だとは。
事の異常性がようやく伝わり始めたのは――その少女が街と大聖堂との中間にまで差し掛かった頃だった。
「止まれ! そこの女!」
ガチャガチャと、けたたましい程に鎧をかき鳴らしながら、数えるのも億劫なほどの兵が集う。
剣や槍、杖など各々の得物を持ち、兵士たちは円状に少女の周囲を囲んだ。
少女はそれを見て足を止めたが、表情はやはりどこか儚く、暗いものだった。
なんだなんだ、と街の者たちがそこからさらに少し距離を離し周囲を囲った。その上で、街の者たちは兵士たちを困惑の表情で眺めていた。
いくらジャンヌが倒れたとはいえ、そんな少女を大人数で囲むなんて――と。
そんな隣に立つ者ですら聞こえないような小さな囁きを、少女はどこか羨ましい気持ちで聞いていた。
――そっか。ずっと平和に暮らしていたんだ……。
ただ平和に暮らすこと。暮らせてきたこと。それはとても羨ましくて、渇望することだ。
……だが、それは同時にあまりに儚く、脆いものであるとその少女は知っている。
そして世界に絶望し、なにかに縋らなければ生きていけないような……そんなことが無かったのなら、いま自分はここにいないだろう。
そうしてわずかに自分という存在を考えたその少女は、周囲を囲む兵士たちを少しだけ見渡した。
「貴様かっ! 外の衛兵たちを皆殺しにしたのは!?」
その言葉に、それまでざわついていた街民たちの声が止まる。
皆殺し。その言葉に反応したのだ。
ここにいる兵士たちの中に少しは頭の回る者がいれば、そんな言葉は吐かせなかっただろう。
何故ならば、
「ひ、ひぃ……!」
「うわー!?」
いままで平和に暮らしてきた者たちに、その事実はあまりに恐怖を与えすぎる。
一瞬で街はパニックとなった。
しまった、と思ってももう遅い。
……そう、全てが遅かった。
失言に気付くのも、隙を見せたことに気付くのも。――そして、自分たちが既に死んでいるのだと気付くことすらも。
ゴロン、と。
液体の滴る音と同時に重い何かが大地に落ちる音がこだました。
しかも一つや二つではない。
少女を囲っていた兵士の数だけ、その音が響き……そして、倒れる。
そこからは、まさに混乱の坩堝だ。
街の民は逃げ惑い、兵士たちは向かっていっては殺される。その繰り返し。
「ま、魔術師隊、前へ!」
「てぇぇぇ!」
火、地、風。いろいろな属性の魔術が少女に向かって乱れ飛ぶ。だがそれが見えているだろうに少女は身動きすることなく、それは全て直撃した。
……だが、土煙の晴れた先には、無傷で佇む少女の姿。
「ひ、怯むな! 撃て、撃てぇぇぇ!」
掛け声と同時、魔術が次々と放たれるが、やはり少女は無傷だ。そのままゆっくりと歩を進める余裕さえあるらしい。
「ひ、ひぃ……」
その姿を見て、兵士たちの足が後ろへと下がり始める。
それも仕方ないことかもしれない。彼らがいままで魔族相手に恐怖もなく戦ってこれたのは、ジャンヌという絶対存在が後ろにいたからだ。
ジャンヌがいれば絶対に負けることなど無い。そう信じていられたからこそ、ただ憎しみを胸に魔族に挑み、これを討伐してきたのだ。
だが、ジャンヌという後ろ盾が崩壊したいま、これだけの実力差を見せられては怯むなというほうが無理だろう。
そもそもホーリーフレイムはその大半が普通の人間なのだ。訓練を受けているとはいえ、精神的な恐怖に勝てはしない。
「……」
スッと、少女が片手を上げた。
するとその瞬間、なにかが唸りを上げるようにして大気を切り裂いた。
それは容易く兵士たちを切り刻み、物言わぬ屍へと変えた。
「な、あっ……」
その中で、ただひとり生きているものがいた。
運良く、彼はつまずいて尻餅を着く形で先の攻撃を避けていたのだ。
……いや、もしかしたらこの場合運悪く、と言うほうが正しいかもしれない。
ほんの数秒とはいえ、狂ってしまうほどの恐怖に晒されるのだから。
「き……貴様! ここがホーリーフレイムの領土だとわかっての狼藉か!」
すると少女はどういうわけか一瞬驚いたように目を見開き、おどおどしたように周囲を見やり、そしてなぜか慌てて頭を垂らし、
「は、はい。わかってはいるんですけど、その……、すいません。姉様のためなんです」
そして上げられた顔には……決意の色が込められていて。
「だからすいませんが……滅んでくださいホーリーフレイム」
そこで兵士の意識は途絶えた。
ホーリーフレイム幹部であるバイラルは大聖堂にいた。
見上げれば光に照らされて神々しく輝くステンドグラスがあり、そしてその下には眠れる姫のようにジャンヌが横たわっている。
あれ以来意識は一切戻っていない。傷はだいぶ良くなってきているのだが、それでも完全ではないだろう。
その横には、彼女の愛剣でありシンボルである聖剣ヴァルシオンも立てかけられている。
こちらもあのときの戦いで破壊されたが、こちらは一ヶ月そこそこで自己再生を遂げていた。
そんなジャンヌとその象徴たる剣を跪きただ眺めていたバイラルは、神を称えるように慇懃に頭を垂らしている。
「ジャンヌ様。どうやらいまこの地に魔族が侵入したようです。ジャンヌ様の目覚めぬ間にこのようなことが起こった不手際、何卒お許しください」
しかし、と前置きしバイラルは顔を上げた。その、瞳を閉じたままの横顔を見ながら、
「不肖、このバイラル。命に代えてもジャンヌ様のお眠りを妨げんとする魔を屠って参ります故、どうかご安心してお眠りください」
立ち上がる。
そしてジャンヌを見下ろし、次いで自らの腕に視線を移した。
二ヶ月前、カノンで斬り飛ばされた腕はいま、機械化されてそこにある。魔導人形の技術を流用して作られた義手だ。
ホーリーフレイムはとある事情で魔導生命体や魔導人形の技術が必要だったのだが、まさかそれがこういう形で功を成すとは思わなかった。
その機械化された自らの両腕の調子を確かめるように一度指を開閉し、グッと力強く握り締めた。
「行ってきます、ジャンヌ様。アイレーンやエクレールの分も、この私があなたをお守りいたします」
告げて、バイラルは外套を翻し大聖堂を後にした。
「……いまが好機、ですね」
それを遠くで見つめていたのは伊織だ。伊織はそれだけを言い残し、すぐさま姿を消した。
誰もいなくなった大聖堂の中央で、ただジャンヌが眠りにつく。
そしてそのとき……ジャンヌの指がわずかに揺れた。
バイラルがその場に駆けつけたとき、既にそこはバイラルの知る街ではなかった。
建物は瓦礫と崩れ、共に戦ってきた兵たちは血濡れの海に伏し、法具でも暴走したのか世界は炎で染まっていた。
その中央には、一人の少女。
人間族の気配と魔族の気配を混合させた不可思議な存在。
だが、そんなことはどうでも良い。重要なのは、この惨状をこの娘一人が行ったということのみ。
バイラルはただ静かに剣を抜いた。そして一歩を踏み出し、その少女を見据える。
少女はそこで初めてこちらに気付いたのか、どこか頼りない瞳でこちらを見た。
それだけを見ればこれほどの惨状を起こしたのがこの少女だとは思えないが、それが事実だ。
「我が名はバイラル。貴様は何者だ。なんのためにこんなことをする」
少女は一瞬逡巡するように俯き、ややあってから、
「……深山奏子、です。私は……姉様のためにここに来ました」
奏子、と名乗った少女はそのまま小さく歩を進めてくる。
「姉様が……言ってたんです。ホーリーフレイムは邪魔な存在だって。だから、だから私は――」
「!」
奏子が顔を上げ、バイラルはそれを見て思わず後ずさった。
その瞳が先程までの青ではなく……爛々と輝く真紅へと変貌していた。炎よりも血よりも赫い、どもまでも深い紅き瞳。
それは、まるで、蜘蛛を髣髴とさせるような――、
「まさか、貴様……!」
言葉を最後まで続ける余裕など無い。次の瞬間バイラルは直感で真横に飛び退いていた。
するとそこを何かが通り過ぎて、大地を強く切り裂いた。
だが、ほぼ不可視に近いそれの正体を、頭に浮かんだ『蜘蛛』という単語と直結してバイラルは看破した。
「糸か……!」
止まることはできない。奏子の腕からはそれこそ数十数百もの糸が扇状に放たれているのだ。
ジッとしていれば、それだけで切り刻まれる。
バイラルは飛び退きつつ、魔術の詠唱を開始する。
この糸がある限り接近はほぼ不可能。スピードが自慢であったエクレールならどうにかなったかもしれないが、防御力を主としていたバイラルでは相性が悪い。
だから距離を取り、強い魔術で応戦する。それで倒すことはできなくても、隙くらいは作れるはずだ。
そう信じ、第三小節まで完了させ、バックステップと同時に掌を地に叩き付ける。
「『地竜の咆哮(』!」
大地が割れ、土砂となり雪崩となってそれは奏子を覆わんと波となる。
奏子は避けようとしない。そして土砂の流れは奏子を直撃し、大地を薙いだ。
この程度で死ぬとは思えない。だからこそバイラルはすぐさま走った。だが、
「!?」
どっ、と。土砂まみれとなった地中から突如として空中へ奔る銀閃。
放射状に奔る糸の煌きに、バイラルの身が切り刻まれる。
「おおお!」
しかし致命傷だけは避け、バイラルはすぐさま後退する。その向こうで、土砂の中から繭のような物体がのそりと生えてきた。
そして繭……糸がするりと解かれれば、そこには無傷の奏子。
バイラルは舌打ちする。
格が違う。自分が何をどうしたところで敵う相手ではないと理性も本能も告げている。
だが、それでもここを通すわけにはいかなかった。
この先には、ジャンヌがいる。自分の全てとも言える、このホーリーフレイムになくてはならない存在がいるのだ。
だから、バイラルは剣を握り締める。
「我が名はバイラル! ホーリーフレイム三幹部が一人!」
吼え、そして睨み、
「今一度……我はジャンヌ様の剣となり盾となる!」
地を蹴った。
策もなにもない。ただの特攻。
どうせなにをしても駄目ならば考えるだけ無駄というもの。
自分の取り得は防御力。ならばそれを生かし、攻撃を受けながらも最短ルートで前進し、一矢を報いる。
そう……思ったのに、
「!」
どこからか湧き出た粘糸の束がバイラルの足に絡みつき、大地へ括りつけた。
「……あなたも、この先にいる人のことをとても大事に思っているんですね……」
捨て身の特攻。それすらも許されないのかと。バイラルは歯噛みしながら近寄ってくる奏子を睨み付けた。
「……私も、そうなんです。姉様が全てなんです。姉様が望むことなら、どんなことだってしてあげたいんです。
姉様に縋って、姉様に頼って、姉様を想って、姉様と共に生きていきたい。だから――」
そこで初めて、奏子はバイラルを見下ろした。
どこか泣きそうな、悲しそうな……それでいて嬉しそうな歪んだ表情で、
「さようなら」
湧き出た糸に、バイラルの身体は叩き潰された。
奏子は大聖堂まで辿り着いた。
もはや進行を阻む者は誰もいない。だから躊躇なく扉に手を掛け――そこで止めた。
「……」
噂では。
ホーリーフレイムの総帥であるジャンヌは、カノンで相沢祐一という半魔半神と戦って負け、重傷を負わされ意識も戻っていないという。
だからこそ奏子はここに一人で来たわけだし、事実兵士たちの動きや言動からそうなのだろうと思っていた。
……しかし、ならば。
この扉の向こうから感じる強烈な気配はなんだろう。
姉様には遠く及ばない。しかもかなり不安定。しかしそれでいながら思わず扉を開けたくなくなるほどの何かが、そこにいる。
「……っ」
奏子は意を決し、ゆっくりとその扉を開け放った。
巨大な大聖堂。だが外観より中は広く感じられた。
天井近くで輝く大きなステンドグラス。そこから降る神秘的な光の下、いま一人の女性が立っている。
緩やかな金髪を背に、業物とわかる鎧を着込み剣を床に突き立ててただ瞼を閉じる神々しいその女性。
見たことはない。だが、そんな奏子ですらわかる。
その存在感。気配。間違いない。
彼女こそ、ホーリーフレイム総帥……ジャンヌであると。
「貴様が我が領土を侵した下賤の輩か」
瞼を閉じたまま、ジャンヌがゆっくりと言葉を紡ぐ。
それに答えることはなく、奏子はゆっくりと大聖堂に足を踏み入れた。
その広さと、相対する者の威圧感に気圧されそうになるが、奏子は負けじと気を張って歩を進める。
「人と魔。どちらの気配もするとはおかしな者だな。……まぁ、そんなことはどうでも良い」
瞳が開かれる。ただ壮大に立つジャンヌは、突き立てていた剣の柄を掴み、
「我らが神への冒涜。そして我が同胞たちを手に掛けたその罪。……その命を持って償うが良い!」
抜く。それが開始の合図。
ジャンヌが大きく地を蹴る。向かってくるジャンヌに対し、奏子は糸を放った。だが、
「ぬるい!」
その糸束はジャンヌの一閃により切り払われる。
「え!?」
「我がヴァルシオンに、魔の力が込められた糸など効くものか!」
その言葉を示すように鉄をも切り裂く糸がまるでただの細糸のように斬り飛ばされる。
「くっ……!」
奏子は糸を手繰り、真っ直ぐではなく空中で軌道を変えてありとあらゆる方向からジャンヌへ向ける。
しかしそれをジャンヌは前方のみの糸を切り身を投げることで全てを回避する。
しかも糸を拡散させたことで密度が薄くなったせいか、糸は容易く切り払われてしまう。
「はぁっ!」
迫ったジャンヌから剣が突き出される。それを見て奏子は下から糸を振り上げた。
糸は刀身に切り裂かれながらもその軌道を逸らせた。しかし、
「剣にばかり気を取られているようではな!」
「!?」
身体を貫く衝撃。
それは魔力で強化されたジャンヌの拳が奏子の腹にめり込んだ証拠だった。
「かはっ……!」
吹っ飛ぶ。
流れる景色の中で、さらに奏子は見る。ヴァルシオンの刀身が強く輝いていることを。
「“浄化を担う(――」
なにか強烈なものが来ると悟る。だがここで糸を使い着地しても、タイミング的に回避は間に合わない。
……いや、むしろそういう状況下でなければジャンヌはこの手を使わない。
これだけ動いて見せているが、彼女の身体は未だ不完全。本調子ならいざ知らず、魔力も整っていない現状これを撃てるのは精々二度。
しかもそうしてもなお一撃の威力は格段に落ちる。
だからこそ、一撃は必中の状況でなければいけない。
それが――散っていった同胞たちやバイラルへ自分ができる唯一のことだと、ジャンヌは剣を振り抜いた。
「――光の波濤( ”!!」
振り下ろされた剣から、闇を切り裂く光の刃が繰り出される。
それを見た奏子は、腕と足から糸を出しそれぞれ床と柱に括りつけ、空中で制止を掛けた。
だが、その状態でこの一撃は回避できない。光は奏子を飲み込むように大聖堂を奔り、
「!」
貫いた。
仮に糸を防御展開しても浄化能力を持つヴァルシオンの前には無意味なこと。
だから、終わった。そう思った。しかし、
「……何故だ」
歯噛みする。いまのは……必殺を狙った一撃だ。最良のタイミングだったはずだ。なのに、
「何故、死んでない!」
濛々と立ち込める煙の先、そこには気配と共に人影が見える。
「……しょ、正直、驚いてます。これだけ気配が不安定なのに、これだけ動けるなんて……」
その声は間違いなく奏子のもの。傷を負ったのか疲弊したのか。とにかく声に覇気はない。しかし、
「でも、私は死ねません。私は姉様と共に生きていくんです。いままでも、そしてこれからも」
気配は膨れ上がっている。禍々しい魔力の波動がゆっくりと煙を引き剥がしていく。
そうして現れる奏子を見て、理解した。
「……そうか、その脚(で防いだのか」
こちらを見据える真紅の眼。
その背から――四対の長い脚が、生えていた。
まるで蜘蛛を思わせるような鋭角な脚は、その側面部が全て焼け爛れている。
ジャンヌの言うように、その脚で先の一撃を防ぎきったのだろう。
蜘蛛の脚は大蛇の皮膚以上に硬いと言われている。加え手足というのはどの種族も魔力を流しやすいので強化も容易だろう。
だが、ジャンヌが放ったのは“浄化を担う光の波濤”。彼女の最大にして、魔族に対しては反則的な威力を誇る最強の技。
魔力が整わず威力が落ちているとはいえ、その魔族の脚で防がれるとは。
「……ハッ」
失笑が浮かぶ。
奏子が凄いのか。自分が落ちぶれたのか。あるいは両方であるのかもしれない。
「――だが」
次はない。
奏子の背から生える脚は“浄化を担う光の波濤”のダメージを間違いなく受けている。
浄化の光をまともに受けたせいだろう、再生も極端に遅い。先程と同じ強度に戻るまでまだそれなりの時間があるだろう。
だから、そここそ勝負。
ジャンヌの放てる“浄化を担う光の波濤”はおそらく残り一回。その一回を、奏子の脚が再生する前に直撃させれば今度こそジャンヌの勝ちだ。
だからこそ時間は与えられない。ジャンヌはすぐさまその距離を失くさんと剣を構え迫る。
「二度は……やらせません!」
だが奏子とてそれは理解しているのだろう。そうはさせまいと糸を躍らせる。
縦に、横に、空中から、壁から、地中から。一本で駄目なら十本、十本で駄目なら百本と糸を束ねてジャンヌを迎える。
「くっ……!」
奏子の狙いは的確だった。束ねられ硬度を増した糸は、ヴァルシオンを持ってしても容易く斬ることはできなくなっていた。
かといって時間を割けばその間に他の糸束がジャンヌに迫る。
ジャンヌは糸を切り裂きながら前進することを諦め、出来る限り回避しながら糸の密度の少ないところを選びつつ奏子へと近寄っていく。
だがそこで奏子は思わぬ行動に出た。
「!」
奏子の方からジャンヌへ近付いたのだ。
いままで受身の戦法ばかり取っていた奏子だ。ジャンヌもそうだと踏んでいたのに。
……ジャンヌは知らないことだが、奏子は元来気弱な性格だ。戦うにしても、自分から向かうことはしない。
ならば何故?
簡単だ。それを押しのけてでもやる理由があるからだ。
そもそも気弱ならホーリーフレイムに攻め込もうなど考えない。
そもそも気弱なら単身で突っ込んでは来ない。
そもそも気弱なら戦いなど、殺しなど好まない。
ならば何故?
簡単だ。そんなもの――『あの人』を想えばどうとでもできるというものなのだから……!
「えぇぇぇい!」
二本の脚が爪を伸ばし挟み込むようにジャンヌへ襲う。
その一本を剣で弾き返し一本を身を後ろに倒してかわす。そのまま後退しようと床を踏んで、
「なっ!?」
そこで足が止まる。どうしたことかと下を見れば、床中に放たれた粘糸が足に絡み付いていて――、
「!」
一瞬の隙を突いて三本目の爪がジャンヌの脇腹に深々と突き刺さった。
ジャンヌの身にかけられた自動障壁などまるで最初から無かったかのように容易く、その爪は貫通した。
そして四本目の脚が打ち払うように横から轟音を上げて身を叩く。
強烈な衝撃に刺さっていた爪も抜け、ジャンヌはきりもみ吹っ飛んだ。
だがそれも何かに引っ張られるようにして空中で止まる。
足に絡まった糸だ。それを掴んでいた奏子は、逃がさぬとばかりに思いっきり手繰り寄せる。
さらに戻ってくるその反動で二本の爪がジャンヌを突き刺し二本の脚がその身体を強打する。、
「がっ……!?」
「これで!」
そして止めというように奏子の掌から大量の糸が吐き出され、波のように奮い立ちジャンヌを飲み込み反対側の壁に叩き付けた。
「……っ!?」
背中の衝撃と、糸の重量をその身に受けて、ジャンヌは悶絶し吐血する。
骨は砕け、内臓器官は圧迫される。むしろいまので死ななかったのが不思議なほどの衝撃だった。
「が……ぐっ……こ、この……私が……死ぬ、の……か……」
肺がいかれたせいで声もろくに出ない。だがそれでも、苦悶に顔を浮かべながらも、出てきた言葉は『信じられない』という色に包まれていた。
ジャンヌを崇拝していた者もそうだったが、ジャンヌ本人も自分が魔族に負けるなど考えていなかったのだ。
だからこそ納得できない。現実を直視できない。
身体は糸により身動きを封じられ、仮に糸がなくとも動けぬほどに痛めつけられ、さらにヴァルシオンすらいまの衝撃でどこかに離してしまった。
身体は死を認めても、頭がそれを拒絶する。
しかしそれを敢えて示すように。奏子はジャンヌへと歩を進めながら、
「……あなたは負けたんです。……魔族である、私に」
そこに気弱さなど存在しない。あるのはただ一人の想い人を想い行動する女としての心。
歩が止まる。
その距離は、奏子の脚が優に届く距離。
見下ろす奏子。見上げるジャンヌ。
ここに、勝敗は決した。
「自分勝手なことだと、自覚はしています。ですけど……姉様のために、死んでください」
一本の脚が爪を伸ばし、振り上げられるのをジャンヌは見た。
終わる。
魔族に両親を殺され、魔族に身を汚され、世界に絶望し、しかし燃えた憎しみの心を胸に生き抜いてきた人生が。
魔族によって、終わらされる。
結局魔族に振り回された人生だった。
ただ平和に生きていければ、と。魔族なんかに恐怖せず生きていける世界を望んで戦ってきた。その世界を実現するためなら非情にもなった。
その結果がこれだ。
ハハッ、と。笑いがこぼれた。そして同時に、この十数年ずっと忘れていた涙が頬を伝った。
それと同時、爪が振り落ちてくる。
これが終極。自動障壁という能力とヴァルシオンという聖剣を得て神に愛されたなどと考えた自分の末路か。
薄れゆく意識の中、その爪が落ちてくるのを見つめ――、
「まだだ、ジャンヌ。貴様にはまだ役目がある」
そんな声と共に光が世界を撃ち抜いた。
「きゃあああ!?」
聞こえてくるのは奏子の悲鳴。そして糸に絡まれていたジャンヌはどういうわけか、誰かの腕に抱えられていた。
――誰?
ジャンヌは薄れていく視界でその正体を見定めようとした。
長い銀髪。そして赤眼。
――神?
しかしそこでジャンヌの意識は落ちた。
対して奏子は何が起こったのかまるで理解していなかった。
いや、理解したくなかった。
いまの一瞬、振り落ちた金色の一閃はジャンヌに突き立てようとした奏子の脚を斬り飛ばし、ジャンヌを縛っていた糸すらも微塵と消した。
あの“浄化を担う光の波濤”すら受け止めきった脚が、容易く切り落とされる。
脚の痛みに苦悶を洩らしながら、その事実に奏子は身を振るわせた。
見上げた先。そこにジャンヌを抱えて空中に浮かんでいる一人の男がいる。
銀髪赤眼。そして残りの腕には刀身から柄までが金色で塗り固められた剣を持つその男。
この悪寒。ジャンヌなんて赤子に思えてしまうほどの威圧感と、圧迫感。これではまるで――、
「そこの蜘蛛の女」
「!」
「貴様からは懐かしい気配がするな。その気配……比良坂初音のものか」
「姉様を……知ってるんですか!?」
「やはりそうか。貴様、あの比良坂初音に蜘蛛にされた者だな……」
スゥ、と。音も無くその男は着地し、こちらを見た。
「うっ……!」
それだけで心臓を鷲掴みされたかのような錯覚に陥るほどのプレッシャー。
これは規格外の存在。自分などでは到底太刀打ちできない存在であると頭が警報を告げている。
「比良坂初音の存在は正直邪魔だ。いまは奴に手を出しこちらが受ける障害を考えてなにもしなかったが……。
奴の子祖を潰しておくのも一つの手段ではあるな」
その男はそんなことを呟くと奏子に近付いてくる。
「っ……!」
奏子の身体はその存在を近付かせたくない一心で糸を撒き散らす。が、
「無駄なことを」
無造作に振られた剣の一撃で、糸はこの大聖堂ごと消し飛んだ。
「きゃああああ!?」
衝撃で外に吹き飛ばされる奏子。それを追うようにして、崩れる大聖堂から男がやって来る。
だが、立ち上がれない。
大きな傷があるわけではない。その圧倒的な魔力の放流に、蜘蛛の身体が震えているのだ。
そんな奏子を嘲笑うかのように足音が刻まれ――そして止まった。目の前に。
「ある意味で、お前も可哀相な存在だな。比良坂初音になど出会わず、蜘蛛になどならなければ……こうして死ぬこともなかろうに」
目の前の剣に魔力が込められる。ジャンヌとは比較にならないほどに高密度なものだ。
それを受ければ間違いなく死ぬ。
死ぬのは怖い。それはこんな存在になっても変わらない。生きていれば誰しも去来する感情だろう。
以前は、その恐怖にただ身を震わせるだけだった。
だが、いまは違う。みっともなく身体を震わせることは同じだが、その表情はまるで別物だった。
なぜなら笑っていた。
奏子は、ただ幸せそうに笑っていた。
「……いいえ。私は、私は……姉様に会えて幸せでした。蜘蛛になったのも私の意志です。
私は蜘蛛になって、永久を一緒に生きていくと誓ったんです。姉様と共に生きると。
……だから姉様の意思は私の意志。姉様の思いは私の思い。そして……」
そしてキッと睨み上げ、
「姉様の敵は私の敵ッ!」
渾身の気力で恐怖の呪縛を打ち払い、奏子は男目掛け脚の爪を向けた。
しかし、そんなものは無駄な行為であると言うように――脚はその黄金の剣によって両断された。
「あああ……っ!?」
脚を斬られた痛みに目を見開く奏子に、男は失笑。
「弱き者がどれだけ足掻いても所詮同じことだ。諦めろ、蜘蛛の女。お前はここで死ぬのだ」
そうして心臓を貫かんと剣を突き出そうとして、
「人のモノに手を出すとは、悪趣味なことね」
「!?」
咄嗟に後ろへ飛び退いた男の場所に、いま漆黒の爪が突き刺さった。
「貴様……!」
「あ……」
男と奏子の間に割って入るように、黒い影が舞い降りた。
黒い髪、黒い服。そしてその黒を引き立てるような白き肌と、ただ深く輝く赤眼を携えた女。
その姿を見て男は驚愕し、奏子は眩しいほどの笑みをこぼした。
女はその黒髪を撫で上げ優雅に微笑むと、
「随分と久しぶりね。……神威」
「比良坂……初音!」
男――神威は苦虫を潰したように相対する女……比良坂初音を睨んだ。
しかしその視線の交錯は数秒。不意に初音が視線を外すと、振り返って膝を下ろす。
「いけない子ね、奏子。私に何も言わず勝手にこんなところまで」
「あ、その……す、すいません。で、でも、あの……私、少しでも姉様の役に立ち、たくて……」
怒られる。そう思った奏子は言葉尻がどんどん小さくなって、泣きそうな表情になる。
しかし初音はただ優しく微笑むとその奏子の頭を自らの胸に抱いた。
「あ……」
「しょうのない子ね、奏子。帰ったらお仕置きよ」
「あ、はい……」
「でもいまは――」
お仕置きという言葉に頬を染める奏子を撫でながら離し、再び初音は立ち上がると神威を見た。
「あなたに、私の奏子を傷付けたお返しをせねばね?」
すると神威はせせら笑い、
「正気か? 俺とお前が戦いなどすればそこの女もただではすまんぞ?」
「そうね。でもあなたを傷付ける程度なら本気を出さずとも十分だわ」
「それは――本気で言っているのか?」
刹那、
パァン、という強烈な衝撃と音が二人の中間で鳴り響いた。
次いで二度、三度。初音と神威の間で火花に似た魔力の発露が空間に響く。
「え……」
でも奏子には二人が何をしているのかまるでわからない。
なにか特殊な魔術戦の応酬なのか、それとも視認出来ないスピードでぶつかり合っているのか。
とにかくそれが八合ほどを数えたところで、音は止まった。
「無駄だ、比良坂初音。俺もお前も力を出し切れない状況で互いは殺せない」
「えぇ、そうね」
「だからお前はこうして俺の駒を屠りに来たのだろう? 自らの駒を持って」
それは違う。
奏子は命令されたわけではなく、自らの意思でここに来たのだ。
しかしそれを言う意味も初音には無く、初音の視線はただ神威の腕の中にあるジャンヌに注がれた。
「けれど、妙ね。そんな矮小な存在にあなたが肩入れするのは何故? いままではこの組織の力を利用しているのだろうと思っていたのだけれど」
「それもあった。だがジャンヌには別件で利用方法がある。この女にはとあるもののコアになってもらわねばならぬからな」
「コア……?」
「いずれわかる。そう、聖杯戦争が終結し、あの忌々しい二本の桜の木が枯れる頃にな」
ククッ、と喉を鳴らす神威。しかし初音はそれをただ面白くなさそうに見つめ、
「神威。あなたの目的はなに? 『異界者』たちとはどうも少し違うようだけれど……」
「奴らとは途中までは目的が同じなだけだ。最終的な望みはむしろ真逆だろう」
神威はグッと手を握り締め、その赤眼をギラギラと輝かせながら、告げた。
「俺の望みはただ一つ。世界を混沌に還す。それこそこの世界のあるべき姿なのだからな」
しかし初音は馬鹿にするように、これ見よがしに失笑を浮かべた。
「こんな言の葉を知ってるかしら?」
そう言い、初音は小さく言葉を紡ぎ始めた。
「ゆく河の流れは絶えずして
しかしもとの水にあらず
よどみに浮かぶうたかたは
かつ消え かつ結びて
久しくとゞまりたるためしなし
世中のにある人と栖と
又かくのごとし……」
意味が分からず眉を傾ける神威に、初音は妖艶な笑みを浮かべ、
「時は緩やかに過ぎていき、しかし同じではない。世界も、人も。……神威、あなたの行いは、無駄というものよ」
ピクリと神威の眉が揺れる。それを見据えながら
「世界を戻すなんて野暮なこと。……あなたは永遠に近い時を生きてきたのでしょう? いい加減それに気付きなさいな。――下種」
途端、神威の気配の密度が一変した。
長い銀髪は魔力に揺られて逆巻き、煌々と輝いていた赤き双眸はいつの間にか金色の輝きを携えていた。
怒っている。
自らの望む世界を失笑の元に切り捨てられたことに、この男は怒りを覚えている。
だが、初音はその変化を見て顔を歪めた。
その銀髪。そして金色の眼。それは――見ているだけでイライラする。
「とっとと消えなさい、神威。あなたを見てると虫唾が走るのよ」
そしてその憤りを神威も感じ取ったのだろう。纏った魔力はそのままに神威はニヤリと、嘲るように言う。
「ふっ。無理もない、か。……銀髪に金色の瞳、我はヤツに似ているからな」
言った瞬間、強烈な『何か』が神威の結界に激突した。
それは轟音を打ち鳴らし、周囲の大地を割り木々を根こそぎ吹き飛ばしたが、神威に怪我はない。……いや、
「……」
ツゥ、と。その頬から伝う赤い雫。
血だ。
その『何か』はわずかであったが、神威の結界を超えて、その肌に傷を付けた。
「あまり、私を怒らせない方が良いわよ、神威」
初音の顔は笑みでも怒気でもなく、ただ無表情であった。しかし、だからこそ、わかる。
初音は怒っている。
無理もない。本来は神威と相対した時点で吼えていてもおかしくはないほどなのだから。
「……ククッ、さすがに蜘蛛の女王も元・主人の話は嫌うか。それはそうだろうなぁ……。
長年……数えるのも億劫な年月を経て、ようやく殺した相手には子孫がいた。
そしてその血脈を色濃く受ける者が目の前にいれば、怒りも計り知れないだろう。なぁ、初音(?」
刹那、初音の身体から強烈な密度の魔力が迸った。
「っ……!」
その魔力に当てられ、思わず奏子の身体に鳥肌が立つ。
大地や空が耐え切れず異変を起こすほどの凶悪かつ強烈な魔力の放流。マナがその密度によがり狂い、世界が悲鳴を上げる。
奏子にはわかる。
初音は怒っているのだ。しかも――殺意を覚えるほどに。
「その顔で、その声音で……私の名を呼ぶなんて……どうやら本気でこの世界から消滅したいようね、神威?」
それほどの魔力を高ぶらせる相手に一点に絞られた殺気までぶつけられて、それでも神威は涼しい顔をしたまま口元を歪めた。
「本来のお前ならとっくに襲い掛かっていただろうな。それをしないのは……何故だ?俺が強いからか? お前が弱くなったからか?」
「安い挑発ね」
「なら何故だ?」
「決まってるでしょう? ……世界を壊さないためよ」
ハッ、と。まるで咳き込むように声が漏れた。
それは失笑の類の呼吸。そしてすぐに耐え切れぬと言わんばかりに神威は笑いを声にし、
「はははははは! 愚かな! 蜘蛛が!? 蜘蛛の女王が世界を壊さぬためと!? はは、これほど面白い冗談は無いな!!」
「冗談などではないわ。この世界を原初の混沌に還そうとしている貴方ではわからないでしょうけれど、ね」
初音は微笑んだ。
少し冷静になったのか。あれだけあった高密度の魔力の放流もいつの間にか止まっていた。
が、逆に今度は神威が怒りを露にして、噛み付かんばかりに吼えた。
「笑わせるな!! 蜘蛛は元来、四大魔貴族の中でも最も残酷かつ外道な存在! その目指すべきは破滅と混沌! そのはずだ!」
「そうね。しばらく前までは私もそう思っていたわ。永い、永い時を生きて……しかし退屈で、つまらない。
世界の色は褪せ、ただ過ぎ行く時を怠惰な気持ちで見届けるだけ。その暇つぶしに無意味に人を狩るときもあった。……けれど」
そこで一旦言葉を止め、初音は後ろで尻餅をついたままの奏子を見やった。
そうして……彼女らしからぬどこか優しい、まるで母親の表情を浮かべて、
「けれど、世界は捨てたものじゃない。見る視点をわずかにずらしただけで、世界は色を取り戻す。
見方を変えれば、綺麗だと思うこともあれば、楽しいと思えることもあるものよ。要は見方と気持ちしだい」
「……そんな、馬鹿なことをっ!」
「えぇ、わからないでしょう。それだけあの男の血を強く受け継いでいるお前ではね」
ギリッ、と歯を噛み締める神威。ただ緩やかに微笑む初音。
……いつの間にか、二人の態度は入れ替わっていた。
「だから私はあなたを認めない。あなたのやり方も認めない。……でもいまはまだ殺さないわ。
世界はいずれ力を満たす。そうすればあなたも私も、そして裏でこそこそ動き回っている『異界者』たちも全力を出すことが出来る。
……そこで初めて、あなたを殺してあげる。あの男の血を受け継いだことを呪いたくなるほどに、ゆっくりと……ね。
気に病むことは無いわ。すぐに私の世界を勝手に弄繰り回した『異界者』たちも後を追うことになるから……」
妖艶に、初音は微笑む。
それが絶対の未来であると。そう告げるかのように。
「……ふん、興醒めだ」
神威から放たれていた圧迫感も消える。その眼も本来の赤眼に戻っていた。
そうして神威は用は済んだと言わんばかりに踵を返し、
「比良坂初音。その時が来たならば、その愚かな考え事貴様を切り裂いてやろう」
「できるものなら、どうぞご自由に」
フッ、と笑みを残して……神威はその場から音も無く姿を消した。
世界が静まる。
あれだけ世界を軋ませていた魔力は嘘のように消え、ただ静寂に包まれた。
「あ、あの、姉様……」
どういって言いかわからないが、とりあえず声を掛けねばと思い口を開き、しかしそこで言葉は止まった。
初音はそんな奏子を無視するかのように、ただ周囲を見やっている。
やはり少し怒っているのだろうか。そう思って見ていると、初音はなにかを見つけたのか、一点を目指して足を向けた。
そこには、一本の剣が刺さっていた。
――あれは……。
それは見覚えのある剣だった。ジャンヌが使っていた聖剣ヴァルシオンだ。
先程の衝撃で飛ばされたのだろうか。そんなことを思い眺めていると、不意に初音はその柄を握った。
「ね、姉様!?」
浄化の加護を受けた光の聖剣に魔族が触れるなど、正気の沙汰ではない。実際初音の腕はまるで焼かれるようにジュウジュウと音をたてている。
しかし初音はそんなこと気にもしないように剣を抜き、上に掲げながら刀身を眺めると、
「良い剣ね。これは使えるかしら」
「ね、姉様? あのー……それを、持って帰るんですか?」
「私や奏子は使えないでしょうけど、沙千保やつぐみなら使えるでしょう? 使えるものは使うべきだと思わない?」
そういうものなのだろうか、と考え込んでいると、ややあって初音はヴァルシオンを握ったまままた歩き始めた。
なんとなくその背中をボーっと見ていた奏子。すると初音が肩越しに頭だけを振り返らせて、
「奏子、いつまでそこに座っているつもり? 行くわよ」
「あ……」
そう言って、初音は歩き出す。
それを聞いて、見て、奏子は花が咲くような笑顔で、
「はい!」
頷き、その背を追うのだった。
世界はいま、裏で幾多もの者たちの思惑が錯綜している。
それら全ての者たちの目指す先が何なのか未だわからぬままだが、ただ一つ。明確に言えることがある。
それはこの日、多くの兵とジャンヌを失いホーリーフレイムは滅びたということだ。
あとがき
はい、どーも神無月です。
というわけで番外章、ホーリーフレイムの壊滅でした。
まぁ、今回はそれと初音と神威の話が書きたかったんですけどね。
ぶっちゃけ戦闘はなくても良かったんですがやっぱあった方が良いかなぁ、なんて。おかげで長くなってしまいましたが(汗
で、少し気になるのが初音の奏子の呼び方。ちゃんと「奏子」って漢字があるのに何故か原作だと初音も地の文も「かなこ」と明記するんですよね。
全部そうなのかと思いきや沙千保はちゃんと漢字で書いてあるのにどういうことさーって感じで。
結局神魔では普通に漢字で明記することにしました。
しっかし……最近の番外章は長くなっちゃうなぁ。前回の話が過去最高だったのに、これもほとんど変わらないという(汗
まぁそれはさておき、いよいよお待ちかね(なのかな?)。次回の番外章はFate勢の登場です。
また当分間隔は開くでしょうけど……お楽しみに。