深い深い満月の夜。

 ここはあそこからさほども離れていない大きな森の中。

 そこでその少女は倒れていた。

 血塗れで、息も絶え々え。左腕も肩から先が失くなっていた。

 ・・・苦しい、痛い、死がすぐそこにある。

 それでも残った右腕を使い少女は立ち上がった。

「あんたもなかなかしつこいね」

 少女の前に立っている青年がうんざり気に呟く。

「させない・・・、やらせないっ!」

 突っ込む。

 もう何度目かもわからなくなった突撃は、しかし風をも切り裂く一閃によって一蹴された。

「うあっ!」

 弾け飛び、少女は再び地へと倒れる。・・・今度は右足を持っていかれた。

 激痛が体中を襲う。

 危うく意識が飛びかけるも、なんとか堪え、少女は青年を見上げた。

「あんたもよく頑張ったけど、足が失いんじゃ俺にはもう勝てねぇよ。・・・いい加減、諦めな」

 それは・・・そうだろう。両足があっても勝てないのだ。片足だけで勝てるはずもない。

 わかっている。・・・わかっていたが、それでも諦められないでいた。

 守りたい。守りたい人がいる。だから・・・。

 青年は少女に背中を見せすでに歩き去ろうとしている。

「待って・・・!」

 木を支えにして少女は立ち上がる。

「・・・ホント、よく頑張るな」

 青年の歩が止まり、顔だけがこちらに向けられた。

「けど、悪いな。・・・さすがに喉が渇いてきた」

 目つきが変わる。同時、空間の温度がどっと下がった。

 ―――本気だ。

「次で終わりにする」

 刹那、青年の姿が消えた・・・ように見えた次の瞬間にはその姿は少女の目前にあった。

 驚愕に目を見開く少女。

 迫る青年の鋭利な爪。

 ・・・死が、来る。

 

 ――――――ザン!

 

 

 

 少女の名は弓塚さつき。青年の名は千桐(せんどう)彰人(あきと)

 事の発端は一週間前の夜。二人が出会った時まで遡る・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

枯 渇 庭 園

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜は、綺麗な下弦が輝いていた。

 

「・・・ん」

 弓塚さつきは月光りに目を覚ました。

 拾ってきた毛布をどけて、小さく伸びをする。それに伴って体の節々からポキポキと音がした。

「うわっ」

 骨が鳴るのは老人じみていて嫌いだ。

 とは言っても仕方ないのだろう。吸血鬼になってしまってからというもの一日の活動時間は長くても八時間弱。半日以上も眠っているのだから体が硬くなるのも当然といえば当然だろう。

 立ち上がり、辺りを見回す。

 明滅する蛍光灯。適度に広い空間には均等に配列された机や椅子がある。

 ここは三ヶ月ほど前に廃校になった学校だ。さつきはここでもう一週間を過ごしていた。

 そろそろ潮時かな、と思う。

 あまり長く同じ場所に留まってはいられない。埋葬機関の者に襲われかねないからだ。

「よし」

 さつきは今夜中に移動する事を決めた。

 

 

§  §  §  §  §

 

 

 学校を出てみて初めて気付いたことだが、外は少し寒い。

 しかし、冬の真夜中、しかも薄手の制服でその程度の感覚でいられるのも吸血鬼の身体の賜物なのだろう。

「・・・嫌な皮肉」

 おかしな話だ。

 夜にならなければ動けないいまとなっては確かに必要な能力だが、そもそもこんな身体にならなければその必要もなかったのだ。

 ―――吸血鬼になんかならなければ。

「はぁ・・・」

 吸血鬼、ということを意識してしまったせいか、急に喉が渇きだした。

 誰もいないことを確認すると、道の横に座り背負っていた鞄を降ろして、ある物を取り出す。

 輸血パック。以前病院に侵入して拝借してきたものだ。

 ストローをプスッと刺し飲み下していく。

 慣れた、慣れてしまった味が口の中に広がっていく。

「・・・あんまり美味しくないや」

 やはり鮮度がないぶん美味しくはない。しかしさつきは意地でも生きている者から血は吸いたくなかった。

 飲み干し、再び歩き出そうと立ち上がって―――そこで動きを止めた。

 さつきの視線の先、向おうとした道の中央に、いつの間にか男が一人立っていたからだ。

「やぁ、こんばんは」

 その言葉はこちらに向けられたものだろう。周囲に人の気配は無い。わざわざそういうルートを通ってきたのだ。

 ・・・男は徐々に近付いてくる。それでもまだ遠いが、吸血鬼の視力は人間のそれよりはるかに良い。容貌がはっきりとしてきた。

 闇に映える真っ白なロングコート。下から覗く対照的な漆黒のブーツ。歳はさつきの若干上といった程度だろうか。鼻筋の通った顔立ちは、髪を刈り上げていて活発そうなイメージだ。乾くんにに似ているかも、なんて思ったが眼を見たときにその考えは霧散した。

 ・・・それは、そう。例えるなら獲物を見つけた野獣のような。

「夜の女の一人歩きは感心しないなぁ、お嬢ちゃん。家出かなんかかい?」

 青年は気さくな感じで話しかけてくる。・・・だが、さつきはその男を警戒していた。

 眼のこともある。が、それより身体がざわつくのだ。

 ―――吸血鬼としての、身体が。

「・・・なんの用、かな?」

「ん? いや、だからさ。こんな真夜中にほっつき歩いてると変な男に引っ掛かっちまうぜって、ちょっとした注意をな」

「それって、あなた?」

「おっと、そうきたか」

 すると男はククッ、とかみ殺したように笑い、

「違ぇねぇ」

 瞬間青年が一歩を踏み出した。

「!」

 速い。あれだけあった距離が数歩で詰められる。

 普通の人間ではない。それを瞬時に理解したさつきは、構えを取った。

 しかしそのスピード、吸血鬼であるさつきにははっきりと見えている。なぜなら、

 ―――あの人より遅い。

 捕らえようと伸ばされた青年の腕を冷静にかわし、そのまま渾身の力を込めてカウンターをの拳を放つ。

「―――!?」

 青年の身体がくの字に曲がり道脇の林へと吹っ飛んでいく。

 その隙にさつきは鞄を背負い一気に走り出す。

 人外の者か、人間であってもなにか特殊な能力の持ち主か。どちらにしろそんな者に関わる気などさつきにはない。

 あの青年はきっとさつきが吸血鬼だと気付いていなかったのだろう。そうでなければあそこまで隙を見せはしないはずだ。

 ―――と、唐突に風が吹いた。それは突風。後ろから前へと吹き抜けていき、そして止んだ。

 気付くと青年はそこにいた。・・・まるで風と共に現れたように。

 まるでダメージがなさそうに立つ青年。女とはいえ、吸血鬼であるさつきの一撃をまともに喰らっているにもかかわらず、である。

 ・・・さつきは立ち止まり、唾を飲み込んだ。

「まぁ、そんなに固まるなよ。これでもけっこうさっきのは効いたんだ」

「・・・とてもそうは見えないけど」

「それに、あんたを襲う理由もなくなったしな」

 訝しげに首を傾げるさつきの前に、青年はある物を見せた。

 落としてしまったのか、それはさつきの輸血パック。

 青年がにやりと笑う。

「吸血鬼は、吸血鬼の血を飲めない」

 その口からは、鋭利な牙が輝いていた。

 

 

§  §  §  §  §

 

 

「俺は千桐彰人っていうんだ」

「あ、わたしはさつき。弓塚さつき」

 ここはさっきの場所から少し外れた、とある廃墟の中。さつきは彰人に誘われてここまでやって来ていた。

 なぜ、とさつきが問うと、

「同族に会ったのは久しぶりなんだ。少し話でもしようぜ」

 ということらしい。

 本当はあまり関わる気はなかったが、いろいろと訊きたいこともあったのでさつきはついてくることにした。

「まぁ、どこにでも座ってくれ。・・・椅子はないがな」

 そう言って彰人はベルトコンベアに腰を下ろした。

 見渡してみるとわかるが、どうやら工場跡らしい。彰人はここをしばらくの間ここをねぐらにしていたのだろう。空虚な割りに若干の生活観が感じられる。

 さつきもならって反対側のベルトコンベアに座った。

「さて、んじゃまずは・・・。あんた真祖か? それとも死徒? ・・・まぁ、真祖であんな力なわけないだろうから死徒なんだろうが」

「・・・シンソ? シト?」

「ん? なんだ、あんたまさか知らないのか?」

 頷く。

 すると彰人は少々驚いた様子で、

「もしかしてお前、吸血鬼になって日が浅いのか・・・?」

「う、うん」

「・・・いつ頃吸われた?」

 なぜか真剣な表情になる彰人に少し気後れしたように、

「えっと、・・・その、だいたい一ヶ月半ぐらい前・・・かな」

「一ヵ月半!? お前、身体の痛みはどうした!」

「え、えと・・・その一週間前に引いてきたけど・・・」

 すると彰人はなにやら難しい表情で考え始めてしまった。

「あ、あの・・・千桐さん?」

「ん、あ、あぁ悪い。ちょっと驚いちまってな。・・・しかしまぁ、まだ吸血鬼になってそれくらいしか経ってないとなると、まだほとんど何も知らないんだろう? 吸血鬼っつーものを」

 さつきは頷く。さつきの聞きたいことはズバリそれなのだ。

「・・・なら教えてやるよ。ここで会ったのも何かの縁なんだろうしな」

 小さく息を吐き笑みを持って彰人は語りだした。

 真祖のこと、死徒のこと、それらの関係性、能力、その他魔術や魔眼のことまで。

 そして夜は深けていき、世界は黒から白へと転じていった・・・。

 

 

§  §  §  §  §

 

 

 起きると世界は再び闇に染まっていた。

 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。起きて―――さつきは毛布がかけてあることに気付いた。

 彰人がかけてくれたのだろうかとその姿を探してみても、どこにも見当たらない。

「・・・千桐さん?」

 吸血鬼の五感は鋭い。超越された聴力も視力も彼がいないことを裏付けてはいるが、それでも呼んでみたくなるのが人というものだ。・・・いや、もう人ではないけれど。

 無論さつきの呼び声に返ってくるものはない。聞こえてくるのは冬には珍しい梟の鳴き声くらいだ。

 ―――行ってしまったのかもしれない、とさつきは思う。

 吸血鬼は一箇所に留まることは出来ない。そう思っている吸血鬼が自分だけではないことを昨夜知った。

 留まっていられるのは無知な者か、自分の力に絶対の自信を持つものくらいだろう。・・・そんな者がいるかどうかは疑わしいが。

 さつきは毛布をたたんで立ち上がり、申し訳程度に付いている窓から外を、というより空を眺めてみた。

 ぼんやりと見える下弦。それはまるで闇という湖面に浮いた箱舟のようだ。

 綺麗だと、素直に思えるようになっていた。あれだけ憎かったはずのあの月が。そう思っていた事が遥か昔のように感じられる。

 身体を苛んでいたあの激痛が止まったからかもしれない。彰人が言うには、あれは身体の構造が人間から吸血鬼のそれに変化するための痛みであるらしく、それが止まった・・・ということはすなわち完璧に吸血鬼になった事を指す。

「完全な吸血鬼・・・かぁ」

 痛みが引いたことは本当に嬉しい。あれは形容し難いほどの激痛だったのだ。

 ・・・けれど、それはまだ人間であることも意味していた。

 しかし痛みの治まった今は違う。もう人間ではない。・・・それはすごく怖いことだ。

 でもこれで良かったのだと思っている自分もいる。

 もう吸血鬼と人間の狭間で揺れる中途半端な存在じゃない。完璧な、闇の住人だ。もう迷っていられない。強引にでも納得しなくては。

「どうしたよ、月なんか眺めて」

「えっ!?」

 唐突に響いた声。弾かれるようにして後ろを振り返れば、そこにはどういうわけか彰人の姿。

「どうして・・・? さっきまでいなかったのに・・・」

「おいおい。俺は昨日しっかりと説明したはずだがな」

「あ」

 そうだった。

 昨夜の話の中に、長生きして吸血鬼として覚醒した者はそれぞれ特殊な能力を持ち始めるというものがあった。どうやら才能というか、個人差もあるようだが。

 彰人はもう吸血鬼になって約三百年経つと言う。

 その彰人の能力はその爆発的な超スピード。最初さつきが追いつかれたり、いまいきなり現れたように感じたのもそれが起因だ。

 自分も・・・人ではなくなった自分もいずれそのような能力を持つのだろうかと思案し、しかし誤魔化すようにさつきは苦笑を浮かべた。

「驚いたよ。もう別の場所に移動したのかと思ってたから」

「あぁ。ちょっと喉が渇いて飲みに行ってきたんだ。ま、でも今夜中に移動するつもりではあるがな」

 さつきはその言葉に嫌悪感を抱いた。

 飲んできた、と彰人は言った。そして吸血鬼の飲むものなど一つしかない。

 血だ。

 しかも輸血パックなどに入った古い血ではなく、新鮮な生き血。

 ・・・さつきは生き血が嫌いだった。あれは―――美味しすぎる。麻薬のように全身を支配し病み付きにさせる。

 吸血衝動を抑えられなくなってしまいそうで、さつきは生き血を吸わなかった。あれに慣れてしまえば、平気で人を殺せてしまうから。

 だからと言って彰人に吸わないでくれと言うつもりはなかった。人が死んでいくのは嫌だが、そんなことを言う資格などない。

 自分だって人を殺した事がないわけではないのだから。

 ・・・・・・でも、

 どうも嫌悪感の正体はそれだけではない気がする。何かが引っ掛かる。胸に残る、小さなわだかまり。嫌な予感。

「あんたも今夜動くかい?」

「え、あっ、うん」

「そうか。それじゃ今日でお別れだな。どっか目的地みたいのはあんのか?」

「わたしはないけど・・・。千桐さんは?」

「俺? 俺は南の方だな」

 

 ドクン。

 

 大きく心臓が跳ねた。

 南・・・その方向にはさつきが生まれ育った街がある。埋葬機関に追われ、逃げるように出てきた街が。

 さつきは大きく深呼吸する。

 ・・・大丈夫、落ち着け。まだそこに行くだなんて一言も言ってないじゃないか。まして、あの人に関わるようなことなんて―――。

「み、南の方って・・・なにしに行くの?」

 さつきはどこか縋るような目で彰人を見上げた。彰人はその視線に気付かない。

「なんつー街だったか忘れちまったが、そこにすげー力を持った一族がいるんだよ。そちらの血を飲みに行くのさ」

 心臓がやけにうるさい。嫌な予感は晴れるばかりか逆に大きくなっている。

「その一族って・・・?」

 早く安心したくて、急かすように名を訊ねた。

「ああ、確か―――」

 だけど、

「遠野、とかいったか」

 その期待はもろくも崩れ去った。

 

 

「だめっ!!」

 その名を口にした途端、さつきは大声で叫んだ。それがあまりにもいきなりで彰人はポカンとしてしまった。

「・・・なにが駄目なんだ?」

「駄目なの! 遠野くんだけは駄目!」

 遠野くん。その言葉に込められたニュアンスを彰人は悟った。

「知り合い・・・か」

 いや、この様子じゃ知り合いなんてものではないだろう。親しい友人、肉親。あるいは恋人。おそらくはそういう類の。

 考えられることではある。

 彰人は三百年近く生きた吸血鬼だ。知り合いなどもうこの世にはいないが、さつきはまだ一ヶ月半。知人などかなりの数がいるはずだ。

 ・・・さつきの気持ちは彰人にも理解できる。

 彰人も吸血鬼になりたての頃、血を吸わなくては生きていけないと知った時、まず第一に住んでいた街を離れた。

 見知らぬ他人などはどうでも良い。が、やはり家族や親友、恋人には迷惑をかけたくなかった。それに怖かった。欲望に駆られ、自分の手で大切な者たちを殺してしまうことが。

 それを自分でないにしろ、他の吸血鬼がすると言っているのだ。止めないわけがない。

 そう、理解は出来る。だが―――、

「悪いが止める気はないぜ」

 そうさつきに冷たく言い放つ。さつきはビクッと肩を揺らし、怯えたような表情でこちらを見る。

 彰人はもう人ではない。完全なる吸血鬼―――死徒だ。

 一度湧き上がってしまった吸血衝動は止まらないし、止められない。

「どうしても止めたいと思うんだったら力付くで止めてみな」

 彰人は小さく笑った。

「・・・その前に、俺に追いつければの話だがな」

 自分がしていることの罪悪感。しかしそれを上回る高揚感に期待感。

 ・・・あぁ、俺はもう人じゃない。

 いまにも泣き出しそうなさつきを一瞥し、彰人は白いコートを翻して闇へ踊った。

 

 

 風が巻き起こった、と思った次の瞬間にはさつきの視界に彰人の姿はなかった。

 一瞬何が起こったのか理解できなかったが、彰人の能力を思い出しさつきは急いで駆け出した。

 ・・・しかしその歩調もすぐに止まってしまう。

 冷静に考えて、追いつけるわけがないのだ。

 彰人のスピードは少なく見積もってもさつきの五、六倍はある。夜にしか動けないという時間制限が互いにある以上、単純計算で一日に移動できる距離も五、六倍向こうの方が上だ。

 さつきは歯噛みした。同時に涙も流れた。

 遠野志貴はさつきにとってとても・・・、とても大切な人だ。その人が、もしかしたら殺されるかもしれない知っているのになにもできない自分が悔しくて歯痒い。

「・・・それでも」

 涙を拭い、さつきは再び駆け出した。

 諦めたらその時点で終わりだ。諦めずに走っていれば、もしかしたらなにかが起こってどうにかなるかもしれない。

 あまりにも希望的観測だ。

 でも、やはりじっとなんかしていられない。

「遠野くん・・・!」

 想い人の名を胸に抱き、さつきはただ走り続けた。

 

 

§  §  §  §  §

 

 

 どれくらい走っただろうか。

 白み始めた空を見上げてさつきは考えた。

 現在時刻午前五時と少し。そろそろまずい状況ではある。

 本来ならすぐに寝床を見つけなくてはならないのだが、、さつきは走っている間に考えていた案を実行しようとしている。

 スピードは彰人の方がはるかに上。これは覆すことの出来ない事実だ。ならば、いったいどうすれば追いつけるのか。

 考えついた答えはいたってシンプルなものだった。

 移動時間を増やせば良い。

 問題は・・・果たしてそれができるのかどうかにある。

 移動時間を増やす・・・ということは日中に動くのと同義だ。真祖でもない、しかもまだ力も完璧に手に入れてない死徒にとっては自殺行為以外のなにものでもないだろう。

 以前日光に当たったときは、その部分が激しい激痛と共に溶け出したのも覚えている。・・・もろに受ければ消滅の危険性もあった。

 分の悪すぎる賭けだとはさつき自身よく理解している。

 だが、それだけのことをしなければ彰人には絶対追いつけない。・・・大切な人を守れない。

 しかしさつきは不思議とどうにかなるのではないかと考えていた。理屈などは何もない。ただ、なんとなくだ。

 深呼吸を一つ。心を落ち着かせると、日が昇るであろう方向を凝視する。

 ほんの数秒であるはずの時間。だが、さつきにとってそれは永遠にも等しい時間だった。

 朝日だ。

 久しぶりの直の日の光。それを確認した瞬間、さつきの身体を激痛が走った。

「うあぁぁぁ・・・・・・!」

 思わず自分を抱きすくめるようにして膝から崩れ落ちる。

「やっぱり、駄目、だった・・・!」

 以前など比較にならない激痛だ。さつきは消滅を覚悟して―――、

「・・・え?」

 異変に気付いた。

 以前日光に当たったときは一瞬の激痛の後、すぐにその部分が溶け出したのだ。

 では、なぜまだ痛いのだろう(、、、、、、、、)

 さつきはなんとか気を落ち着かせて自分の身体を確認してみた。

 ―――どこも溶けたりはしていない。

 まだ身体を激痛が襲っているも、その痛みも段々と和らぎつつあった。

「はぁ〜・・・」

 さつきは大きく息を吐いた。

 どうやら人生最大の賭けに勝ったようだ。

 足に力を入れて立ち上がる。まだ体の節々が痛みに悲鳴を上げているが、最初ほどではない。

「行かなきゃ・・・」

 痛む身体を引きずるようにして前に進む。

 ここで喜んでいる場合じゃない。ここはあくまでスタートラインに立てた、というだけだなのだから。

 

 

§  §  §  §  §

 

 

 六日。

 それがこの街へ戻ってくるのに要した時間だ。

 ほとんど止まらずに移動しただけあって、一ヶ月近くかけて歩いた距離もなんとか戻ってこれた。

 ここは遠野の屋敷からさほども離れていない森の中。そこでさつきは黄金に輝く満月を見上げていた。

 間に合ったと思う。

 ここまでくる道中によく血の臭いがした。おそらくは彰人が人を吸った時の残り香だろう。

 それが途中からまったくしなくなった。その時点で彰人を追い抜いたと考えて良いはずだ。

 もう夜も深い。追い抜いた距離、ここまでの時間、彰人のスピード・・・。もろもろを考えればそろそろここを通るはずだ。人目につかず屋敷に行くにはここを通る必要性がある。

 しばらくそこで待っていれば、静かに、しかし強く一陣の風が舞った。

 ・・・来た。

 巻き上げられそうになる髪を押さえつけ、さつきは風の吹いた方向を凝視する。

 そこに彰人は立っていた。とても驚いた様子で。

 しばらくの間無言で見つめあい・・・先に開口したのは彰人だった。

「・・・・・・どうやって俺を追い越した?」

 さつきはそれには答えず、彰人を強く睨みつける。

「他の人はどうでも良い。でも遠野くんはやめて」

 再び静寂。森の中を柔らかな風が撫で上げ、散った木の葉が舞い上がる。

 

 

「・・・フッ」

 彰人の顔に浮かぶは嘲笑。

 ・・・どうやって追いついたかは知らないが、こうして目の前にさつきがいる。

 それはこちらの邪魔をする者だつまりは、

 ・・・敵だ。

 靡く白いコートから右手を目の高さまであげると、断続的な鈍い音が響き渡った。骨が変形し、爪が鋭利な刃と化す。

「言った筈だな? 止めたいなら、力付くで止めろってな」

 その言葉が終わるか終わらないかのその瞬間、さつきの姿は既に彰人の目前に迫っていた。

「なっ!?」

 振り抜かれたさつきの拳はガードしようとした彰人の腕よりも刹那早くその腹を打ち付けていた。

「ぐぅっ!?」

 吹っ飛ぶ彰人。しかし、すぐさま空中で身体を捻り着地する。

「ちっ・・・」

 油断だった。

 いまのスピード、いまの攻撃。冷静に対処すれば見切れないものではなかった。どちらも自分より劣る。

 だが、以前に喰らった一撃とはあまりにそれはかけ離れていた。まさかたった六日間でここまで強くなっているとはさすがに思っていなかった。

 腹がズキズキと痛む。内臓器官のいくつかがやられたようだ。じきに再生するだろうが、彰人にとって実に数十年ぶりの傷みだった。

 その痛みが、・・・彰人の死徒としての戦闘意欲に火を点けた。

 

 

「いまのはかなり効いたぜ」

 彰人が笑いながらゆっくりと立ち上がる。

 それに対し構えをとるさつきの前で、彰人はふぅと小さく嘆息すると、

「そうだな。もう手加減はなしだ」

 ピクリ、と眉が跳ねる。

「手加減・・・?」

「そうさ。あんたは強くなってる。しかもこんな短期間で、だ。このままの調子ならいずれ俺だって抜くだろうよ」

 だが、という呟きが聞こえた瞬間彰人の姿がさつきの視界から消えた。

 半瞬。

 突風が横を通ったと思った瞬間には彰人の姿はさつきの後方にあった。

「いまのあんたじゃ俺には勝てねぇ」

 舞う赤き飛沫。ゴトリとナニかが地面に落ちる音。

 ―――それが自分の左腕であると気付くまで、さつきは数秒を要した。

「――――――っ!!?」

 声にならない悲鳴。

 咄嗟に右腕で止血を試みるが、そんな高位を嘲笑うかのように血はとめどなく流れ出ていく。

 それと同時、冷たいものがさつきの身体を突き抜けた。

 死の恐怖。

 足が勝手に震えだし、歯の根も合わない。

 さつきは日の光のとき同様どうにかなる心のどこかで思っていた。それがどうだ。彰人との力の差は想像を軽く凌駕している。

「怖いのか?」

 さつきの表情を見て取ったのか、彰人は爪に付いた血を振り捨てながら、

「なら逃げちまえよ。生きたいんだろ? 殺されたくないんだろ? だったら逃げろよ。俺は別にあんたを殺したいわけじゃない。

 俺の狙いはあくまで遠野だ」

 遠野。

 その名前を聞いて身体の震えが止まった。

 そうだ。なんのためにここに来たと思っている。守りたい人がいるからではなかったのか。

 そのために命を懸けてここまできたのではないのか。今更死がなんだ。もう何回も死んだような身ではないか。

 ―――大丈夫、まだやれる。

 さつきは静かに後ろを振り返った。

「・・・へぇ、いい顔だ」

 その顔に、もう恐怖の色はない。

「遠野くんはやらせない。絶対に・・・止めてみせる!」

「やってみな」

 しばし対峙する両者。

 そして、

「はぁ!」

「おらぁ!」

 同時に地を蹴った。

 

 

§  §  §  §  §

 

 

 数分後、さつきは森の中に倒れていた。

 血塗れで、息も絶え々え。左腕も肩から先が失くなっていた。

 ・・・苦しい、痛い、死がすぐそこにある。

 それでも残った右腕を使いさつきは立ち上がった。

「あんたもなかなかしつこいね」

 さつきの前に立っている彰人がうんざり気に呟く。

「させない・・・、やらせないっ!」

 突っ込む。

 もう何度目かもわからなくなった突撃は、しかし風をも切り裂く一閃によって一蹴された。

「うあっ!」

 弾け飛び、さつきは再び地へと倒れる。・・・今度は右足を持っていかれた。

 激痛が体中を襲う。

 危うく意識が飛びかけるも、なんとか堪え、さつきは彰人を見上げた。

「あんたもよく頑張ったけど、足が失いんじゃ俺にはもう勝てねぇよ。・・・いい加減、諦めな」

 それは・・・そうだろう。両足があっても勝てないのだ。片足だけで勝てるはずもない。

 わかっている。・・・わかっていたが、それでも諦められないでいた。

 守りたい。守りたい人がいる。だから・・・。

 彰人はさつきに背中を見せすでに歩き去ろうとしている。

「待って・・・!」

 木を支えにしてさつきは立ち上がる。

「・・・ホント、よく頑張るな」

 彰人の歩が止まり、顔だけがこちらに向けられた。

「けど、悪いな。・・・さすがに喉が渇いてきた」

 目つきが変わる。同時、空間の温度がどっと下がった。

 ―――本気だ。

「次で終わりにする」

 刹那、彰人の姿が消えた・・・ように見えた次の瞬間にはその姿はさつきの目前にあった。

 驚愕に目を見開くさつき。

 迫る彰人の鋭利な爪。

 ・・・死が、来る。

 ――――――ザン!

「・・・っ!」

 さつきは支えにしていた木を押し、その反動でその一撃をすんでのところでなんとか回避した。

 片足のないさつきは受身が取れず、そのまま地面を転がっていく。

 顔を上げれば、さっき支えにした木が重い音を立てて地面に倒れているところだった。

「よくかわしたな。いまので決めるつもりだったんだが・・・」

 彰人は軽く爪を斜めに払った。

「今度は外さねぇ」

 ダンッ、と地を蹴った音が聞こえたと共に彰人の姿はすでにない。現れた気配はさつきの横。視界の隅に振り下ろされる爪の銀光。

 残った足でバランスを取り、地に付けた右手の力だけで強引に宙へと跳んだ。さつきがその一撃をかわせたと確信し、

「二度も同じ手が通用すると思うなよ!」

 しかし一度下がった彰人の腕の軌道がまるでS字カーブを描くように変化し上へと伸びる。

 目を見開くさつきの腹を、その魔手は貫通した。

「―――ごふっ!?」 

 飛び散る鮮血、そしてさつきの吐いた血により彰人の白いコートが赤に染まる。

 彰人は素早く腕を引き抜くと、さつきの体が地に落ちる前に蹴りを放つ。

「ひぐっ!」

 狙ったのだろう、その蹴りは再び腹を直撃。多大な血を撒き散らしながらさつきは吹っ飛び、大きな幹にしたたかに背を打ちつけた。

 かはっ、と息が切れ、そのままずるずると崩れ落ちていく。

 その様子をしばらく見つめ、彰人は一つ息を吐いた。

 死んではいないだろうが、おそらくはもう動けないだろう。

 もちろん再生はするだろうが、あれだけの傷だ。全治するのに三、四日は掛かるに違いない。

「終わりだな。あんたの負けだ」

 返事はない。気を失っているのかもしれない。

 その方が良いだろうと、彰人は思う。それなら気付いた頃には全てが終わっている。

「じゃあな。もう二度と会うこともないだろうよ」

 それだけを言い残し、もう一度だけさつきを一瞥して背を向けた。

 

 

 足音が遠のいていく。

 距離が離れているのか、自分の意識が消えかかってるのか。・・・あるいはその両方か。

 ・・・待って。

 目の焦点が定まらない。揺れる視界はただ暗く、彰人の姿はどこにも確認できない。

 ・・・お願い、待って。

 それでもさつきは手を伸ばしていた。

 やめて、お願いだから・・・!

 自分の声が出ているのか出ていないのか、それすらもわからない。

 それでも、さつきの心は必死に叫んでいた。

 待って。

 やめて。

 お願いだから待って。

 殺さないで。

 遠野くんに手を出さないで。

 死なせないで。

 死ぬ。

 遠野くんが死ぬ。

 死ぬ・・・?

 誰が?

 遠野くんが?

 遠野くんが、死ぬ・・・?

 

 トオノクンガ・・・・・・・・・・・・コロサレル?

 

 ドクン、と―――心臓が大きく鼓動した。

 

 一面の闇の世界。そこに煌々と浮かぶは・・・、

 金色の満月。

 腕を伸ばした先に、それはあった。ただそれだけ。

 暗黒の空間に、それだけが自己を強調するようにしてそこにあった。

 脈動する。

 憎き月だ。

 ・・・自分が吸血鬼なのだと、嫌でも認識させられる金の輝き。

 嫌いだ。大嫌いだ。

 どうせ自分は吸血鬼。もう人間に戻ることなど、できやしない。

 ・・・なら、中途半端な力などいらない。

 力が、欲しい。

 大切な人を守れるような、絶対的な力が。

 さつきはさらに腕を伸ばす。満月へと。

 力が欲しい。

 吸血鬼でもかまわないから。

 だから・・・、

 だから!

 さつきはさらに腕を伸ばす。満月へと。

 そして、

 ―――掴んだ。

 

 

 ドン!!

 

「なっ!?」

 それはあまりにもいきなりだった。

 重くなる空気。圧迫される体。後方から来る、ひどい重圧感。

 慌てたように、後ろを振り向く。

 ―――そこに、それはあった。

 禍々しい気配を身に纏い、悠々と立つ弓塚さつきの姿が。

 ・・・何が起こったというのか。考えても、混乱した思考はただ空回りを繰り返す。

 そのあまりに強烈な威圧感にあてられ、彰人はがっくりと膝をついた。

 足腰にまるで力が入らない。立ち上がろうとしても、何かに縛られたように体は命令を受け付けなかった。

 だが本能が告げている。

 逃げろと。

「ありえない、こんな・・・!」

 無意識に、呻くように呟いていた。

 一体なんだと言うのか。

 さつきがこちらに向かって悠然とした足取りで近付いてくる。・・・足も、手もちゃんとある。腹の穴も消えていた。

 ありえない。

 爆発的な再生能力。

 眼を合わせただけで死を予感させるそのプレッシャー。 

 これではまるで・・・・・・、

 

 ―――二十七祖。

 

―――Nobody lives.(生きるモノはいない)

 さつきがなにかを詠うように呟いた。

There is not saving in the wide world.(広い世界に救いはない)

 同時、さつきの体から魔力が迸り、闇夜を焼く。

It is filled, there is a death where it goes, as for the start, it is not only in Cz it the remainder, and there is not an end either. (満ちいく死があり 残るは崩れだけ  始まりは無く 終わりも無い)

 重圧が加速し、世界が・・・別の世界に侵食されていく。

・・・However, all wither and go. (・・・ただ全ては枯れいく)

 さつきの眼が・・・こちらを射抜いた。

 

「―――It is nothing but one that it is there. (そこにあるのは、唯一つ) Dryness garden(果てる世界のみ)

 

 真名が宣言された刹那、世界が一変した。

 さつきの体から光が弾け―――境界を作り出す。

 先程まで空にあったはずの満月が消え・・・いや、それ以前に夜ではなくなっていた。

 ・・・荒れた大地。

 ・・・聳えるは朽ちた木々。

 ・・・ただ紅く染まる空。

 ・・・そしてひらひらと舞うは無数の枯れ葉。

 

 隔絶された世界に身を埋め、彰人はただ驚愕に身を震わせた。

「これは・・・固有結界!?」

 禁忌と言われる魔術の名。自己の心情世界で現在する世界を塗りつぶす結界。

 ・・・聞いた事はある。

 なぜなら、強力な死徒はそのほぼ全員が固有結界を持ち得るからだ。

 ならば・・・この世界を構成した目の前の少女は・・・。

「痛っ!?」

 思考した瞬間、突如足に激痛が走った。

 なにが、と思い足元を見れば・・・、

「・・・なっ!?」

 侵食されている。

 両足が・・・黒く塗りつぶされていた。

 自分、という存在がこの世界に喰われる。

 ・・・そう。ここは生の無い世界。弓塚さつきの描いていた、心情。

 過去(アノトキ)に絶望し、現在(イマ)に絶望し、未来(コレカラ)を絶望した一人の少女の世界。

 ここにあるのは枯れ果てた命。そこに既に生はなく、蔓延するは死の臭い。

 故にここは“枯渇庭園(ドライネス・ガーデン)”。巻き込まれし生は、あってはいけない矛盾として調律される。

 そう、ここに内包されたイキモノは、世界に喰われるのだ。

「これが・・・弓塚の能力か・・・」

 いまに思えば片鱗は見えていた。

 生き血を吸わずに行動できること。

 一ヶ月半という短期間で治まった身体の変質。

 ここ最近の異常な能力の上昇。

 ・・・それら全て、通常の死徒ではありえないことだ。

 彰人は大きく息を吐いた。

 なんだ。次元が・・・、格が違うではないか。

 闇は足を越え腹、胸にまで迫っていた。既に腕は喰われ、激痛もシャットアウトされている。

 音も無く迫り来る死の波紋。

 彰人はそれに身を委ねた。

 ―――手を出した相手が悪かったな。

 最後にそれだけを考え、

 

 ・・・彰人、という存在は捕食された。

 

 矛盾を修正した世界は、その役目を全うしたかのように収縮を開始した。

 全ては元のある場所に戻るのだと、そう言わんばかりに歪み、螺旋を描いてさつきの身体へと沈み込む。

 ・・・世界が、還る。

 全てが終わった後、さつきは空を見上げた。

 そこには綺麗な、綺麗な満月。

 それはまるでなにごともなかったかのようにさも当然と、ただ輝いていた。

 

 

「いるんですよね」

 ポツリと、空を見上げたままさつきは呟いた。

 返ってくるのはただ葉を揺らし髪を撫でていく風のみ。

 さつきは視線をある方向へと流した。

「わかってるんですよ、そこにいるのは」

「・・・そのようですね」

 しかし今度は、返ってきた。

 まるで影から現れたかのように、その人物は姿を見せた。

「能力に目覚めると、五感も鋭くなるようですね」

 抑揚の無い声。黒衣に身を包んだ女性はゆっくりと近付いてくる。

 そちらを真紅に染まった眼光で凝視し、さつきは薄く笑みを浮かべる。

「約一ヶ月振りですね。―――シエル先輩。・・・ううん、埋葬機関のシエルさん、と呼んだ方が良いのかな?」

「どちらでも構いませんよ」

「そうですか。それじゃ―――先輩」

 さつきはにこりと笑って、

「わたしを消しに来たんですか?」

 問いに、シエルは答えない。感情の窺えない顔をそのままに、ただ立っているのみ。

 ・・・静寂が辺りを包み込む。

 数秒か、数分か。先に開口したのは、さつきだった。

「いまのわたしなら、シエル先輩にも負ける気はしません。・・・この間のようにはいきませんよ」

 同時、ザザァと木の葉が盛大に揺れた。まるでさつきから放たれた威圧に竦むように。

 いままで幾多もの吸血鬼と戦ってきたシエルならこそ、それは明確にわかっただろう。

 しかし、その重圧をモロに受け、それでもシエルは微動だにしない。

 膠着状態が続く。

 来ないのならば、こちらから行こうかと足を浮かせた瞬間、

「そうですね」

 ―――切迫した空間が、突如弛緩した。

「・・・?」

 シエルの顔には、なぜか微笑が浮かんでいた。

 そして困った、といったように両手を広げて見せ、

「いえね、そうしたいのはやまやまなんですが、まさかここまで強くなるとは思ってもみなかったものですからたいした武装も持ってきてないんですよ。

 第七聖典でもあれば良かったんですけどね。さすがにいまの弓塚さん相手に黒鍵だけで戦うのは自殺行為も良いことですし。

 私も前とは違ってあまり無理のできる体ではなくなってしまいましたから無茶無謀なことはできないし、したくはないんです」

 やれやれ、と息を吐いて見せるシエル。

 その姿を見て、さつきは視線をシエルから外した。

 ・・・同時、その場を支配していた殺気が霧散していく。

「逃がしてくれるんですか?」

「無念ですけど、そうせざるをえない状況ですね」

 それを聞くとさつきは身体を反転させた。

「行くのですか?」

「もう、ここにいる理由もないですから」

「そうですか。・・・あぁ、そうそう。一つ朗報がありますよ」

「朗報?」

「あなたを吸血鬼にした死徒、ミハイル=ロア=バルダムヨォンが消滅しました」

「そうですか」

「・・・それだけですか?」

「もうわたしは死徒。もともと束縛も受けてなかったわたしに、親の生死なんて関係ないですから。・・・恨みなら、こうなった自分の運の無さに対してだけで間に合っています」

 背中越しの会話は一瞬そこで途切れた。

 風がそよぐ。つられ、雲が晴れて満月がその全てをさらしたとき、さつきは顔だけを振り向かせた。

「遠野くんは、元気ですか?」

 黒に戻った瞳と笑顔を貼り付け、訊いた。

「―――」

 シエルは・・・やはり笑顔で答える。

「ええ、元気です」

 答えを聞き、さつきは笑った。

 晴れやかな笑みで月を見上げ、

「そっか」

 歩き出す。

 離れる距離。

「シエル先輩って、少し柔らかくなりましたよね。・・・これも、遠野くんのおかげかな?」

 歩を止めず、振り返りもせず、夜の闇へと消えていく。最後に、

「ありがとうございました」

 そう、言い残して―――。

 

 

 しばらくの間、シエルはさつきの消えた方向を眺めていた。

「これで良いのですか? ご主人(マスター)

 その真後ろ、ボワンと突如現れた金髪碧眼の少女。その少女は手の先の馬の蹄をカポカポと鳴らしながらシエルの顔を覗き込んでいる。

「・・・良いんですよ、セブン」

 セブン、と呼ばれた少女は納得できないのか抗議の声を上げた。

「確かにあの死徒は強いですけど、ご主人(マスター)なら倒せたんじゃないですか? 第七聖典だってあったのに・・・」

「できませんよ」

「はい?」

「できるわけないじゃないですか。・・・好きな人のために命を賭してまで戦った人を消滅できるほど・・・私は冷酷にはなれません」

 その好きな相手というのが同じならなおさらに。・・・それは口にせず。

「お礼も・・・言われてしまいましたしね」

 おそらくさつきは気付いていたのだろう。あの言葉が嘘だと。

 ふと、シエルはセブンに気付いた。

「・・・セブン?」

 セブンはなぜかニコニコと笑っている。

「なに笑ってるんですか」

「いやー、ご主人(マスター)変わったなぁ、と思いまして」

「・・・そうですか?」

 ・・・そうかもしれない。

 昔ならこんな風に考えはしなかっただろう。

「はい。わたしはいまのご主人(マスター)、大好きです」

 そう言ってセブンはシエルの背中におもいっきり抱きついた。

「ちょっ、セブン!?」

「えへへー。―――あ、ご主人(マスター)ご主人(マスター)、あれ見てくださいよ」

 セブンの視線を追ってみれば、そこには、

「朝焼けですよー」

 輝きがあった。大きく、力強い光。

「綺麗ですね、ご主人(マスター)

 闇が白け始める。いずれ、大きな青空が空を埋めていくだろう。

「・・・帰りましょうか、セブン」

「はい、ご主人(マスター)

 シエルはさつきの消えた方向を一瞥し、反対方向へと歩き始めた。

「あ、そうだセブン」

「はい?」

「少し・・・寄り道をしましょうか」

「どこにでしょう」

 シエルは笑顔で、ただ一言。

「遠野くんの家に」

 

 

 

 

 

 あとがき

 ども、神無月です。

 これ一、二年前に書いたSSを加筆修正したものです。

 こうやって見ると・・・あんま成長してないなぁ、って感じですね。

 萌えとは無関係になってしまいましたが、・・・良いでしょうかね?

 あ、あとさつきの固有結界を発言させる時の詠唱ですが、あれは適当です。っていうか吸血鬼の固有結界は魔術の固有結界とは似て非なる存在ですから本来詠唱は必要ないんですけどね。

 でもまぁ、格好良ければよいかとw

 ・・・しかし、そろそろさつきシナリオもできるかという時期にこんなの書いて良いのかなぁ?

 ではでは〜。

 

 

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