七月。

 キー学においてこの月には二つのイベントが存在する。

 球技大会と学期末試験だ。

 一応球技大会の方が先なので試験の勉強を後回しにしがちだが、今回はそうもいかない事情がある。

 それは日程だ。

 球技大会は週末、木曜と金曜の二日間を使って行われるのだが、期末試験の開始が翌週明けた月曜からなのだ。

 もちろん前もって勉強をしておけば土日の二日間で復習は余裕で出来るだろう。試験範囲もそれほど多くはない(とはいえあくまでキー学での相対的な話であって一般の他校に比べればやや多い程度)。

 が。日頃遊び呆けていて事前勝負、一夜漬けに賭けている人間にとってはやや過酷なスケジュールと言えるかもしれない。

 かく言う彼、朝倉純一も基本的には直前になってようやく動き出すタイプなのでこの日程を見たときはげんなりしたものである。

 だから今回はいつもより早めに勉強を始めなくちゃいけないなぁ、とかったるい星人とも呼ばれる彼らしからぬ思いを抱いていたのだが――、

「……駄目だ。できねぇ」

 昼休み。廊下の窓から外を眺めていた純一は誰にともなく呟いた。

 そう。その出鼻は思わぬところで挫かれたのだ。

「あ、朝倉くん。これ受け取って!」

「え、いや、困るんですけど――」

「それじゃ!」

「あー……」

 頬を赤らめ走り去っていく先輩と思しき女生徒。彼女から渡されたのは一通の手紙。

 誰が見てもわかる。ラブレターだ。

 ……あの野球部地方予選から数日。どういうわけか知らないが、ずっとこんな調子が続いている。

 そう。いまやキー学女子の中で純一株が急上昇中。非公式特報部の最新極秘人気アンケートではなんとあの祐一を抑えて一位になっていた。

 どこかのアイドルかと言わんばかりの追っかけこそ姿を消したが、それはいなくなったのではなく鳴りを潜めただけであった。

 そもそも大々的な行動が消えていったのは風紀委員であり純一の義妹でもある音夢の活躍と、みさおの暗躍によるものである。

 みさおは別に他人が純一のことを好くことに抵抗はないようなのだが、

「興味本位で近付かれるのはうざったいよね〜。ってわけでちょっと篩いにかけてくる!」

 とか言って、何かをしでかしたらしい。それで純一の追っかけの三分の二は消失したらしいが、何をしたかまでは教えてくれなかった。

 まぁそんなわけで一応静かにこそなりはしたが、こうしていまでもちょくちょくこういったアプローチが続いている状況だ。

 こんな状況では学園で勉強は出来ない。下手に放課後残りでもしたら、またこの手のイベントに巻き込まれてしまいかねないからだ。

 かと言って家に帰ったら帰ったで闇のオーラで不機嫌っぷりを体現している音夢がいる。あそこで気にもせず勉強が出来るほど純一は神経が太くない。

 祐一ならスルーするし、浩平ならそもそも視界にも入らないだろうが、あのレベルと自分は違う。

 ……そんなわけで八方塞。折角勉強する気になったというのに、周囲の状況がそれを容易に許してはくれなかった。

「そもそも一週間以上前から勉強しようしたからこんな羽目になったのかな〜」

 よく、その人物がしそうにないことを突然することで、「明日雨でも降るんじゃないか?」という天変地異のように語ることがある。

 なんかいまの状況がそれと酷似しているような気がしてならない。まるで純一のやる気を神が否定しているかのようだ。

 ならいっそ、天の導きのまま勉強一切せず撃沈するのもありかなー、なんて自棄になっていると、

「何を呆けているのですか」

「あつっ!」

 いきなり頬に熱を感じ、純一は驚いて飛び退いた。

 目の前いにいたのは缶コーヒーを手に持った天野美汐だった。どうやらさっきのはその缶コーヒーらしい。

「なんだ、美汐か。脅かすなよ」

「ボーっとしている人間は脅かしたくなる性分なので」

「……割と嫌な性分だな、それ。というかなんでこの夏真っ盛りにホットコーヒーなんだ」

「夏なのにラーメンが食べたいとき、あるいは冬にアイスが食べたくなる日はありませんか? あれと同じです」

「ん、まぁ妙に納得出来るような出来ないような……」

「それで、どうかしたのですかヒーロー。バイトの同僚のよしみで相談くらいなら乗りますが?」

「ヒーローはやめてくれ……」 

 げんなりしつつも、純一はこれまでの経緯と起こってきたことを説明した。

 いまは藁にも縋りたい気持ちだったからだが……美汐に対して藁にも縋るというのはちょっとマッチしすぎていて怖い。

 純一の隣で壁に背を預け、ちびちびと缶コーヒーを飲んでいた美汐は全てを聞き終えて頷いた。

「なるほど。純一が事前に勉強を……。つまり明日は雹が降るのですね」

「……美汐、お前って案外Sっ気あるのな」

「そうでしょうか? まぁ少なくともMではないでしょうね」

 人をいじめてそんなに楽しいかと問いたい。でも美汐ならそんなこと聞いても「そうですが何か?」とか平然と答えそうなのでやめておいた。

「で、なんか手立てはあるかな」

「そうですね。根本的な解決にはなりませんが、一つ手がないこともないです」

「マジで?」

「要は、静かに勉強が出来る空間が確保できれば良いのでしょう?」

 まぁ確かに。最善策はこのわけのわからない人気が沈静化することだが、当面はそれでも構わないだろう。

 だが、もちろんそれくらいは純一とて考えている。

「でも近所の図書館やら喫茶店やらは既にキー学生徒で一杯だろう?」

「ええ。キー学は比較的真面目な学生が多いですからね。特に今回は日程が日程ですからそういう生徒も多いでしょう」

「だろう? じゃあやっぱり無理じゃないか」

 思案顔で俯いた美汐は何かを思いついたように指を立て、

「なら、私の家にでも来ますか?」

 そんなことをのたまった。

 

 

 

 

 

集まれ!キー学園

六十三間目

「巫女さんと剣士と勉強会」

 

 

 

 

 

 天野神社。

 それはキー学を挟むような形で位置する二大神社の一つである。

 もう一つの神社である胡ノ宮神社とは昔から親交が厚く、場所は正反対であるにも関わらず祭りや行事などは合同で行うことも多いらしい。

 ……なんていう神社に纏わる雑学は置いておくとして。

「どうしたのですか? 四天王ともあろう人がこの程度の石段で疲れた……などとは言いませんよね?」

「あぁいや、そういうのはない。ないけどな……」

 どうしたもんか、と純一は頬を掻きながら上を見上げた。

 それなりに長い石段の先、立派な鳥居が見えるその向こうにはくだんの天野神社がある。

 そう、つまり美汐の家というわけだ。

 美汐とはバイトをきっかけに親しくなったし、その淡々とした性格や物言いが純一にとっては気が楽で、友人としては筆頭に上がるくらいになっている。

 だから美汐の家に招待されても「友人の家に勉強をしに行く」程度の認識しかなくここまですんなりとやって来たわけだが。

 ――よくよく考えたら女子と二人っきりってことになるんだよなぁ。

 と、今更ながらに気が付いた。なんとも馬鹿馬鹿しいのだが、それだけ純一の中で美汐を女性として意識していないという現われなのだろう。

 その美汐とて純一を男として意識しているとは思えない。いや、彼女の場合そもそも男性を意識することがあるのかすら甚だ疑問だが。

「純一? 足が止まってますけど何かありましたか?」

「あぁいや、なんでもない。ちょっとした考え事――ぶっ!?」

「?」

 慌てて純一は視線を逸らす。

 先に石段を登っていた美汐に返事をしようと見上げた瞬間に見えてしまったのだ。

 その……スカートの中が。

 ――やば、意識してなかったのに急に……! あぁくそ、青いものが目から焼きついて離れない!

「どうしたんですか純一。そっぽ向いて」

「あぁいやなんでもない! その、ちょっと上を見れない事情が……!」

「上を……? あぁ」

 と、何かに気付いたのか美汐は頷いて、

「私の下着でも見えましたか?」

「ぶっ!?」

 躊躇なくそんなことを言ってきた。

「お、おま、おま! 女子ならもうちょっと恥じらいというかなんというか、そういうのを持てよ!?」

「見えてしまったものを今更騒ぎ立てたところでどうしようもないでしょう?」

「そりゃ、そうかもしれないけど……」

「もちろん相手によっては不快感を感じることもありますが、純一なら私は別に構いませんよ」

「……え?」

 クスッ、と小さく笑って美汐は踵を返す。スカートがふわりと揺れることさえ気にせずとっとと先に登っていった。

 純一はそれを黙って見送る……わけにももちろんいかず、視線を逸らしたまま頭を抱えた。

「落ち着け。冷静になれ朝倉純一。美汐の言っていることはそういうことじゃない。そういう意味じゃないんだ……」

 ブツブツと呪文のように自分に言い聞かせ、どうにか精神を安定させる。

 それが功を奏したのかどうかは定かではないが、ともあれなんとか落ち着いた純一は美汐の後を小走りに追いかけた。

 

 

 

 神社、という場所自体は訪れたことのない人間はそういまい。

 参拝する者もいるだろうし、何より年末年始や夏祭りなどで足を運ぶ者は多いに違いない。

 だがその神社の中に入ったことがある人間はその何割いようか?

 少なくとも純一は自分の人生の中で神社に足を運んだことは一度もない。以前一度胡ノ宮環に招待されたこともあるが、所用で外していた。

 第一印象は、とにかく広い。普通の家と違って木材の匂いが強いし、あと天井がやたら高い。

「一応言っておきますけど、こっちはあくまで祭り……行事のためにある建物ですから、本宅とは別ですよ?」

「え、そうなの?」

「当然です。神を祀るためにこれほどの大きさになっていますが、人が住む分には過ぎた広さです」

 まぁ確かにその通りなのだが……どうやら勘違いをしていたらしい。

 なら何故こっちに入ったんだろう、と思ったらどうやら渡り廊下から本宅というか屋敷に通じているらしい。

 そこを渡り、美汐の言う本宅に足を踏み入れる。なるほど、確かに広いは広いが、これなら普通の武家屋敷くらいの大きさか。

 ……いや、武家屋敷ってのも相当広いわけだが。

「こっちです」

 そう言って襖を開けて美汐が部屋に消える。純一もそれに続いた。

 通されたのは客間……いや、居間なのだろうか? 畳敷きの……十二畳くらいあるだろうか? かなり広い部屋である。

「少し待っていてください。お茶を淹れてきます」

「ん、あぁわかった」

 そう言って美汐が出て行ったので、純一は手近な座布団を引っ張ってきてテーブルの前に座る。

 純一の家はもちろん普通の洋式建築なので、こういった『和』な雰囲気が強い家ってのはどうも違和感がある。

 隣に住む芳乃さくらの家もこんな感じの屋敷ではあるが、あまり入り浸ったことはないのでそう思うのかもしれない。

 が、その違和感は別に不快なものではない。それこそ昔はいまさくらが住んでいる屋敷で遊んだこともあるし、何か落ち着くものがある。

 これなら確かに勉強もはかどりそうだ。

 自分はこういう和式の方が合ってるのかもしれないなー、なんて漠然と考えていると襖が開く音がした。

 美汐が戻ってきたのだろう。……そう思って何の躊躇もなく振り返ったのが仇になった。

「え……?」

「ん?」

 初めに言っておくと、そこにいたのは美汐ではなかった。

 長い黒髪を露と滴らせ、ほのかな湯気を身に纏うからにはおそらくは風呂上り。それは良い。いや良くはないがそれは良い。

 だがその相手が女であり、しかも水分含んてピッシリと肌にくっ付いたバスタオル一枚を巻いた――莢長鞘というのが問題だった。

「な、なななな、なんで莢長がここにーッ!?」

 純一は慌てて視線を逸らしながら、当然の疑問を口にする。

「それを言うならこっちの台詞だ。純一が何故美汐の家にいる?」

「それは……いやとりあえず説明は後で良いからその格好をどうにかしろ! 服を着ろ!」

「私は別に気にしないから先に理由を聞かせてくれ」

「俺が気にするから先に服を着てくれお願いだから!」

 ブンブンと手を振って『良くない』ということをアピールするのだが、それが気に食わないのか鞘はわずかに眉を顰めた。

「むっ……。何故そこまで頑なに目を逸らす? 私の身体には魅力がないとでも言いたいのか?」

「誰もそんなこと言ってないッ!!」

「じゃあ良いだろう。純一は未来の私の夫だ。別に裸だって見られても問題はない」

「確定事項みたいに言うんじゃない! 俺はきちんと拒否したはずだ!」

「それはそっちの都合だ。こっちの都合じゃない」

「それこそこっちの都合じゃねぇだろ!?」

「うるさいですよ二人とも。一応神のお膝元なのですから、厳粛にしろとまでは言いませんがお静かに願います」

 美汐の声……!

 天の助けと言わんばかりにそちらに純一は視線を向けるが、

「なっ……あ?」

 予想外の美汐の格好に思わず唖然とした。

 それは目にも鮮やかな紅白の衣装。そう、言わずもがな……巫女服である。

 いやここは神社なのだし、ある意味では正しい服装ではあるのだが何故にこの状況で巫女服なのかがわからない。

「美汐。お前が純一を家に呼ぶほど仲が良いとは知らなかった。是非とも理由を聞きたい」

「あら。それなら私も鞘が純一を名前で呼ぶほど親しいとは知りませんでしたが、いつの間に?」

 鞘は半目で、美汐は微笑で互いを見やる。だが純一からすればまずどうしても聞きたいことがあったので敢えて横槍を入れさせてもらった。

「……というかそもそもお前たちはどういう関係なんだ? 友達とか親友ってやつか?」

 二人は純一を一瞥し、そして互いを一度見て、そして改めて純一に視線を向け、

「従姉妹だ」「従姉妹です」

 そう言った。

 

 

 

「――なるほど。つまり莢長のお母さんは元々天野家の人間だったわけか」

 あれからおよそ十分後。

 美汐の後押しもありどうにか着替えた鞘(もちろん私服。剣道なんてやっているからもっと落ち着いたものかと思えば意外にカジュアルで少し驚いた)と巫女服の美汐の三人でテーブルを囲み、茶を啜っている。

 話の内容はもちろん美汐と鞘の従姉妹という話だ。

「そうなる。だからここは私の母の実家と言えるわけだ」

「家も近所になりましたからこうしてよく……特に鞘は勝手に入ってきてはこうしてお風呂に入りに来たりしているんです」

 何故風呂?

 その疑問をなんとなく察したのだろう。鞘はお茶請けとして出された和菓子を口に運びながら、

「決まってる。こっちの風呂の方が広くて好きだからだ」

「……莢長って思いのほか自由奔放な人間なんだな」

「普通の人間なら広い風呂の方が良いと思うだろう?」

 だからって親戚とはいえ別の家の風呂にまで足を運びはしないだろう。まぁそれで納得するとも思えないので口にはしなかったが。

「でも、そうだよな。莢長って高等部からの外部入学だもんな。何かあって実家のあるこっちに引っ越してきたってことなのか」

「あぁ。頼りにしてやって来たという意味では正しい。自慢じゃないがうちはそれほど裕福ではないのでな。食事やら風呂やら世話になっている」

 鞘の家は護身術の道場を開いているそうなのだが、いまどき道場などあまり儲からないからな、と彼女は苦笑した。

「鞘は遠慮という二文字が欠如していますからね。風呂はともかく、食事も。我が家のエンゲル係数がかなり高くなってきてます」

「えんげるけいすう、というのはなんだ? 数学用語か?」

「辞書からでも引くかググりなさい」

「ぐぐる……?」

 横文字に弱いのか、「?」マークを乱舞させる鞘。

「まぁそんなことはどうでも良い。むしろ私は何故ここに純一がいるのか聞きたい」

 わからないことは即座に切り捨てるタイプなのか、すぐに話題を切り替えてそう訊ねてきた。

「あぁそれは――」

「私から説明しましょう」

 というわけで美汐から鞘にこれまでの経緯が説明される。

 自分が説明するより理路整然としていてわかりやすいだろう、と純一は素直に彼女に任せた。

「……ふむ、なるほど。つまり勉強会のようなものか」

「そう考えてもらって間違いはないでしょう」

「ならそう言ってくれれば良い。私も是非参加させてくれ」

 思わず美汐と目が合った。何故そういう展開になるんだろうか?

「なんでそうなるんです?」

 そう思っていたら美汐が訊ねてくれた。するとよくぞ聞いてくれたとばかりに鞘は二度ほど頷き、

「自慢じゃないが、私は勉強が出来ない」

 ……自慢じゃないと言いながら誇らしげに胸に手を当てているのは何故だろう?

「だが美汐は学年でもトップだし、純一とて上位に入っていた。私が師事するのにこれほど適した状況はないはずだ」

 確かに美汐は頭が良い。中等部からでも全教科満点でなかったときの方が少ないほどの才女だ。

 純一は……まぁ大体平均90点台というレベル。普通なら十分の成績だろうが、キー学においては中の上程度のレベルであろう。

 と、そこまで考えて純一は一つ疑問に思った。

「っていうか莢長はこの前の中間テストどれくらいだったんだ?」

「ん? あぁ、レッドウィークに突入したくらいのレベルだ」

 純一、思わず絶句。

 なんというか……鞘は凛々しくて整然としているのでてっきり頭の良いと思っていたのだが、どうやらそれは勝手なイメージだったらしい。

 人を見かけで判断してはいけない、ということを逆の意味で理解した瞬間であった。

「私は別に構いませんが……今回の勉強はあくまで純一が望んだことなので決定権は純一に任せます」

 と言って美汐が純一を見る。釣られるように鞘もこっちに視線を向けた。

 なんか妙な成り行きになっているが、純一としては別に断る理由もない。

「まぁ騒がしくさえなけりゃ勉強には集中できる方だし、別に良いけど」

「おぉ、かたじけない」

 かたじけない、なんて言葉を二十一世紀に生で聞くとは思わなかった。

 苦笑しつつ、ようやく本来の目的に移行出来る。

 純一は鞄から教科書とノートを取り出した。と、二人の様子を見て純一は首を傾げる。

「そういえば二人はどうやって勉強するんだ?」

「私は一応一通り持ってきました」

 そう言って美汐は袴の中から勉強道具一式を取り出した――って待て袴から? いや、気のせいか。気のせいということにしておこう。

「私は何も持ってきてないが……そもそもまるでわからないからある必要もないだろう」

 鞘は鞘でなんかとんでもないことを言っている気がする。そもそも教科書すらなくどのように勉強をするつもりなんだろうこの人物は。

「莢長、一つ聞きたい」

「なんだ?」

「中間テスト、レッドウィークに入ったのは聞いた。で……実際、お前は何点だったんだ?」

「ん? そうだな。確か……全部合わせて……12点だったか?」

「ぶっ!」

 吐いたのは純一ではなく、我関せずというように茶を飲んでいた美汐だった。

 そのお茶は周囲に大した被害こそ出しはしなかったが、あのクールビューティーと名高い美汐の行動というだけでとんでもない事件である。

 げほっ、ごほっ、と咽ながらもすかさずテーブルを布巾で拭き取った美汐は、驚きも顕に鞘に掴みかかる。

「あなたよくそれでキー学に入って来れましたね!?」

「何を言う。私は剣道のスポーツ特待生だ。そもそも我が家に一般受験を受けるだけの資金はない」

 え、そこまで切羽詰っている経済状況なのか、と純一は思ったのだが美汐は知っているのかそこには反応しなかった。

「スポーツ特待生だったのですか……。それにしても鞘がそこまでに馬鹿だったとは知りませんでした」

「馬鹿とは言ってくれるな。単に授業の内容と教科書の内容がちっとも理解できないだけで人格的にはなんら問題はないぞ」

「人はそれを馬鹿と言うのです」

 なんかこの二人、仲が良いのか悪いのかよくわからない。

 言葉の節々に棘があるのだが、それが刺さってないというか刺さってても気付いていないというか……ともあれ、雰囲気は微塵も悪化しない。

 まぁこういう家系なんだろう、と勝手に結論付けて純一は教科書を開いた。

「……ともかく、何もなければ勉強もできません。とりあえず私の教科書を使ってください」

「だがそれではお前が勉強できないのではないか?」

「問題ありません。既に試験範囲の教科書の内容は全て暗記してありますから」

 なんかとんでもない発言が出た。とはいえ学年トップの美汐の言うことだし、おそらくは事実なのだろう。

 だがそれならどうして勉強道具を持ってきたのだろう……と考えて、理解した。

 ――きっと美汐は俺に気を遣わせまいとしたんだな。

 勉強をしている人間の前で勉強をしないのは、ある意味勉強をしている人間にとってプレッシャーになる。

 だが一緒に勉強をしていれば特に何も思わず純一も勉強に励めるだろう。

 必要ないのにそんな物を持ってくる辺り、やはり美汐は良いやつだと思う。そして、彼女も。

「いや、やはり遠慮しよう。確かに美汐には必要のないものなのかもしれないが、自分ために他者の予定を妨害するのは道理に反する」

 スッと鞘は立ち上がる。

「どこへ?」

「一旦家に戻って道具を取ってくる。何、往復でも十分程度。苦になる距離じゃないさ」

 ではまた、と軽く手を掲げ鞘はとっとと出て行ってしまった。なんというか、行動力のある人物である。

 美汐もそんな鞘の性格を理解しているのか、わずかに苦笑し、そして微笑へと戻して純一に向き直った。

「……では、大分ゴタゴタしましたが、勉強を始めるとしましょうか」

「あぁ」

 そうして、ようやくのこと勉強は開始された。

 

 

 

 静かだ。

 もちろんこの静かさを求めて天野神社に出向いたわけだが、それにしてもここまで静かな中でいられるのはどれくらいぶりだろう?

 人の話し声など一切聞こえない。耳に届くのはシャーペンがノートの上を奔る音と、襖の向こうからかすかに響く風で揺れる木々の音。

 おそらく夜でさえここまでの静寂を感じたことはないだろう。

 密集住宅、というのもあるのだろうが、夜は夜でそれなりに人の声や何かの音が響いてくる。心地良いくらいの静けさには程遠い。

 まるでここだけ世界から隔絶されたかのようだ。

「……?」

 一瞬、意識が遠のいたことを自覚した。

 なんだ、と思ってすぐに悟る。どうやら自分は睡魔に襲われているらしい。

 待て待て、ここで眠るわけにはいかない。

 折角この場を提供してくれた美汐に申し訳が立たないし、なによりここで勉強をしなければ今度いつ出来るか定かではない。

 起きろ、目を覚ませ、と自分に言い聞かせるものの……そう思えば思うほどに反比例して眠気が増すのは人の性か。

 ふらつく頭。閉じそうになる瞼。それに必死に抵抗を試みるが、既に浮ついた意識は限界に近付いていた。

 結局純一はその睡魔に抗いきれず、ゆっくりと意識を落としていった……。

 

 

 

「純一?」

 美汐が気付いたとき、純一はノートの上で腕を枕にして眠っていた。

 勉強をすると言っていたにも関わらず寝入ってしまうとは情けない……とも思うが、シャーペンを握ったままの辺り、抵抗はしたのだろう。

「まぁ、疲れもするでしょうけどね」

 あれだけドタバタする人間関係の中心にいれば、身体的にも精神的にも疲労は蓄積されるに違いない。

 しかも相沢祐一や折原浩平とは違い、純一は巻き込まれ体質である。そういう意味では疲労度は倍近いのではないだろうか。

 仕方ない、と美汐は立ち上がり近くの部屋から毛布を取り出した。もう夏とはいえあのまま寝入っては風邪を引きかねない。

 そうして部屋に戻り、純一の傍らに膝を着いて毛布をかけようとして――不意に純一の身体がぐらついた。

「っ」

 まるで計ったかのようなタイミングで純一が美汐の方に倒れてきたのだ。

 両手で毛布を持っていた美汐は体勢も整えられず尻餅をつく。そしてそれに被さるようにして純一が倒れこんできた。

 わざと……ではないだろう。どちらかと言えば女子を敬遠している純一がこの手の行動を取るとは考えにくい。

 別に怒りはないし……不快感もない。これが純一でなければおそらく呪い殺しているだろうが。

 とはいえこのままというわけにも行くまい。体勢が体勢だし、鞘が戻ってきたときに何と言うかもわからない。

 だから純一を起こそうとして、

「――」

 やめた。

 本当に安らかな寝顔を見て、起こすのは躊躇われた。実際かなり疲れているんだろうし、そういう意味では天野神社は格好の寝場所だろう。

「仕方ありませんね」

 小さく嘆息して、美汐はそっと起こさないように体勢を立て直した。

 足を純一とは反対方向に向け横にする。そしてゆっくりと純一の頭を自分の股の上に移動させた。

 俗に言う、膝枕というやつである。

 そしてその純一にそっと毛布をかける。我ながら似合わぬ行動であるとは思うが、不思議と苦ではない。

 別に自分は純一に異性としての好意を持ってはいない。が、一人の人間としては好感が持てるし、友人としては好きだ。

 現にいまも乙女のように心臓が早鐘を打つこともなく、どちらかと言えば……安心感がそこにある。

 自分の膝の上で安心するように眠る純一を見て、彼もそうなのだろうか、と美汐は考える。

 彼の髪をそっと撫でる。まるでそうすることが自然のような気持ちになった。

 音はなく、声もなく。感じるのは純一の温かさと襖の間から微かに入ってくる風。

 まるで純一ではなく、自分が優しい揺り籠の中にいるようだ。そんなことを思いながら、美汐もそっと目を閉じた。

 

 

 

「戻ったぞー……お?」

 鞘が戻ったときに見たものは、美汐の膝枕の上で横たわる純一という構図だった。

 だが寝ているのは純一だけでなく、美汐もだった。珍しいな、と鞘は思う。

「美汐は他者の前で無防備な自分を見せたがらない性格なのだが……」

 それは親戚であるとはいえ鞘相手でも変わらない。にも関わらず、鞘が戻ってくることを事前に知っていながら寝入っているというのが珍しい。

 だが美汐も純一も、まるで安心しきったかのように眠っているではないか。

 その光景を見て鞘はヤキモチを焼く……なんてことはなく、微笑を浮かべていた。

 なんというかこれは恋人というより……仲の良い姉弟を見ているかのような気持ちになる。

 勝手知ったる人の家。鞘は手近な部屋から毛布を持ってくると、美汐の肩にそっとかけた。

「勉強会はまた今度にしよう。今日は二人ともゆっくり眠ると良い」

 そう笑って言い残し、鞘は勉強道具を持ったまま部屋を後にした。

 

 

 

 ゆっくりと流れる時間の中で。

 二人はまるでそれが自然であるかのように寄り添い、眠っていた。

 

 

 

 あとがき

 おはようございます、神無月です。

 さて、今回のキー学いかがでしたでしょうか。

 今回はこれまでとは違い「まったり」を目標にして作ってみたのですが……どうでしたでしょうね?

 鞘と美汐の関係についてはこちらで考えたものですが、案外似ているのではないかと思ってこんな感じに。

 以前より鞘のキャラが肉付きしたのではないかな〜、と思ってます。

 あと美汐は純一にとってちょっと特殊なポジションにしたいと常々思っていました。恋、とはまたちょっと違う方向で重要な女の子として、ね。

 ちなみに私、Kanonでは佐祐理と栞の次に美汐が好きです。だからどうしたと言われたらそれまでですが(ぁ

 さて、次回は浩平の話を予定しております。

 ではまた〜。

 

 

 

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