すずめの鳴き声が響く、まさに絵に描いたような絶好の朝。
暑くもなく寒くもない、もちろん雨でも曇りでもない、気持ち良いくらいので晴天の中で、
「……うー」
相沢祐一は珍しくベッドで唸っていた。
割と朝に強い方である彼にしては珍しい光景である。というのも、
「しんどい……」
こう、身体の芯からずーんと圧し掛かる疲労感に苛まれていたためである。
相沢祐一は天才肌の青年である。どんな運動も率なくこなすし、並以上の結果を出すだろう。
だが――『出来る=疲れない』というわけではない。
まぁそれでも並の運動なら疲れもしないだろうが、大会で、しかも同レベルの相手と競い合うなんて経験はほとんどない。
そのせいだろう。もう目覚ましも鳴っているというのに眠気がまったく消えないのは。
「このまま寝てサボってしまいたい……」
祐一らしからぬ言葉が口から出る。
もしこの場に春子がいたら驚きと歓喜で携帯で写真を撮って父親に送り飛ばしていたことだろう。……その反応ももちろん普通ではないが。
とはいえ、基本真面目な祐一である。言ってみただけであって実際そのようなことをするわけもない。
のっそりと起き上がり、ふらふらとベッドから降りる。
いまにも膝から崩れ落ちそうなへっぴり腰っぷりはいつもの祐一からはあまりにかけ離れた姿である。
しかも千鳥足のままふらふらと歩き出した祐一は、
ゴン!!
「……」
洋服タンスの側面に思いっきり顔面をぶつけた。
春子がいたら驚きと歓喜でデジタルカメラで写真を撮って拡大コピーし、祐一の超レア間抜け記念にと額縁に入れて飾ったことだろう。
だが残念なことに――ではなく幸いなことに、本日春子は白河家こと冬子宅にお泊りをしているらしい。
なんでそんなことになったかはよく知らないが、あの母親のことだ。冬子の嫌がる顔を見たいがためにそんなことをしたんだ、と言われても祐一は普通に納得出来る。
まぁあの母親の奇行はいまに始まったものではないので気にする必要もないし、そもそも気になどしない。
祐一はややクリアになった思考の中で、でも二割減のスピードで学校へ向かう支度を開始した。
ゆっくり支度をして、パンだけを焼いて食うという手抜きの朝食を一応腹に収めた祐一は玄関に立っていた。
「あー……まだ少し眠いし、だるいな」
靴を履きながら、気を抜けばそのまま倒れて寝てしまいそうになってくる。
これは……思った以上に重傷だ。これはちょっと運動不足が祟っているかもしれない。もうちょっと頻繁に運動をしておくべきだっただろうか?
まぁそんなことも後の祭り。今更言ったところでこのだるさが消えるわけでもない。後の教訓になっただけでも良いか、と玄関のドアを開け、
「――」
パタン、と閉めた。
さて。いま何か視界に変な物が見えたような気がしたのは気のせいだろうか? 個人的には疲れによる目の錯覚だと思いたい。
どの道ここを通らなければ学園には行けない。よし、と一呼吸置いてもう一度扉を開けて、
「……おい」
幻覚ではなかったし、ましてや見間違えでもなかった。
「人の家の目の前でお前は一体何をしている。浩平」
そこにはどういうわけか白装束に身を包み短刀(のようなもの)を握り締めた浩平が、座り込んでいた。
浩平はそんな祐一を一瞥すると、こちらもまた普段の彼からは想像もできないほど真剣な表情で、
「祐一……。介錯をしてくれ」
「はぁ? 何言ってるんだお前」
「昨日の試合。俺のせいで勝てなかった……」
そう。
昨日の高校野球地方予選、キー学対月臣は……一点差でキー学は敗北した。
あのとき浩平はあわやホームランという当たりを打ちはしたものの入ることはなく、走者を一人帰すだけで留まった。
以降、他の面々も奮闘はするものの走者を帰すには至らずそこでゲームセット。もう少しにまで迫りながらも、結局負けてしまった。
とはいえ、別に浩平が悪いわけではない。彼はその前にホームランを打っているわけだし、最後だってきちんとヒットを打った。
そもそも、最後の当たりのときは強烈な突風が吹き荒れていて飛距離が減衰されたこともある。あれは自然現象だ、どうしようもない。
むしろ活躍の程度で言えば祐一の方が低かっただろう。そういう意味ではむしろ非は自分にさえある。祐一はそう思う。
だからそこまで追い詰めるな、と労おうとして、
「あのとき、突風が吹かなければ――俺が応援席にいた女子の太股に視線を奪われることもなかったのにっ!!」
「……あ?」
いま……なにか決して聞き逃してはならないことをこの男はほざいていなかったか?
「漢、折原浩平。まさしく一生の不覚……! 主役たる俺があんな一時の情事に身を流されるなんて……この青春ハートが憎らしい……。
そういうわけで此度俺は切腹を決意した。ついては祐一、お前に介錯をして欲しいのだ! いや止めてくれるな! これは男の決意なのだ!」
「……よし。ほらさっさと切れ。俺も遠慮なくザクッといってやるから」
「ってあれ!? いつの間に背後に回っていらっしゃる!? というか手に持っているのは高枝切りばさみ!? 何故!?」
手近にある刃物が庭に放置されていたこれしかなかったからだ。
これは春子が深夜の通販番組を見ていてノリで買った一品である。そもそも庭に高い木などありはしないうちではまるで役立たずだとあの母親は何故わからないのだろうか。
まぁそんなことはいまはどうでも良い。とりあえずこのアホでバカな男に一撃を食らわせなければ気がすまない。
さっきと言っていることが違う? あの台詞を聞いて同じ心境でいられるやつがいたらむしろ見てみたい。
「切腹しないのか? なら俺から行くぞ?」
「ま、待てはやまるな祐一! これは俺なりの気遣い! イッツジョーク! HAHAHA! オーケー!? それに介錯は切腹の後が常識デスヨ!?」
「切腹は日本の文化だエセ外国人。というわけでお前の認識もどっか間違えてるんだろうよ。せーの」
「ちょ、おま、待て!? 強引にもほどがある!? というかいくら俺でも刺したり斬ったりしたら死ぬぞ!?」
「ギャグ漫画なら笑ってすむさ」
「これギャグ漫画じゃなくてリアル――ギャアアアアアアアアア!?」
そんな、平和な朝だった。
集まれ!キー学園
六十二間目
「その結果」
「ひ、ひどいめにあった……」
涙目の浩平が背中をさする。
とりあえず斬ったり刺したりはなかったが叩かれた。そりゃあもう見事なまでの袋叩きっぷりだった。
あそこまで加減しない祐一というのも珍しい。
それだけ気が荒れていたということなのか、あるいは……鎮火しかけていた火に油を注いでしまったのか。
「お前が不埒なことを言うからだ」
「そんなのいつものことじゃねぇかよぅ……」
「自分で言うな。あと空気を読め」
「はい。すいませんでした」
やれやれ、と祐一は嘆息。
何はどうあれ、終わったことをとやかく言ったところで始まらない。浩平の言っていることが真実であれジョークであれ、それを突っ込むのも今更だろう。とりあえず怒りはさっき吐き出したし。
「そういえば瑞佳はどうした?」
「あー、長森は夏のコンクールに向けて朝練だとさ。水瀬もそうじゃないのか?」
「らしいな」
部活組は、野球部がそうだったようにそろそろ大会やコンクールが始まりだす。いや、もう始まっているところもあるだろう。朋也のバスケ部のように。
学期末テストや球技大会もあるのに大変なことだ、と自分たちのことを棚上げにして考える祐一であったが、ふとあることに気付いた。
「そういや軽音部は何もないのか? 確かあれも大会みたいのあるだろう?」
「あぁ、一応な。あんまメジャーではないけど」
祐一も浩平絡みで軽音部にときどき顔を出すようになってから知ったことだ。
どうも軽音楽部にも大会というものが存在するらしい。といっても地方の団体や連盟による、地域間での大会というかコンクールだが。
「あれには出ないのか?」
「一応申請書は貰ってるけど……別に大会に出たいわけじゃないしなぁ〜。ただイベントとかで盛り上げる一端を担えればそれで良い気もする」
「まぁ、お前はそういう考え方だろうな」
浩平は基本的に騒ぎが大好きだ。大舞台ってのも好きではあるが、盛り上がりありきで考える人間なのでコンクールなどは性に合わないらしい。
バイオリンやピアノにさっさと見切りをつけたのもその辺も理由の一つなのかもしれない。もちろん断定は出来ないが。
「まぁとりあえず暴れ分は供給したからしばらくは落ち着くと思うぜー」
「なんだよ暴れ分って……。お前にとって必要な栄養素なのかそれは」
「青春だぜ?」
「さもその言葉だけで伝わるかのような言い方は止せ。俺はお前とはわかりあいたくない」
というか同類にされたくない。
「祐一のいけず〜」
「今度は刺すぞ。高枝切りばさみで」
「はい冗談でございます」
ったく、と溜め息を吐いて……ふと、その異変に気付いた。
既に通学路も終盤に差し掛かり、キー学校舎が目に映ってくる頃合。
気のせい……ではないだろう。ここまで声が聞こえてくるのだから。
「なんだぁ、あの人だかりは……?」
浩平の言うとおりの光景がそこに広がっていた。
校門近く。多くの生徒――主に女子が殺到して巨大な人だかりになっていた。その女子たちからかもし出される雰囲気や響く声からは、まるでアイドルでもやって来たのかと思わせるくらいに熱狂していた。
「は、離れてー! 離れてくださいー!」
その周囲で音夢をはじめとした風紀委員のメンバーがこの状況を打破しようといろいろやっていはいるようだが、まるで効果はない。
校門は人一人さえ通れないような人の波で埋め尽くされていた。
「一体なんなんだあれは……」
「面白そうじゃん〜。祐一、俺たちも行こうぜ!」
浩平のような野次馬根性はないが、そもそもあそこを通らなければ校舎には入れないので行くしか選択肢はない。
だが二人が人だかりに近付くと、
「わぁ」
「見て、あれ」
何故か勝手に人垣が割れた。
浩平共々思わず見合う。一体何がどうなっているんだ、と。
で、首を傾げながら前に進んでいくと、
「あ、ちょ、ちょうど良いところに! 助けてください!」
「「ん?」」
その中央に、朝倉純一が立っていた。
手にたくさんの箱やら包みやら花束を持ち、そして大勢の女子に囲まれて。
祐一はその光景を見て、んー、と首をかしげ、
「……お前いつからアイドルになった?」
「んなもんなった覚えありませんよー!?」
「ところがどっこいぎっちょんちょん! いまやキー学ではそれと同レベルの扱いなんだなぁ、朝倉くんは!」
突然脇から現れたのはキー学のパパラッチこと柚木詩子であった。
こいつが唐突なのは毎度のことなので突っ込みはせず、中身だけ聞くことにする。
「それはどういうことなんだ?」
「よくぞ聞いてくれたね相沢くん! ズバリ! 昨日の試合が原因なのよ!」
と言って詩子は懐から数枚の写真を取り出した。
そこに映っているのはいつもの気だるい様子ではなく、バッターボックスに真面目な顔で立つ純一の姿。
「昨日の試合、負けちゃったけど朝倉くんけっこー活躍してたでしょう? しかもこの普段とのギャップ著しいこの表情!
元々相沢くんたちと四天王扱いされてて顔も良いし運動も出来るし勉強も出来るから人気はあったけど、更に爆発しちゃったわけよこれが〜♪」
「それで何でお前が嬉しそうなんだ?」
「いやぁだって写真がバカ売れするんだもーん! 一枚千円で売れちゃうんだからボロい商売よねぇ、おほほほほほ!」
口に手を当てて笑っているのを隠そうとしているんだろうか。まったく隠れてないというかむしろ溢れ出ているが。
ホクホク笑顔の詩子はまぁ放っておくとして、この目の前で涙目で保護を訴えかける後輩はどうしたものか。
思考は三秒。祐一はポン、と純一の肩を叩き安心させるように頷いて、一言。
「良かったな。ハーレムだ」
「ちょー!?」
自分なら面倒だが他人事だと割と楽しい。少し詩子や浩平なんかの気持ちがわかったかもしれない。
しかし見捨てられた純一としたらたまったもんじゃない。
いままでは四天王で人気が四等分(浩平ファンはちょっと独特なので若干少ないが)してたからある意味平和だったものの、こうなってしまうとたまったもんじゃない。
ハ○カチ王子やハ○カミ王子みたいな一時の流行というか、そういうミーハー精神で動いている者もいるだろうが、そんなもん当事者たる純一にとってはなんら変わらない。
というわけで彼の取れる行動はただ一つ。
「う……うわぁぁぁぁぁぁ!!」
逃亡。それしかなかった。
そしてそれを追いかけていく女子の軍団。その光景はまさしくアイドルの追っかけのようである。
数十人、下手すれば百人規模の大移動っていうのは道路すら揺らすんだなぁ、とか妙な感心をしながら祐一はそれを見送った。
「で? どうした浩平よ」
これまでは敢えて突っ込まなかったが、詩子に事のあらましを聞いてからというもの、ずっと俯いて肩を震わせている。
聞くのも面倒かと思ってスルーしていたが、突っ込まないといつまで経ってもこのままっぽいので一応聞いてみた。
すると浩平は拳を振り上げカッと目を見開いて、
「納得できーん!!」
そう近所迷惑になるくらいの大声でのたまった。
祐一はポリポリと指で頭を掻きながら、
「なんだ。お前も女子にもてはやされたいのか?」
「誰もそんなことは言ってない。つか、別に女子なんかはどうでも良い」
「じゃあなんだ」
「俺はな……純一が俺以上に目立っていることが納得できんッ!!」
「はぁ」
気のない返事で返す祐一。だが浩平はそんな態度が気に入らないのか、ビシッ! と祐一の鼻先に指を突きつけ、
「良いか!? 確かに純一は活躍したさ。あぁ活躍しただろう。だが! 昨日のキー学の点数4点のうち3点は俺の打点なんだぞ!
にも関わらず俺よりあいつが目立つというのはどういうことだ! 納得いかん責任者出て来いやー!」
まぁ確かに昨日の試合、浩平が一番の得点頭であったのは間違いない。
だが月臣からの初ヒット、そしてトリプルプレーとインパクトの強い活躍をした純一の方が記憶には残るのだろう。
それに浩平は初めから『目立ちたがり』オーラが出ているが、純一はそういうところのない人間だ。詩子の言ったとおり、そのギャップにときめいた女子もきっと少なくはない。
祐一からすればまぁ、別に浩平だろうと純一だろうとどっちがヒーローになろうと関係はない。大変だなぁ、とは思うが自分の周りが平和であるのなら別にそれで構わないのだ。
相沢祐一。実は結構薄情な男である。
「んなこと言ってないでとっとと教室行くぞ。人垣も消えたしな」
「ええい、納得がいかん! 離せ、俺はこの場にいる者どもだけでも説得し俺の凄さを証明させ――ぐふっ!?」
祐一が延髄にチョップを入れた途端、浩平が呻いてカクンと項垂れた。そして気絶した浩平をズルズルと引きずって校舎へと歩いていく。
容赦がないというかどこの暗殺者だと突っ込みたい光景だが、詩子は特に何を言うでもなく見送った。
んー、と二人に聞こえないように写真を取り出し、
「……ま、確かに朝倉くんほどではないけど、二人のも売れてるんだけどね〜」
さっき人垣が勝手に割れたのはそういう理由だ。
特にアイドル相手のような感覚で純一を追っかけている面々には、祐一や浩平も格好良いと思っている者もいる。
なんせ『恋愛』ではなく『憧れ』のようなものなのだ。アイドルを複数人好いている者なんてザラにいるだろう。
ようは今回の現象もそういうことなのである。だから一ヶ月もすればこの状態も安定するだろうと、そう詩子は考える。
「だからまぁ、その間に売れるだけ売ってお小遣いを稼がせてもらおっかな〜♪」
といってそう考える辺りが詩子の詩子たる所以だろう。ぼろ儲けする未来予想図を思い浮かべながらご満悦の表情でスキップなんかして、
「そういえば」
ふと、足を止めた。
「岡崎先輩のはそんなに売れないんだよねぇ。……やっぱバックにいるあの人の存在が怖すぎるからなのかな〜?」
まぁアイドル気分で追っかけるには危険すぎる相手だというのは詩子も同じ意見なのだが。
「ま、三人分でもこっちは十分な儲けなので良いんだけどねー! うふふふふふ〜♪」
るんたるんた、と飛び跳ねながら詩子は校舎へと向かった。
で、その人の心に巣食う、岡崎朋也のバリケードたる倉田佐祐理はと言えば。
「くちゅん!」
なんか可愛らしいくしゃみをしていた。
「どうした佐祐理。風邪か?」
「いえ、どうでしょう……」
「……あー」
ガシガシと頭を掻く朋也。
現在二人は登校中。用事があるとかで杏と椋が来ていないので、珍しく二人っきりの登校である。
朋也としてはかなり戦々恐々としていたのだが、予想外の状況にどうして良いかわからない。
いつも唯我独尊、絶対の自信を胸に怖い明るい笑顔を浮かべている佐祐理が、今日はどういうわけかひどく落ち込んでいた。そりゃあもう彼女の背景が漆黒に見えるくらいに、盛大に。
考えられる要因は朋也たちが野球で負けたことだろう。確か佐祐理は学園長と何か取引をしていたようだし、それが原因なのかもしれない。
「その、あれだ。そんなに落ち込むなよ。な?」
朋也としては、物を知らない以上そんな当たり障りのない励まししかできない。というか佐祐理を励ますなんてことを一生のうちにやることになるなんて思いもしなかったのだが。
「……佐祐理は、少し現実というものを甘く見ていたのかもしれません」
「え?」
「佐祐理は、皆さんが集まれば敵わない相手なんていないと高を括っていたのです。結果の決まったゲームとさえ思っていました」
「それは……」
そうかもしれない。実際朋也も……優勝とまでは行かずともこのメンバーなら甲子園にはいけるだろう、なんて考えてもいた。
それだけキー学にいる生徒っていうのは個々のスペックが高いし、常識の範囲を逸している者さえいる。
だが結果的には予選敗退。おそらくこんな結果は誰も考えていなかったに違いない。
「まぁ相手が悪かったな。キー学も相当異常な連中多いが、あそこも遜色ないくらい異常な連中だったし」
月臣学園。確かによくよく調べてみればどのスポーツでも結構な成績を残している学園だが、歴史はかなり浅い。
強豪になり出したのもここ一、二年の話のようだし。それだけこの年度に入っていた連中が異端ぞろいだった、ということなんだろう。
「おかげで佐祐理の思惑も丸つぶれです……。いえ、そもそもあの要求を簡単に受け入れたこと自体が……。
もしかして学園長は最初から月臣学園のことを知っていて……? いえ、まさかそこまで……いやでもあの人ならそれくらいは……」
「あ、あのー佐祐理? なんかブツブツと、ちょっと怖いんですけど……?」
「すいません朋也さん。佐祐理急用が出来ましたので先に学園に向かいますね!」
言うや、佐祐理はパチン! と指を鳴らした。
すると五秒もしないうちに黒塗りのリムジンが現れ、佐祐理の横で急停止。中から出てきた黒服の連中がドアを開ける。
それにすぐさま佐祐理は乗り込みドアを閉め、窓だけを開けて、
「では、また後で!」
ギュルルルル! とタイヤがアスファルトをこする音が響き、物凄いスピードで走り去っていった。
間違いなくスピード違反だと思うんだが……まぁ倉田家つきの運転手が事故などすまい。その辺は心配してないが……。
「……そんなに重要な賭けだったのかね」
内容は知らないのでなんとも言えないが、事前の脅しいい今の落胆ぶりといい、余程のものだったことは間違いないだろう。
しかし朋也が一番不思議に思ったことは、これだった。
「学園長って、いま学園にいないんじゃなかったっけか……?」
隠し部屋、というものを知っているだろうか。
西洋東洋問わず、昔――特に戦乱の時代はこの手の部屋は大きな屋敷には必ず存在していたという。
身を守るための最後の砦。あるいは何か大切な物を奪われないように保管しておく場所。そういった理由でそれは存在していた。
だがもはや戦争などとはかけ離れた日本、特に現代の風潮からすればそんな部屋を作ることもないだろう。
ただし物事には例外というものがある。
金持ちの屋敷には未だそういった部屋を事前に製作するところもあるし、事実倉田本家にもそういった部屋は存在する。
金持ちというのは、えてして恨みを買いやすいものなのだ。だからこそ、事前の準備は怠らない。
……まぁ倉田家の場合面白半分という可能性もまるっきり否定は出来ないのだが。
閑話休題。
ではそもそも隠し部屋とはどういった場所を指すのか。
基本的なものでいえば、地下室。一番ポピュラーではあるし、安全性ではこれが一番だろう。だがポピュラー故に発見もされやすい。
そして次に多いのは……構造的矛盾を利用した部屋。
――キー学園校舎、六階。
生徒会室と裏生徒会室、あとは使われていない机や椅子などの備品を置く空き教室があるだけのこの階に――それは存在した。
その二つの教室のちょうど境目。そこに構造的矛盾が存在する。
生徒会室と裏生徒会室は、共に広く、同じだけの面積を持っている。だが本来端と端に設置される扉が、この両室は真ん中に設置されていた。
学校の教室というのは一つの教室に二つの扉が基本。そう考えればどれだけ珍しいことかわかるだろう。
なので入り口から入ると、左右両方向に均等の広さを持っている……ように見える。
だがこれは人間の視覚を利用したトリックだ。
端に扉があれば気付いただろう。だが、真ん中に扉があることで両サイドの広さを感覚的にしか把握できないからこそ、その矛盾に気付かない。
足りないのだ。面積が。
外部から見た六階と、生徒会室と裏生徒会室、そして空き教室を足した面積が――そう、一致しない。
つまり……目では判別できない、隠された部屋が存在するのである。
そしてその存在を知っているのは一部の教職員と……生徒で言えば生徒会長と裏生徒会長の二名のみ。
つまり、佐祐理もまたその部屋の存在を知っていた。
道は三つ。屋上からのルート、生徒会室からのルート、そして裏生徒会室からのルート。
当然だが佐祐理は裏生徒会室から、面倒なまでの手順を踏んでこの隠し部屋に足を踏み入れた。
もちろんその部屋には廊下に面する扉はないし、窓も存在しない。外にはカモフラージュとしての窓があるが、それはあくまでデコイだ。
なのでここには人工の光しか入らない。そしてそこには、一つの巨大なテーブルと椅子、そして一人の人物が座っていた。
「失礼します、学園長」
「あぁ、佐祐理ちゃんか。いらっしゃい。今日は何の用?」
本でも読んでいるのだろうか。椅子の背を向けて頭を下げている状況ではその人物がどういった者なのかは判別できない。
「先日の野球のことで少し。……もしかして学園長は月臣学園のことを知っていたのではないか、と思いまして」
「ええ。知っていましたよ。あそこの特殊な設立状況や、現状の『彼ら』のことも」
「……なるほど。では学園長は初めから佐祐理たちが負けるとわかっていて、敢えてあの話に乗ったのですね?」
「ふふ。まさか。正直なところ、勝敗は五分五分だと思っていましたとも。結果的にも、面白い試合になったでしょう?」
「それは、まぁ確かに……」
「それに、佐祐理ちゃん。あなたに知っておいて欲しかったことでもあるの。
この学園には確かに多くの才能や力に恵まれた子が多いけど、世界にだってそういう子たちが多くいるのだということを。
過信は足元をすくわれる。佐祐理ちゃん、特にあなたは……用意周到ではあるけれど、時々相手の力量を決め付ける癖があるから」
佐祐理としては、何の反論も出来ない。確かにそういうところに心当たりがあるからだ。苦笑し、
「あははー……、やっぱり佐祐理ではまだまだあなたには勝てないってことですねぇ〜」
「ふふ、でも私も楽しかったわよ? 今時他人で私に勝負を挑んでくる人なんて、あなたか竹丸くんくらいだけですもの」
「楽しませるだけに留まるつもりはありません。いずれ必ず、佐祐理があなたを負かせて見せますから」
「あらあら。それは挑戦状?」
ギギ、と重い音を立てて椅子が振り返る。
大きな黒い椅子が回り、そこに座っていた人物――黒髪に白のメッシュを入れた中年女性が、歳不相応の子供染みた笑みを浮かべて、言った。
「勝てるものならば、勝ってご覧なさいな」
「もちろんですよ。学園長――四季さま」
あの相沢祐一、水瀬名雪、白河ことりなどの祖母にして、春夏秋冬四姉妹の実の母。
天才の血の、発祥点。
はたしてこの人を見て、一体どれだけの人が孫もいる五十台の女性に見えるだろう。少なくとも佐祐理にはせいぜい三十代にしか見えない。
「楽しみにしていましょう」
頭のネジがいくつか飛んでいそうな突飛な発言は春子のようで。
歳不相応に勝負ごとに熱くなるのは夏子のようで。
不敵に微笑む様は秋子のようで。
好きな相手をいじめるというかちょっかいを出したがるのは冬子のようで。
そしてことり並の美貌と、名雪並の運動能力と、祐一並の頭脳を兼ね備えた最強のおばあさん。
それが彼女……国立キー学園、学園長たる――天津四季の正体である。
あとがき
はい、どうもこんにちは神無月です。
さて、今回は野球の結果と……そしてそれに伴いちょっとした伏線と、伏線消化でしょうか。
純一のモテモテっぷりは次回以降の話にも繋がっていきますので、それはまぁ追々。
で、初登場というか六十二話目でようやくというか、学園長が現れました。
秋子や春子、と予想していた人もいましたが、ぶっちゃけそれ以上のとんでも超人でございましたw
これからも時々出てくることになりそうです。まぁ滅多に出番はないと思いますが……w
ではまた〜。