そろそろ日が落ちてきた夕方。

 野球の次の試合のミーティングもとりあえず終了し、新生野球部の面々がそれぞれ帰路についている中で、

「あ、祐一さん。ちょっとお話があるんですが」

 祐一は佐祐理に呼び止められた。

「はい?」

「今日これから何か予定とかありますか?」

「いえ、別段これと言っては……」

「そうですか。良かった。実はちょっと折り入って祐一さんにお願いがありましてー」

 ニコニコといつも通りに微笑む佐祐理。

 しかし何故だろう。なんか猛烈に嫌な予感がするのは……。

「えーと……それは、なんでしょう?」

「はい。本当に急で申し訳ないんですが――」

 ポン、と胸の前で手を合わせ、お願いするように、

「これから夜に行われる倉田家のパーティーで、ピアニストとして出ていただけませんか?」

「…………はい?」

 そんなことをのたまった。

 

 

 

 

 

集まれ!キー学園

五十七時間目

「麗しのピアノの旋律」

 

 

 

 

 

「……パーティーのピアニスト? 俺が、ですか?」

 確認の意味でもう一度聞く。いや、むしろ聞き間違いだったと思いたい。

 だが佐祐理は表情を変えることなく笑顔で頷き、

「はいー。実は事前に頼んでいた方が急遽来れなくなってしまいまして」

「それは、またなんで」

「はぁ、それがその方に先日日程なんかの調整のために電話をしたら、『千秋先輩はいまとっても大変なことになってるんですー! ぎゃぽー!』とかわけわからない女の人の声が聞こえて、以後音信不通なんです」

 なんじゃそら。

「代役を頼むにもパーティーは今日ですし……。そこでコンクールで優勝争いをしたという祐一さんに是非ともお願いしようかと」

「いえ、生憎ですがここ最近はホント趣味程度にしか弾いてないんでプロの代役なんて俺には勤まりませんって」

 これは事実だ。

 確かに昔はコンクールなどにも出ていたが、高校生になってからはせいぜい学園祭で弾いた程度のことしかしていない。

 だが佐祐理はそんな祐一の言葉を聞きはしない。

「だ〜いじょうぶですよ。祐一さんなら何も問題ありませんって」

「何を根拠にそんなこと……。倉田財閥の力を使えば当日だって代役くらい探せるでしょうに」

「まぁそうでしょうけど。でも佐祐理的には祐一さんのピアノを聴きたいんですけど……駄目ですか?」

 どうやら何を言っても引き下がる気はないらしい。

 いや、もともと倉田佐祐理という少女はそういう人間だということは知っていたが……。

 ともあれ、一ピアニストとしては練習もしていないのに公の場に立ちたくないという気持ちが強い。

 どうしたものか、と迷っていると、

「良いじゃないか。出ろよ祐一」

 肩を組んできた浩平が無責任な言葉を投げてきた。そんな彼を祐一は半目で見て、

「何をさもあっさりとそんなこと言ってんだお前」

「お前の腕前なら大丈夫だって〜。俺が保証してやるよ」

 浩平に保証されても、と反射的に返しそうになるが音楽に関しては浩平も十分プロ級の腕を持っている。

 耳は間違いなく良いので、簡単にそう返せないのは辛いところかどうか。

「ここ最近野球ばっかだし、気分転換みたいな感じで良いじゃないか。周りとか気にせず弾けば良い。お前だってピアノ嫌いじゃないだろ?」

「それはそうだけどな……はぁ」

 嘆息。これ以上拒否しても意味はないようだ、と祐一は諦めた。降参というように両手を上げた。

「わかったわかった、わかりました。やるよ。やれば良いんでしょう」

 投げやりだろうと何だろうとOKはOKだ。佐祐理は喜びに満ち溢れた笑顔を浮かべているし、浩平もうんうんと頷いている。

「ってことで倉田先輩。祐一の説得料として俺にもそのパーティーに参加させてタダで飯を食わせてください」

「あははー。寝言は寝てから言ってくださいー」

 一蹴された。

 企みを一言でぶった切られた浩平は打ちひしがれるように床に突っ伏した。……哀れな男である。

 そんな馬鹿を一瞥して、祐一は最終確認をする。

「でも佐祐理さん。それでパーティーに参加している人から不満や不評が出ても俺は知りませんからね」

「あははー、大丈夫ですよ。そんな心配欠片もしてませんから〜」

 またそういう台詞が飛び出した。

 もう知らない。どうなっても関係ない。勝手に信じたのは佐祐理だ。責任は持たん。

「後悔しても知りませんからね」

 そんな感じに開き直る祐一だったが、結局佐祐理は最後まで笑顔を崩さない。

「はぁ」

 なんでこんなことに、とも思うがキー学に転入して以来『平穏』なんて言葉は時空の彼方にすっ飛んでいっている。

 諦めが肝心か、と一人心中で頷いた。

 まぁとりあえず、あとは好きなようにやらせてもらおう。

 

 

 

 で、夜。

 時間を聞いてなかったんだがどうすれば良いのだろう、と電話をしようとした矢先に相沢家前にやたら車体の長いリムジンが到着。

 黒服たちに問答無用で連行されて倉田家に直行、現在裏門から入り倉田家の邸宅を見上げている状況である。

「相変わらずでかいなぁ、この家……」

 数える程度だが、祐一もここには来たことがある。

 しかし何度来てもこの巨大な家は慣れない。場違い的なものがただひたすらに感じられてしまう。

 しかも今日はパーティーがあるためか全面的にライトアップされており、その豪華さも常の数倍といった感じだ。

「あー、ホント。なんで俺ピアノ弾くなんて了承しちまったんだろうか……」

 今更になって後悔しても仕方ないわけだが、まぁそう思うくらいは許してほしい。

 とりあえず倉田家に入ろう。どうもパーティー用の衣装は倉田家が用意してあるらしく、それを着なくちゃならない。

 黒服たちに先導される形でやたら大きい倉田家の扉をくぐると、

「あ、祐一さん。お待ちしてましたー」

 あははー、と。何故か純白のウェディングドレスに身を包んだ倉田佐祐理がホール吹き抜けの階段を降りてきた。

「……は?」

 絶句、とはこのことだろうか。

 そりゃあもう、見違えようもなくそれはウェディングドレスだった。

 明らかに金を惜しまず使ってますという装飾品の類が散りばめられた豪華絢爛なドレスだが、それに佐祐理は全然負けていない。むしろそれだけの装飾品がただの引き立て役になるほど、佐祐理は綺麗で輝いていた。

 うん。それは良い。祐一だって男だし、多少は見惚れもした。

 だが冷静な祐一はそんな外見よりも内容、根本的に衣装がおかしいだろう、というそっちが思考の多くを占めていた。

「……あの、佐祐理さん。その格好はなんですか?」

「え? あぁ、これですか。これはですねー……」

 と佐祐理が何かを言おうとした瞬間、階段上の扉が「バタン!!」と激しい音と共に開け放たれ、一人の男が飛び出してきた。

「ええい、離せ! 俺はまだ結婚なんかしねーって言ってんだろうがぁ! なんだこの白いタキシードは! だぁ、離せてめー!」

 半裸で倉田家SPと格闘しているのは見間違えようもなく、岡崎朋也だった。

 それを呆然と眺めた後、ゆっくりと佐祐理に視線を移す。佐祐理はピン、と指を立てて、

「ほら、今日のパーティーは倉田家に縁のある方々が多数お目見えになるんですよー。

 ですから、どうせなら佐祐理の将来の旦那様になる朋也さんをこの機会に紹介しておくのも良いかなぁ、と思いまして♪」

「紹介で結婚する馬鹿がどこにいるー!!」

 絶叫した朋也とふと視線が合った。

 まずい、というように祐一はすぐ視線を外したが、もちろん朋也が彼を見逃すはずもない。

「祐一! 良かった! なんでお前がここにいるか知らないが、助けてくれ! 俺の人生最大のピンチなんだ!」

「いえ、これは朋也さんと佐祐理さんの間の問題なんで俺がとやかく言う筋合いは……」

「あ、お前!? 俺を見捨てる気か薄情者! そんなに佐祐理が怖いのかー!?」

 怖いに決まっている。

 この目の前でニコニコいつも通りの笑顔を浮かべている倉田佐祐理は、祐一が親を含めた親戚以外で唯一恐怖を抱く相手だ。

 基本直接的な言動が多い春夏秋冬四姉妹より、間接的に立ち回る佐祐理の方がよっぽど性質が悪いと祐一は思う。

 出来ることなら敵にしたくない一番の相手である。まぁそういうわけで、

「頑張ってください朋也さん。俺は草葉の陰から見守ってます」

「お前死んでないだろうがぁぁぁ……!」

 ズルズルと十人規模のSPに引きずられて扉が再び閉められた。

 防音仕様なのか、あれだけ騒がしかった騒音が一気に消えた。……その静寂が、一層恐怖を引き立てているような気がするのは気のせいか。

「まぁ朋也さんのことに関しては祐一さんは気にしないでください」

「ええ。全力で気にしません」

 気にしたら負けかなと思っている。

「それじゃあこちらの部屋に祐一さんの衣装を準備しています。案内しますね」

「……その格好でですか?」

「はぇ? 何か問題でも?」

「いや別に」

「そうですか。ではこちらに」

 にっこり微笑みドレスのまま進む佐祐理。

 一瞬上を見やり祐一は十字を切ると、その背中を追っていった。

 

 

 

 ちなみに祐一は終始スルーしていたが。

「ふぐー! ふぐー!」

 その広間にある飾りの銀甲冑が何故か終始ガタゴトと揺れていた。

 

 

 

 程なくして、倉田家主催のパーティーが開始された。

 倉田家の敷地内にあるパーティー用の巨大ホール。

 釣り下がるシャンデリアの輝きがホールを包み込む。立食式のパーティーで、至るところに豪華な料理の数々が並べられていた。

 裕福そうな空気や雰囲気を持つ参加者はそれらの料理に手をつけながらそれぞれ談笑を楽しんでいる。

 佐祐理もその中にいた。

 朋也に説得されたのか泣きつかれたのか、ともあれウェディングドレスではなく薄水色の清楚なドレスを着ていた。

 これだけの面子の中でありながらその存在感は一際輝いており、さっきから何人もの人物たちがひっきりなしに挨拶にやってきている。

 無論佐祐理もそれらをいつもの綺麗な笑顔で受け、談笑していた。

「こうして見ると、やっぱ別次元の人だなぁ」

 祐一はそんな佐祐理を眺めつつ、ホールの一番角でちびちびとノンアルコールシャンパンを喉に流していた。

 彼は佐祐理が用意した黒のタキシードに身を包み、髪もきちんと整えられていた。

 普通のネクタイではなく蝶ネクタイというのが気になるのか、しきりに首元を気にしているが、そんな動作が一々絵になっていてさっきから周囲の女性参加者がチラチラと彼のことを見ていることに当人はまったく気付いていない。

「ったく、酷い目にあった……」

「朋也さん」

 その隣に、疲れた様子の朋也が並んできた。さっき見た白のタキシードではなく、祐一同様黒になっていた。

「無事だったんですか」

「どうにかな。……っていうか祐一、お前さっき俺を見捨てたな?」

「男女間の諍いに首を突っ込むほど酔狂じゃないんですよ。そんなんで恨み買うの馬鹿くさいですし」

「ったく、純一といいお前といい後輩甲斐のないやつ……」

「後輩にそんなこと求めないでくださいよ」

 トレーの上にシャンパンの入ったグラスを乗せたウェイターから、その一つのグラスを取り朋也に差し出す。

 それを朋也は受け取り、小さく煽った。

「ん……、はぁ。ったく、飲まなきゃやってられないぜ」

「台詞が直球でオヤジくさいですよ」

「んなことはどうでも良いのさ。で、お前なんでこんなところにいるんだ?」

「聞いてないですか? ピアノの代行頼まれたんですよ」

 だが朋也は首を横に振る。

「それは聞いたよ。そうじゃなくて、ほら」

 と言ってステージの方を指差す。

「そろそろ時間じゃないのか?」

「え? ――あ」

 時計を見やれば、確かにそろそろプログラムで示された時間だ。あまりの場違いっぷりに思考がやや飛んでいたらしい。

「ま、頑張れ。期待してるからな」

 祐一のグラスを受け取り、行け、というように手を振る。

「あんま過度な期待はしないでくださいよ」

 そんな台詞を残し、祐一はステージに上がっていった。

 

 

 

『今宵のピアノ演奏者は相沢祐一さんです。彼は佐祐理様のご学友でもあり――』

 自分の紹介を舞台袖で聞く。そして会場のどよめきも祐一の耳には届いていた。

「相沢祐一……?」

「誰だそれ」

「新人?」

「っていうか高校生だろう? どうしてこんなパーティーで演奏なんて……」

 批難……とまではいかないが、それに近い言葉があちらこちらから聞こえてくる。小さな声であろうともこれだけ集まれば聞こえるものだ。

 とはいえ別段怒りはない。むしろ自身そう思っている。あまりに場違いだと。

 ……が、まぁやるからには全力でやろう。

 ここにいる連中全員驚かせてやるくらいの気持ちで。

「……ふっ」

 苦笑。結局こんなこと考える辺りまだまだ子供だな、とか考えて祐一はゆっくり踏み出した。

 袖から舞台へ堂々と進み出る。ライトに照らされながら祐一は静かに、しかし存在感を滾らせて椅子に座った。

 それだけで会場が静寂に包まれていた。

 音楽家には、見る者を黙らせ耳にのみ集中させる独特の空気というものがある。祐一もまた間違いなくそれを持ち合わせていた。

 一つ、深呼吸。

 曲目は自分で好きなのを選んで良いと言われている。なので祐一はこの曲を選んだ。

 これは……そう、昔ピアノコンクールであの鳴海歩と争ったときに演奏した曲。

 

 モーツァルト。ピアノソナタ第8番イ短調。

 

 一瞬の間を置き、祐一の指が鍵盤に触れた。

 音が響く。

 跳ねるように、ステップを踏むように指が動き回る。淀みなく、軽やかに、その指は旋律を生み出していく。

 どこからか驚嘆と感嘆の息がこぼれた。

 軽快なステップで祐一の指が鍵盤の上を舞う。流れる音は悲しみを表していた。

 モーツァルトのピアノソナタ第8番は3つの楽章で構成されている。出だしとなるこの第1楽章は悲しみが前面に出た流れだ。

 モーツァルトが母親を亡くした頃に作曲されたからか、悲壮感、そして緊張感が織り交ざった作りになっている。

 それを確実に祐一は表現していた。的確かつ素早い指使いもさることながら、音による表現力はまさにプロ顔負けであろう。

 ……第2楽章に入る。

 短調から長調に変わる。アルペジオによるゆったりとしながらも深みのあるリズムを忠実に弾きこなし、曲を盛り上げていく。

 この頃になると、既に聴いている誰もが祐一というピアニストを認めていた。

 誰もが聴き入って言葉一つ交わさない。食事にさえ手を出さない。音を聞き逃すまいとするかのようにただ静かに耳を傾ける。

 そして最後の第3楽章へ。

 再び短調へ戻り、形式もロンド形式へ転換する。第1楽章よりも曲の進行が早く最も難しい部分だが、やはり祐一は完璧に弾きこなしていく。

 モーツァルトの苦悩を表すような速いテンポと音符の羅列。それを音へ、そして旋律へと昇華させ聴く者へと届ける。

 それがピアニスト。それが演奏者。

 ならば彼は間違いなくピアニストだろう。いま彼の演奏は間違いなくこの場にいる皆の心を打っている。

 時に静かに、時に激しく、時に切なく、時に甘く。

 音が色を、感情を宿し、紡ぎ、訴える。祐一の指が生み出す旋律はまさにモーツァルトの『物語』そのものだった。

「――っ」

 ジャン、と。終わりを意味する音が響き渡る。

 静まり返る会場。演奏を終えたあとの独特の開放感に身を委ねつつ立ち上がった祐一がそれらを見据え、一礼。

 その途端、

 

 ――パチパチパチパチパチ!!

 

 爆発するような拍手が会場を覆い尽くした。

 

 

 

 こうして祐一の演奏はパーフェクトと言っても過言ではない成功を収めた。

 その後、

「君はピアニストになる気はないのかい! もったいない!」

「なんなら私が有名なピアニストを紹介しましょうか?」

 などなど質問やら何やらが押し寄せたため祐一はパーティーを途中で抜けることになった。

「ありがとうございます祐一さん。やっぱり佐祐理の目に狂いはなかったですね〜」

「音楽はよく知らんけど、良かったよお前の演奏」

 帰り際、佐祐理に礼を言われ朋也に称賛された。

 成り行きで始まった演奏会だったが、久しぶりの喝采は心地良かった。自分の演奏を認められる。あの瞬間こそ演奏家の醍醐味ではなかろうか。

 結局、最終的には、

「……ま、たまには悪くないか」

 落ち着くところに落ち着く相沢祐一であった。

 

 

 

 あとがき

 どーも、こんばんは神無月です。

 今回は祐一のピアノの話でした。以前からいつかやってくれとは言われてたんですが、ようやくって感じでしょうか。

 前回が前回だったので歩の話か、と予想した方もいましたが残念。まぁ彼はキー学のメインキャラじゃないですからねw

 でも今回も名前だけはチラッと出ましたけどね。

 さて、いかがだったでしょう?

 音楽を文章で表す、っていうのは相当難しいことです。楽曲を知っている人は良いんすが、知らないとこれほど難しいことはない。

 漫画では視覚的なエフェクトなんかでやれる部分もありますが、小説にはそんなんもないんでかーなり難しい。

 ……ま、少しは雰囲気が伝わっていれば幸いです(汗

 ちなみにモーツァルトを選んだのは個人的な趣味です。ベートーベンだとメジャーすぎるしリストとかでも良いかな、とも思ったんですけどね。

 クラシックは勉強のお供で、集中したいときはよく聴いてましてね〜。

 さて、次回は再び野球の話に戻ります。

 どうやら初の二話続きになるようですよ? っていうかまたぐかなw

 ではまた。

 

 

 

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