ゴールデンウィークも終わり、社会全体が元のペースに戻り始めた五月の半ば。

 しかし、その循環に対応できない者たちが少なからずいる。

 新しい環境が始まる四月、そこから続いていた緊張がゴールデンウィークで途切れ、そのまま戻ることができずやる気が出ない日々。

 そう、いわゆる五月病というやつである。

「かったりぃ……」

 そんな中、万年五月病みたいな男である朝倉純一は……しかしいつも以上にだるそうに自分の机の上で突っ伏していた。

 覇気がないというより既に生気がない。このまま放っておいたらまったく動かず餓死して腐るのでは、と本当に心配してしまうほどだった。

 周囲の面々もさすがにただ事ではないと思ってか純一に近付こうとしない。それほどいまの純一の空気はドロドロしていた。

「ちょっと兄さん!」

 だが、そんな空気を放っておけない少女がここに一人。

 もちろん妹の音夢である。

「……ん? 音夢か」

 声で音夢と気付いたようだが、身体は微々と動かそうとしない。

 そんな突っ伏したままの態度に音夢の眉間にビキ! と怒りマークが浮かび上がる。

「兄さん! もう少しシャンとしてください! なんですかこの教室を覆うようなグダグダ感は!」

「……と言われてもなぁ」

 純一としてはここ最近いろいろと災難が多すぎた。

 いや、キー学中等部時代もいろいろと不幸は降りかかったものだが、ここ最近の頻度はやばい。

 中等部時代は祐一の転入時期を考えれば、四天王が揃ったのはせいぜい数ヶ月の間だった。騒がしいピークもその数ヶ月だった気がする。

 朋也が、そして祐一と浩平が順に高等部に上がり、徐々に平和になっていったものだ。

 が、純一も高等部に上がり、再び四天王が揃ってからというもの、まるで必然というか連鎖反応のように立て続けにいろんなことが起きすぎた。

 本来その気晴らしになるはずだったゴールデンウィークもアレな状況だったわけで……。

 もうとにかくそんな感じで純一はより一層かったるいオーラを放出しているのだった。

 そんな純一の様子を見て音夢は嘆息。その一端を確実に担っているであろう音夢はその自覚は微塵もないまま兄を見下ろす。

「まぁ兄さんの気持ちもわからくなはいですけど……せめてもう少しどうにかなりませんか?」

「かったるい」

 即答だった。

「……じゃあ少しは気分転換でもしたらどうですか? 例えば日頃自分がやらないようなことをしてみるとか」

「……日頃自分がしないこと……ねぇ」

 思いつくのはパッと思いつくのは運動と勉強。だがその選択肢は脳内ですぐに霧散した。気晴らしになるはずがない。

 とすれば他に何が……と顔をあげぬまま周囲を見渡し、純一は誰かの席の上に置いてあった雑誌を見つけた。

 閃いた。

「……バイト」

「はい?」

「バイトでもしてみるか」

「……え?」

 目を点にする音夢。

 いや、無理はない。どこの誰が純一がこんなことを言い出すなんて想像できただろうか。いや、できまい。

 バイト→労働→かったるい。

 いつもの純一なら間違いなくそういうルートを辿ったであろう。だがどういうわけか今回の純一の思考はそうはならなかったらしい。

 音夢が純一の額に手を当てた。

「……これはどういう意味かな、音夢」

「い、いえ、熱でもあるんじゃないかと……」

 それだけ純一の言っていることは異常なことだということだ。

 

 

 

 

 

集まれ!キー学園

四十五時間目

「バイトやってみる?」

 

 

 

 

 

「――というわけなんです」

「ふーん」

 時刻は昼。つまり昼休み。

 純一は未だボーっとしている表情を見せながら、現在『3−E』の教室でパンを食べていた。

 正面でこれまでの純一の話を聞いていたのは朋也である。こちらも今日は佐祐理や杏のお手製弁当ではなく購買のパンだった。

「まぁでも確かに、いつものお前じゃ考えられない結論だよな。俺でも驚くし」

 競争率の極めて高い一品である焼きソバパンを食べながら、朋也は笑う。

 そんな反応に純一は面白くなさそうに口を歪め、

「たまには勤労ってのも良いかな、と思っただけなのにすごい言われようっすね」

「でも事実だろ?」

「……まぁ、そうですけど」

「まぁそれはともかく、だ。で? お前は俺に何を言いに来たんだ? 別にそんな愚痴を言うために来たんじゃないんだろ?」

「ええ。ほら、朋也先輩バイト経験あったでしょ? 俺の周り、あんまりバイト経験者いないから」

 なるほど、と朋也は納得した。確かに祐一や浩平もバイト経験はなかったはずだし、そういうことならわかる気もする。が、

「経験者とは言っても、俺の場合短期バイトだぞ? 冬休みに郵便局で年賀の配送してただけだし」

「あ、郵便局だったんですか」

「そ。だからバイトの相談をされても俺にはなんとも……あ、そうだ。バイトに詳しい人間に一人心当たりがある」

「マジっすか」

 いるかな、と呟きながら朋也は周囲に視線を向ける。と、目当ての人物を見つけたようで朋也はゆっくり手を上げた。

「おーい、ツキー。ちょっと良いかー?」

「んー?」

 振り向いたのは一人の女子だった。もう昼食は取り終えていたようで、別の女子と談笑しているところだった。

 一言二言交わし、ツキと呼ばれた少女がこちらに近付いてくる。

「どうしたの? 朋也くんから呼ぶなんて珍しい」

「いや、ちょっとお前の力を借りたくて」

「私の?」

 頷き、朋也は純一に視線を向ける。

「多分知ってるとは思うけど、こいつは朝倉純一だ。で、純一。こいつは杉山ツキ。バイトの王者だ」

「いや朋也くん。その紹介はどうかと……私何者よ」

「一番わかりやすい説明かと思ったんだけどな?」

 納得できないんだろう。うーん、と唸るツキ。嘆息し、視線を純一に移してきた。

「まぁそれはともかく……君が朝倉くんかぁ。噂じゃよく聞くけど……間近で見るとやっぱり良い男だね〜」

「はぁ、どうも」

「なんだツキ。惚れたか?」

「ばーか。格好良い男に一々惚れてたらキー学じゃやってけないわよ」

 真理である。

「で? 結局私が呼ばれたのはどんな理由?」

「あ、そうだった。純一がバイト先を探してるんだよ。で、お前の助言が欲しくてな」

 へぇ、とツキは純一を見る。

「なんでまたバイトなんか?」

「気分転換です」

「面白い動機だねー。でもま、手伝えることなら手伝うよ」

 話が長くなりそうだと考えたのだろう、ツキは近場で誰も座ってない椅子を引き寄せると机の側に置いてそこに座り込んだ。

「で? なんか希望はあるの? こういう仕事がしたいとか、条件とか」

「条件……」

 しばらく考え込んでいた純一が、一言。

「動かなくて良いもの?」

 無言でツキに殴られた。

「労働をバカにしてんのか――っ!?」

「お、落ち着けツキ! 純一もきっと冗談だったんだ! 多分!」

 止めておいてなんだが朋也も純一が割かし本気で言ったのであろうことは悟っていた。

 だがいまの一言でツキの中のスイッチを押してしまったらしい。

「……良いわ。なら私が決めてあげる」

 先ほどまでの優しそうな笑みとは180度違う……不気味な笑みを携えてツキは立ち上がった。そして純一を指差し、

「放課後空けておきなさい。君に労働のなんたるかを教えてあげるから。フフフ」

 ゴゴゴゴゴ、と背中に炎が燃えている。

 もしかして人選間違えたか、と思い始めた朋也とまた面倒ごとに巻き込まれるんじゃないか、と嫌な予感を感じる純一であった。

 

 

 

 で、放課後。

 ホームルームが終わるや否や、待ち構えていたツキに半ば引きずられるように純一は牽引されていた。

「あのー、杉山先輩」

「ツキで良いわよ。杉山ってありきたりで好きじゃないの」

「はぁ、じゃあツキ先輩。これからどこへ?」

 純一は行き先も聞かされず、さっきからずっとツキに引っ張られて現在に至っている。

 いまは既に学園を出て、このまま行けば商店街に差し掛かろうかというところだ。

「決まってるじゃん。バイト先よ」

「え? でも俺履歴書とかまったく用意してないんですけど……」

「いらないわよそんなの。私が一緒にいれば顔パスで通るわ」

 断言した。というか良いのかそれは法律的に。

「……で、ちなみにどんな仕事を?」

「とりあえず一通り」

「そうですか。一通り……って、え?」

 聞き間違いだろうか。そう思ってもう一度訊ねるが、答えは同じだった。

「だから一通りよ。言ったでしょ? 君に労働のなんたるかを教えてあげるって」

「あの……それは一体どういう?」

「だからいろんな仕事を片っ端から体験すんのよ。それで君がこれだと思うバイトを始めなさい。私はその橋渡し役。

 時間は有限だから……そうね、三十分ごとに店変えるわよ」

「はぁ!? 三十分!? そんなんじゃ仕事覚えた頃には移動じゃないですか、そんなんじゃわかりませんって!?」

「大丈夫。仮にも四天王なんだから、なんだかんだ言って大抵のことはこなしちゃうんでしょ? さっさと行くわよ。最初は喫茶店よ!」

「え、あ、ちょ!?」

 反論はまったく意味を成さず、結局純一はツキに引っ張られるまま喫茶店へ向かうこととなった。

 この辺りから、ようやくバイトをしてみようなんて言うんじゃなかった、と後悔し始めたところだった。

 

 

 

 さて、一軒目のバイト先は喫茶店である。

 ツキが言うとおり、本当に顔パスで通り純一は三十分だけこの喫茶店でウェイターの仕事をすることになった。

「あぁ、ツキくんの推薦なら安心だね。じゃあ体験ってことで働いてもらおうかな」

 人の良さそうなマスターはどうやらツキに絶対の信頼を置いているらしい。

 そんな簡単に新人を使って良いのか、と純一は思ったがこうなってしまった以上やるほかにない。それに最初に言い出したのは自分なのだから。

 けれど、

「ほぉ」

 マスターの感嘆の呟きが響く。

 純一がウェイターを始めてからまだ十分。しかし、店内はにわかに活気付き始めていた。

「いらっしゃいませ。メニューをお持ちしました」

「あ、はい……」

「お決まりになりましたらお呼びください」

 一礼して下がっていく純一を、ポーッとした表情で女性たちが見送っていく。

「……やっぱ四天王は伊達じゃないなぁ」

 無理もない、とツキは思う。キー学に通い『良い男』というものを見慣れたツキでさえ見惚れてしまうのだから。

 正直に言って、純一のウェイター姿はめちゃめちゃ似合っていた。

 笑顔を振りまいているわけではない。愛想が良さそうに見えるわけでもない。

 けれどその類稀なる容姿と、どこか落ち着きある雰囲気、そして要所要所で見せる控えめな笑みが人を惹き付けて止まなかった。

 しかも動きに無駄がまったくない。ツキは基本動作を教えただけだが、その基本を忠実にこなす上に自分で考えて行動さえする。

 客の入りが止まったら会話の邪魔にならないようにそっとコーヒーのお代わりを訊ねたり、テーブルを拭いたりするタイミングも完璧だった。

「凄いねぇ。ツキちゃんも最初からなんでもこなせたけど、彼もかなり。さすがツキちゃんの推薦だ。このまま勤めて欲しいよ」

「女性客も喜んでますしね」

「ツキちゃんのウェイトレス姿を見て男性客も喜んでくれたしねー。君が戻ってきて、その上あの子も来てくれたら最強だなー、うちは」

「……私はまぁともかく。でもまだ決まったわけじゃないですからね?」

「あぁ、わかってるよ。でも彼が欲しいと意思表明はしておくよ」

 はっはっは、と笑うマスター。まぁ確かにアレなら即戦力間違いなしだろう。

 そうして時間は経過していき、

「さて、と……」

 そろそろ三十分。心なしか女性客が増えてきたような気もするが、時間は時間である。

「朝倉くん。そろそろ」

「あ、はい」

 純一が奥へ下がるのを見て、何人かの女性客から落胆の溜め息が聞こえてくる。それを横目で見て、ツキは苦笑。

「なんか、こっから先の展開も読める気がするな〜」

 そう呟いて、ツキもまた喫茶店を後にした。

 

 

 

 さて、結果的に言えばツキの予想は正しかった。

 喫茶店を含めこれまで七つの店を梯子したのだが、そのどこででも純一は常人以上の働きと、女性客の引き寄せを果たした。

 料理などの技術系だけは最初こそ戸惑ったが、それも五分程度の話。それを越えればツキもかくやというほどの上達振りを見せ、テキパキと与えられた仕事をこなしていく。

 体験として純一を受け入れてくれた店主は揃いも揃っていつでも純一を正式雇用すると宣言したほどだ。

 いや、もうまさにパーフェクト。文句の付けようもない。

「やっぱ違うねー四天王。私ゃ驚きだよ」

「はぁ、そうですか」

「気のない返事ねー? 褒められてるんだから素直に受けるのが可愛い反応よ?」

「いや、そりゃそうかもしれませんけど……」

 純一は納得いかないようなジト目でツキを見る。

「ん? なにかな?」

「いえ、三十分とはいえ俺の働いた分の給料はどこに消えたのかなー、と」

 ビクン! とツキの肩がわずかに揺れた。

 数秒後、無駄に朗らかな笑顔を浮かべたツキがポンポンと純一の肩を叩き、

「やーもー、何言っちゃってるのかなー朝倉くんは〜。これ、体験なんだよ? そんなお給料なんて……ねぇ?」

「ほう。ではその後ろポケットからはみ出ている茶封筒はなんですか?」

 ツキ、硬直。で、すぐさま踵を返し、

「さぁ、もう一ついっとこーかー。これで最後ね」

「それで誤魔化しているつもりですか先輩」

 ガシ! と肩を掴まれて観念したのか、ツキは振り返ってぺろっと舌を出す。

「もー、ちょっとした茶目っ気じゃーん?」

「そんなペ○ちゃんみたいな表情しても誤魔化されませんよ」

「むー。まぁ仕方ないか。でも仲介料として半分は貰うからね?」

 せこ、と思ったが純一はそれ以上は何も言わなかった。とりあえず仲介をしてくれていたのは確かなので、甘んじて受け入れたのである。

 さて、そんなこんなで一悶着ありつつも、本日最後の体験としてある店へとやって来た。

「……」

 で、その看板――というか書かれた店名を、純一は呆然と見上げていた。

 まさか最後のバイト先がここになるとは、純一も驚きだったに違いない。

 何故ならその名は……、

「百花屋……って、まさか……」

「そ。キー学に通う人間ならおそらく知らない者は誰もいないであろうデンジャー喫茶店よ〜」

 喫茶・百花屋。

 ツキの言うとおりキー学生徒でこの店を知らぬ者はまずいまい、というほどの有名店である。

 出てくるケーキは上手い上にリーズナブル。フリードリンクも良心的な価格だし、内装も華やか。確かに人気になるのも頷けよう。

 だが、この程度では『誰もが知る』というレベルにはなりえない。

 ならばその理由はなんであるか。

「喫茶店なんてカテゴリーをバカにしているとしか思えないなんでもありっぷりは破天荒なキー学生徒にはど真ん中ストライクっぽいわね〜」

 そう。まさにツキの言うとおりである。

 ここのマスター、とんでもないチャレンジャーなのだ。

 客から要望があれば無茶っぽいことでも現実にしてしまうとんでも店主。

 おかげで。

 喫茶店なのにラーメンがあるし、ステーキがあるし、寿司がある。夏になれば冷やし中華を始めるし、冬になればおでんも出る。

 喫茶店なのに酒は完備。ダーツやビリヤード台まであり、小さめとはいえ多目的ステージまで存在する。

 喫茶店なのにカラオケ器具もあれば、二階に上がればマンガ本もあるしネットが使えるパソコンまである。

 喫茶店なのに、三階に上がれば簡易宿泊施設まである始末。

 まさに混沌。何を目指したいのかまるでわからない、そもそも喫茶店と名乗ることさえおこがましいデンジャーゾーンと成り果てていた。

 だが、その甲斐あってか終日百花屋は盛況にあるらしく、中でもキー学生徒には近場であることもあってかすこぶる評判の店であるのだとか。

 純一自身も数回だけ来たことはあるが、あれだけ物を詰め込んでおいてよく内装がおかしくならないなと感心してしまうほどだ。

「でまぁ、あまりにいろんなところに手を出したせいか人手がいるっていうのよね」

「そりゃあ……そうでしょうね」

 食品関係に絞っただけでもレストラン顔負けの品揃えだ。初期の頃はマスター一人でやっていた、というのがむしろ信じられないくらいだ。

「とはいえ、ここには私含めキー学生徒も何人かバイトに来てるし、いまとなっちゃあそれほど早急に人手が欲しいってわけじゃなさそうだけど」

「キー学生徒?」

「うん。もしかしたら朝倉くんが知っている人もいるかもしれないわね。んじゃ、行こうか。もう話は通してあるし」 

 そう言ってツキは正面のドアではなく裏に回っていった。スタッフ用の入り口でもあるのだろう、と純一もそれに続く。

 細い道を進んで、ゴミなどの入ったポリバケツの間に質素なドアがあった。

「ささ、どうぞどうぞ〜」

 まぁスタッフ用の入り口なんてこんなもんだろ、と特になんの躊躇もなく促されるままに足を踏み入れて、

「……?」

「……なっ」

 視線が合った(、、、、、、)

 どうも、入ってすぐに従業員のロッカーになっているらしい。

 そこにはいままさに――フリフリのウェイトレス衣装を着ようとしている少女がいた。

 そう、まさに途中。手にはウェイトレス衣装を持っているものの、少女自体はブラにパンツにニーソのみ、と狙ってるんじゃねぇかと疑いたくなるくらい完璧なバッドタイミングだった。

 しかも純一はその相手を知っている。

「あ……まの……?」

 そう、天野美汐。巫女部所属でありつい一週間ほど前のゴールデンウィークには裏生徒会候補として一緒にもなった相手。

 その着替えに、何故かバッタリエンカウントしてしまっていた。

 突然のハプニングに体が硬直してしまった純一とは裏腹に、美汐はあくまで冷静かつ無駄のない動きでウェイトレス衣装を抱きかかえて身体を隠すと、一言。

「……とりあえず朝倉さん。あっちを向いてくださると助かります」

「な、あ、悪い!!」

 向くだけに留まらず一旦外へ逃げる純一。それを見て疑問を感じたツキがロッカーを覗いて、ようやく真意を把握したらしい。

 真っ赤になった純一の肩に手を置いて、

「や、悪い悪い。この時間帯、ちょうどシフトチェンジの時間なの忘れてたよ」

「そういうのは忘れないでください……マジで」

「そうね。反省する。でも……」

 と、何処か邪悪な笑みを浮かべ、

「朝倉くんって意外とウブなのね〜。他の四天王じゃ決して考えられない反応〜♪」

「〜〜〜っ!」

 この人は苦手だ! 苦手なタイプだ! と純一は心中で叫んだとかなんとか。

「……もう結構ですよ」

 恐る恐る振り返れば、既にウェイトレス姿に着替えた美汐が立っていた。

 黒を基調に白のエプロンで身を包んだ、ごくごく平凡な衣装だ。まぁ若干フリルが多めかつスカート丈が短い気がしないでもないが。

「あー……その、悪い。覗く気はなかったんだが……」

「別に良いですよ。朝倉さんがそういうことをする人間じゃないことはわかっているつもりですし、鍵をかけておかなかった私の不注意でもあります」

 淡々と事実を告げる美汐に、むしろ純一の方が驚いてしまう。

「……許して、くれるのか?」

「許してもらいたくないのですか?」

「い、いや! そんなことはないんだが……」

「でしたらどうぞ、着替えを済ませて仕事に入ってください。杉山先輩に連れてこられたということはバイトをしに来たのでしょう?」

「あ、コラ美汐。私のことはツキって呼びなさいって何度も――」

「では、私は先に行きます」

「あ、ちょっとー!」

 結局そのまま立ち止まることなく美汐はロッカールームを出て行った。

「うーん……相変わらずクールというかなんというか……まぁそれが美汐の利点というかキャラな気もするけど……。

 ま、いっか。美汐の言うことも事実だし、それじゃあさくっと着替えましょうかね。そしたらマスターに紹介して、バイトを始めましょう」

「あ……はい」

 言われるままに頷いてロッカールームに入った純一だったが……はたと気付いて足を止めた。

「どしたの?」

「いえ、ここで着替えるんですよね?」

「そうだよ?」

「……なんでツキ先輩まで一緒にいるんですか?」

「なんでって、私もこれからバイトだからよ? 着替えなくちゃいけないじゃん」

「……着替える気ですか? ここで?」

「んー?」

 というか既にツキは上着に手をかけていた。

「って人の話を聞け――――!? なにをさも当然のように男の前で着替えようとしてんですか!? 羞恥心ってもんがないんですか!?」

「別に露出狂ってわけじゃないけど、まぁ朝倉くんなら別に良いかなー、って。っていうか……ふふ、本当に予想通りの反応してくれちゃうのね。

 やだ可愛い。なんか私、変な方向に何か目覚めちゃったかも?」

「そんな覚醒はいりません! ともかく俺は一旦外に出て――」

「あら、女の子が着替えてる最中にドアを開けるなんて非常識なことしちゃうの?」

「男の前で平然と着替え始めてるあんたは非常識じゃないのかぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 で、五分後。

「つ、疲れた……。今日で一番疲れた……」

 同室での着替えという苦難を乗り越えて、純一はひどく憔悴しきった表情で厨房から出てきた。

 現在、ツキに連れられて調理の真っ最中だった百花屋のマスターに挨拶をしてきたところだ。

 先程の騒動のせいで若干冷静さを欠いていた純一だったが、マスターはそんな純一に豪快な笑みを見せてよろしく、とそれだけ言って仕事に戻った。

 豪放磊落とはこのことだろうか。元々は女性向けの喫茶店として始まった百花屋のマスターとは思えない人物だった。

「んじゃ、私は今日は厨房だからフロアよろしく。手順としては一番最初の喫茶店と同じだけど……まぁ席番号やらなにやらは美汐に聞くと良いよ」

 ってことでツキはそのまま厨房に残った。マジで純一の目の前で着替えて(もちろん純一は頑なに見ようとはしなかったが)おきながら、平然とした素振りのツキにもう純一はげんなりとするしかなかった。

 とりあえず純一はフロアに出る。

「へぇ……」

 既に時刻は午後七時を少し過ぎたくらいの時間帯である。

 が、百花屋は繁盛しており、待ちの客までいる状態だ。

 純一が以前来たときは学校帰り……大体五時くらいのものだったが、そのときとは客の様子がかなり違う。

 あのときは中〜高校生がメインであったのに対し、いまは大学生から社会人といった客層に変化していた。

 なるほど。これだけバラエティに富んだラインナップを持つ店であれば、客層も多種多様、時間によって変わっていくのも頷ける。

「ボーっとしている暇はないですよ、朝倉さん」

「天野……」

 食器を下げるところらしい美汐が純一の横を通り過ぎていった。

 そのままお盆と一緒に食器を下げると、再び純一のところまで戻ってくる。

「見ての通り人手はかなり必要です。フロアとはいえ、ここの客はひっきりなしに押し寄せてきますから動きも並じゃありません。

 朝倉さんがどういう経緯でバイトをしてみようと思ったのかは知りませんが、ともかくやると決めた以上は戦力になってもらいますよ」

「お、おう」

 さっきの一件があったせいか美汐を正面から見れない純一。

 でも美汐はそんなこと感じさせないほどに冷静に話しかけてくる。それが、純一にとってかなり疑問だった。

「ではまずテーブルの配置を覚えてもらいましょう。まぁ朝倉さんなら一度で覚えられるでしょうから、この辺りは楽ですが――」

「な、なぁ天野。その前に一つ聞きたいんだが」

「なんですか?」

「……お前、よくあんなことあったのに平然としてられるな?」

「――」

 瞬間、美汐の雰囲気が変貌した。

「天野? ……って、イタタタタタ!?」 

 唐突に足をつねられた。思いっきり。手加減なしに。

 で、その犯人であるところの美汐は若干視線を逸らし、顔をほのかに赤く染めていた。

「……事故だってわかってても恥ずかしいものは恥ずかしいです。けどそれを一生懸命にスルーしようとしている私の配慮をどうして理解してもらえないのでしょう」

「ご、ごめんごめん! 悪かった!」

「本当に悪かったと思ってるのでしょうか。疑念が晴れないのですが」

「すいません野暮なことを聞きましたもうその案件については一切触れない方向で善処しますっ!」

「……はぁ」

 手が離される。いや、正直めちゃめちゃ痛かった。どれだけ指の力があるのかと訊ねたくなったが、そんなことしたら今度は拳が飛んできそうなので止めておいた。人間には学習能力というものがある。

 が、美汐はそれだけでは収まらなかったらしい。

「とはいえ、巫女とは神聖でなければならぬもの。その裸を見たとあればそれ相応の責任は取ってもらわなければなりませんね」

「え……だってさっきは事故だから別に良いって……」

「気が変わりました。朝倉さんがあまりの配慮なしなので私も遠慮なしにいきたいと思います」

 美汐の目が怖い。

 純一は何を言われるか身構えて、

「まずはバイトをしましょう」

 けれど、宣言されたのはそんなこと。

「え……それだけ?」

 なら安心だ、と思ったのも束の間だった。

「ええ。クローズまで」

「クローズまで……って、えぇ!?」

 まだ約三時間もある。高校生が働ける限界一杯の時間だ。

「ええ、その三時間の間、ここの先輩として思う存分こき使ってあげましょう。あ、それとも何かご不満でも?」

 フフフ、と笑って見せる美汐。

 日頃あまり笑わない人間の笑みはとんでもなく怖いものなのだと、純一は身を持って理解した。そして、

「朝倉さん。返事は?」

「……イエス、マム」

「よろしい。では参りましょう」

 そうして美汐先導のもと、純一は百花屋という戦場へ降りていった。

 

 

 

 で。

 以降、純一はまさに宣言通り美汐にこき使われ、一階から三階を何度も往復し人の数倍以上の働きをして見せた。

 これには百花屋のスタッフも大満足で、結局純一はこの百花屋でバイトを正式に続けることとなった。

 しかし、バイトを決めた本当の理由はもちろん……。

 

 

 

「あ、バイト続けることに決めたんですか。そういうことなら、これからも先輩としてしっかりと教育して差し上げますよ、純一(、、)さん?」

「よく言うよ。ほとんど強制だったくせに。……ま、できるだけお手柔らかに頼むよ、美汐(、、)

 と、そういうことらしい。

 

 

 

 あとがき

 はい、ってなわけでこんにちは神無月です。

 さて、久々にちょろっと長くなった今回の話。どうでしたでしょう。

 二度目の登場であるツキや、最近出番の増えてきた美汐などなどにスポットが当てられたのではないかと思います。

 純一も正式に百花屋でのバイトが決まり、以降もここを舞台にした話はチラホラ出てくることになるでしょう。

 もちろんここに勤めている他のキャラもいますよ?w

 で、次回は衣替えの話。これでやっと中身は6月に突入です。

 ではまた〜。

 

 

 

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