針は巻き戻る。
未来へ未来へと時を刻み続けた針は、過去へ過去へと巻き戻る。
戻り戻りて、針が辿り着いた時代は約二年三ヶ月前。
そこは彼が飼い犬だった時代。
遡った時の先で語られるのは、一つの出逢い。
そう、これは……
心の温もりを取り戻した狼と、心の温もりを持たぬ少女の出逢いの物語――……
―約二年三ヶ月前・ルーベルシティ―
月明かりがかろうじて照らす人気の無い路地を一人の男が息を切らせ、何度も転びそうになりながら逃げるように走る。
「はぁはぁはぁ!! く、くそっ! こんなところで、死ねるか!!」
そう叫びながら路地を走り角を曲がるが、足元にあった空き缶に足を取られ、転倒。
男は悪態を付きながら身を起こすが、耳に誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。
バッ、と勢いよく顔を上げて、足音が聞こえてきた方に目を向ける。
そこには感情のない眼でこちらを見ている金髪の少女が立っていた。
「!? な、なんだ、ガキかよ。脅かしやがって……おい、ガキ! そこをどき――」
男は一瞬驚き安堵の溜息を吐くと、少女に怒鳴り散らす。
だが、それを遮るかのようにドスッ、と何かを貫く音が男の聴覚が捉えた。
「――な……って、ドスッ?」
男が驚いた顔で視線をゆっくり下げ自分の体を見ると、そこには刃幅10cmほどの包丁状の刃が腹部に突き刺さっていた。
血が刃を伝って腕を濡らし、まだ暖かいそれが地に滴り落ちる。
「う……ぐあ……」
少女は腹部に突き刺さった刃を捻り男から引き抜き、男の身体はその場に崩れ落ち二度と帰らぬ身となった。
「……わたし……おになの……」
少女は死体にそう言い、踵を返しその場を去った。
その場に残ったのは、息絶えた男の死体と少女の瞳から零れ落ちた、雫――……
右手には野菜などが入った袋を持っている少女――坂上智代がカンカンと音をたてる四階建てアパートの鉄の階段を上がって三階の右隅にある部屋の前に立つ。
智代はドアをノックするが、何の反応も無い。
「まだ、早すぎたか?」
左腕に付けた腕時計に目を落として、時刻を確認する。
時計は7時40分を表示していた。
少し待とうと思いながらも、ドアノブを回してみると、ギィッと音をたててドアは開いた。
「カギ掛けてないのか? 無用心な」
そう呟き、靴を脱いで廊下に足を踏み入れる。
玄関から居間に続く廊下は二メートルほどで、その途中に右手に風呂場、左手にトイレに通じるドアがあった。
その廊下を抜けるとキッチンを備えた居間に出、奥にもう一つの部屋に通じるドアは寝室に繋がっている。
智代は寝室を一瞥するとキッチンに行き戸棚などを開け道具や調味料があるのを確認すると、持参したエプロンを着けて朝食の準備を始めた。
「現時刻〇七五八。作戦開始まであと〇〇〇二」
四階建てのアパートの屋根まで届く大きな木の前に立っているリュックを背負た少女――芳乃さくらが左手の腕時計に目を落とし、時間を確認する。
くりっとした碧眼に長い金髪を青のリボンでツインテールにして纏めている。
服装は赤いジャンパースカートと、たっぷりギャザーをとった白いワンピースのアンサンブル。
背丈はかなり低く140cm程で、ぱっと見たところ年齢は10歳ほどに見えるのだが信じがたい事に祐一と同じ14歳なのだ。
祐一同様、ヴァルハラに所属し円卓の騎士の第8の騎士で、魔女のような冷酷さと子供のような無邪気さで標的を抹殺することから『鉄血の魔女』のコードネームを持つ。
「カウント開始。五、四、三、二、一……作戦開始!!」
地面を蹴り上げ、目の前の木に疾走し枝に手をかけスルスルとサルのように上っていく。
祐一が寝泊りしている部屋の窓をノックもせず乱暴に開け、窓の側にあるベッド目掛けて飛んだ。
「ひっさーつ! ジャンピング・寝込み踵落としぃぃぃ!!」
気配を感じ目を開くと、手をついて跳ね起きつつ、飛び掛ってくるさくらのボディに脚を突き刺し、そのまま反転してさくらをフローリングに落とす。
【御神流・猿落とし】
フザケた名前ではあるが、本当にこういう技なのだ。
「うにゃ〜」
奇妙なうめき声を上げながら、さくらはフローリングの上で目を渦巻きにして気絶していた。
作戦失敗。
「ふぁ〜……誰かと思ったら、さくらか」
頭を掻きながら未だ気絶中のさくらの頭を蹴っ飛ばす。
「いったぁい! 祐一くん何も蹴ることないじゃんか!」
「うっせぇよ。大体なんで人の寝込みを襲ってきた? 嫌がらせか?」
「そんなワケないよ〜。ただまことさんから祐一君が随分変わったって聞いたからホントかどうか試したのだ!」
ニッコリ笑ってVサインを見せるさくらに対して祐一は鼻で軽く笑ってやった。
「ハッ。くっだらねェ」
「にゃはは……」
顔を顰めた祐一とは対照的に嬉しそうな笑顔を浮かべるさくら。
まことの言うとおり確かに変わったとさくらは思った。
寝ていても常に警戒は怠らず、どんな攻撃にも素早く反応し対応できるというところは変わらない。
変わったのは迎撃方法だ。
少し前の祐一なら攻撃してくるものは老若男女問わず条件反射で撃ち殺していた。
さくらも一度撃ち殺されかけたという実体験がある。
だが今回は殺傷力が格段に落ちた蹴撃という方法で迎え撃たれた。
この事から見ても分かるように祐一は確かに変わりつつある。
さくらもそれが嬉しく思い笑顔を浮かべているのだ。
「にしても久しぶりだな。さくら」
「そだね。大体半年振り、かな?」
「それぐらいだな」
さくらは今まで任務でこの街を離れていた。
ヴァルハラに属する者は世界中に点在している支部が置かれている街にいる。
大抵は任務で移動しないかぎりその街にいるのだが、中には世界中を旅するように移動している者も少なからずいる。
さくらはこのルーベルシティに祖母の残した家があるので、任務以外でこの街から離れることはない。
逆に祐一はアパート暮らしなので離れようと思えば離れられるが、荷造りとかが面倒臭いらしくずっとこの町で暮らしているのだ。
「それより戻ってくるのに随分時間が掛かったな」
「うにゃ? もしかして祐一くん心配してくれてたの?」
「する必要がどこにある」
間髪入れずに切り捨てた。
こういう淡白なところは相変わらず健在のようだ。
「祐一くん冷たいよぉ〜。友達なんだよ? 少しくらい心配したって言ってくれてもいいじゃん」
「で、何で遅かったんだ」
「うっわぁ! 祐一くんが無視したぁ!」
子供のように手をブンブン振り回して叫び出すさくらに思わず溜め息をつく。
見た目が子供なのでその行動には全く違和感がない。
しばらく手を回していたさくらだが、その行動がピタリと止まったかと思うといきなり鼻をクンクンさせながらドアの方を振り返った。
「ま、それはいいとして。祐一くんは料理してたの?」
「お前アホか? 俺は今まで寝てたんだぞ、料理なんてできるワケねェだろーが」
「ボク祐一くんよりは賢いよ。IQも180と高いし」
さり気なくではなくダイレクトに自分の頭の良さを自慢するように言った。
「それもそうか。で料理がどうかしたのか?」
何か言い返してくると思ったが、アッサリと自分の意見を認めた祐一に少しばかり毒気が抜かれた。
それと同時に祐一は頭の良し悪しなんて興味がないコトを思い出した。
仮に言い返してきても言い負かす自信があったのだが。
「なんか、お味噌汁の匂いがするんだけど……」
「味噌汁? 一体誰が作ってんだ?」
ベッドから降りてさくらと一緒にキッチンに向かう。
そこでは、一人の少女がエプロンを付けて料理をしていた。
「……智代じゃねェか」
「うにゃ? 祐一くんの知り合いなの?」
「あ? さくらは会ったことなかったか。あいつもヴァルハラの人間で、円卓の騎士予備軍だ」
「へぇ」
二人の会話が耳に入ったのか、智代は二人の方に視線を向ける。
「ん? ようやく起きて来たか。すぐできる。座って待っていてくれ」
まるで、新婚夫婦のようなことを言って来る智代。
「智代」
「なんだ?」
「なんで俺んちで料理してるかはひとまず置いとくとして、だ。どうやって家に入った?」
「そのことか。祐一、玄関のカギ開いていたぞ。いくらなんでも無用心すぎる」
「あ? カギが開いてた?」
アパートのチェーンロックは壊れていて使い物にならないことは祐一も知っている。
だからカギの方は上下とも閉めていると祐一は思っていたが、実際にはカギは回るがカンヌキはかかっていないのに気づいていなかった。
「そうだが……」
「祐一くん。部屋の窓もそうだけど、玄関のカギも壊れてるよ」
「マジ?」
「うん。気づかなかった?」
「気にしたことが無かった。ま、いいか」
直すとは言わず、すんなり諦める祐一。
別段、自分の家が泥棒に入られても取られて困るものなんてないに等しいのだ。
仮に入られたとしても、入った奴が始末されるのは間違いないだろう。
「にしても、まさかメシを作りに来るとわな」
「祐一、女の子が朝食を作りに来てくれる。これはなかなか幸運なことだと思わないか?」
「そうなのか?」
智代とさくらの顔を見回して訊くが、その発言を聞くと二人は揃って溜め息を吐いた。
それを見てますます意味が解らなくなった。
正常な男なら美少女が朝飯を作りに来てくれれば喜ぶのが普通なのだが、やはり祐一は世間一般の青年男子の知識――欲望――が足りないようだ。
「でも、ま。ありがとな、智代」
余り得意ではない笑みを浮かべて智代に礼を言った。
「き、気にするな。私が好きでやってることだ……そ、そうだ。君も食べるか?」
頬を赤く染め誤魔化すように言った。
「ボクはいいよ。帰ってくる途中で食べてきたから」
それを聞くと、食卓に祐一と自分の分の朝食を並べていく。
それを見ながら、祐一が席に腰を下ろし、その隣にさくらが座る。
朝食を並べ終えた智代は祐一の前に座った。
二人の前にはご飯と味噌汁、焼き魚やサラダが並べられている。
二人揃っていただきます、と声を揃えて言って、祐一は軽く味噌汁を一口啜る。
「………美味い」
素直な感想に智代が嬉しそうに一心不乱に食べている祐一に微笑む。
「ありがとう。祐一にそう言ってもらえると嬉しい」
智代の言葉に祐一は頭に疑問符を浮かべたが、さくらにはその理由がすぐに分かった。
(そっか。理由は知らないけど智代ちゃん、祐一くんの事が好きなんだ。でも、気づいてもらえないんだろうねぇ。祐一くん恋愛とかそういった事に興味無いから)
この頃の祐一は恋愛感情とかそういった感情に無関心。
と言うよりも恋愛に限らず興味の無いものにはとことん無関心。
それでも人を殺すこと以外に興味がなかった頃に比べたらこれも対した進歩といえよう。
「なんで俺にそう言われたら嬉しいんだ?」
「うっ。き、気にするな。只、何となくだ」
「何となく、ねぇ。ま、いいか」
智代は何処か複雑な顔をして溜め息をついた。
「………そう言えば自己紹介がまだだったな。私は、坂上智代だ。智代でいい。祐一の知り合いなら君もヴァルハラの者なのか? 私はそうだ。円卓の騎士予備軍に属している」
「うん。祐一くんに聞いたよ。ボクはさくら。円卓の騎士が一人、第8の騎士『鉄血の魔女』の芳乃さくらだよ。ボクもさくらでいいよ。よろしくね智代ちゃん♪」
「……………………は? ナ、円卓の騎士? 君が?」
「うん、そだよ♪」
「ホ、ホントなのか?」
智代はどうやら自分より2,3歳年下に見えるさくらが円卓の騎士のメンバーとは信じられないようだ。
祐一はもっと幼い年齢でなっていたが、祐一の戦闘能力は規格外のモノだと誰もが思ってることなの入隊できて当然だと思っている。
「ホントだよ。ね、祐一くん」
未だ信じられない顔をしている智代に笑いかけると、隣の祐一を見る。
「この焼き魚もなかなか美味いじゃねェか」
祐一は食事に夢中で話を全く聞いていなかった。
「祐一くん!」
「あんだよ。メシ時ぐれェ静かに出来ねェのかよ」
食事を邪魔されて不機嫌な祐一だが、それを気にするさくらではない。
「そんなことより、智代ちゃんに言ってよ! ボクが円卓の騎士のメンバーだって!」
祐一はその言葉に溜め息をつき、味噌汁を一口啜って智代の顔を見た。
困惑顔の智代に向かってハッキリと事実を述べてやる。
「智代、さくらは確かに円卓の騎士だ」
「こ、こんな小さい子が」
智代の言葉の矢がさくらの胸にグサリと突き刺さった。
「確かに小さいが、こいつは俺と同い年だ。つまりお前より1歳年上だ。それに強ェヤツが上に行くのが道理だ。年齢や見た目なんて関係ねェよ」
祐一が何を言ったのかを理解する前に智代の思考は止まる。
さくらを見て自分より年上と思う方が難しいのだから無理もない。
さくら自身もそのことについては諦めているが、それでもしつこく言ってくる者に対しては容赦なく制裁を加える。
「そ、そうだったのか。すまない、さくら」
「ううん。別にいいよ」
自分の過ちを素直に認め謝罪をした智代にさくらも気持がいい笑顔で許した。
二人の食事の邪魔をするのを悪いと思ったさくらはテーブルの上に置かれていた新聞を広げて読み始める。
しばらく新聞を読み耽っていると何かを思い出したさくらはポケットから一枚のDVD−ROMを取り出す。
それを食事を終えてコーヒーを飲んでいた祐一に差し出した。
「あ? これがどうした?」
「これ、アネットさんに渡しに行って――」
「テメェで行け」
さくらが言い終わる前に即答した。
「――くれないかなぁ、って最後まで聞いてから答えてよ」
「イヤだ」
断固として首を縦に振らない祐一。
それを見たさくらはむぅ〜と唸っていたが、何かを思いついたようにポケットに手を入れた。
「ねぇねぇ、祐一くん。これなんだと思う?」
さくらはポケットから取り出した小瓶を祐一に見せる。
それが何か祐一よく知っている。
さくらの戦闘で使う道具なのだから。
「毒香水だろ。それがどうした?」
「毒香水とは何だ?」
さくらの使う道具を知らない智代が興味深げに訊いて来る。
「さくらが使う武具だよ。炎を生んだり、幻覚を見せたりする作用がある」
「ほう。少し見せてもらいたいんだが、いいか?」
「いいよ」
はい、と言って智代に小瓶を渡す。
智代はソレをしげしげと見つめたり、光に翳したりして見ている。
「見た目は普通の香水みたいだが、コレがさくらの武具か」
「そだよん。でも作り方は企業秘密だから教えられないよ」
そう言って智代から小瓶を返してもらう。
そしてそれを再び祐一に見せ、先ほどの話に戻す。
「で、コレなんだけどね、コレは新開発っていうか殆ど偶然出来たモノなんだ。任務で一回使ってみたんだけどさ、女性には全く効き目がなかったんだけど男性にはそれはもう酷い作用が出たんだ。何だと思う?」
「知るかよ」
興味なさげに答えた祐一にさくらは得意そうに微笑むとその効果を言った。
「正解はねぇ。なんとインポになるの。祐一くんで試してあげようか?」
インポになるということは、勃たなくなるということ。
つまりは男性機能の不能だ。
14歳という年齢でそれになることはある意味人生の終焉を意味する。
「それがどうかしたのか?」
意味するのだが、祐一は全く気にしちゃいなかった。
「ど、どうかって祐一くん」
言った本人のさくらはこの返しの対処に困っていた。
まさか気にしないとは思いもしなかったようだ。
「祐一、不能になれば男としての人生の終わりだと聞いたことがあるぞ」
「俺の人生の終わりは戦えなくなるコトだ。問題ねェよ」
――戦い以外の人生を見出せ、と二人は思った。
「で、なんで自分で届けねェんだ?」
「えっ? あ、うん。ボクがこの街に着いたのは7時半頃なんだ」
「7時半? つーことは俺をそのまま襲いにきたと?」
「起こしに、だよ」
「もしかしてまだ任務完了の報告をしてないのか?」
「そんなワケないじゃん。向こうにある支部で報告はしたよ。帰ってこなかったのはノーコメントだけどね」
「じゃ、なんで自分で届けねェんだ?」
さくらはフローリングに置いたリュックを持ち上げた。
「士郎さんとまことさんに頼まれたお土産を届けに行くのだ」
この後に続くさくらの言葉は祐一は理解できた。
そしてその考えは一字一句間違える事無く見事に的を射ていた。
「断ったら、持って行くのに遅れた理由を無いこと無いこと背鰭尾鰭つけて言いふらすよ」
性質の悪い言い方だ。
さくらの性格も士郎やまことの性格もよく知る祐一には、このままさくらの頼みを断ればどうなるか目に見えてよく分かった。
「さくら、それは脅迫というのではないのか?」
「脅迫? 違うよ智代ちゃん。これは友達のお・ね・が・い・だよ。ね、祐一くん♪」
祐一を見つめるその目はただ語る。
――断ってもいいよ。でも、断ったら士郎さん達に地獄の苦しみを与えてもらうから、と。
「チッ。わーったよ。届けりゃいいんだろ。ったく、メンドクセェな」
「ありがと、祐一くん」
折れてくれた祐一に礼を言ってDVD−ROMを渡した。
「ううっ。痛い。体中が痛い」
フラフラと覚束ない足取りで大通りを歩いている藤林杏がそう言った。
「だ、大丈夫。お姉ちゃん」
そんな杏を心配そうに見ているのは杏の双子の妹――藤林椋だ。
水色の瞳と髪型がボブカットが違うだけで流石双子なだけあって同じ容姿だ。
杏とお揃いの白のリボンを右のもみあげに巻いている。
活発的な杏とは違い消極的な性格だ。
それでもヴァルハラの暗殺部隊に所属していることからして戦闘能力は高い。
「大丈夫じゃ、ないわよ。師匠ったら手加減なしなんだから……」
「それはお姉ちゃんが手加減抜きで仕合しましょうって言うから」
「だって師匠は二日酔いで吐き気がして頭ガンガンするって言ってたのよ! 積年の恨みを晴らすチャンスだったのよ! それなのに……」
どんな恨みだと誰もが思うだろうが、椋はソレが何か分かっているらしく苦笑いを浮かべていた。
杏の師は言った。
手取り足取りで教えられ技は身につかない。
一度喰らってそこから学び取った技だからこそいざって時に役に立つ、と。
杏はいつもそうやって修行してきたのだ。
よく今まで行き延びれたものだと自分でも自画自賛する。
師に言わせればひとえに巧みな手加減のお蔭だそうだ。
「こういう時はアレね。陽平をイジ、もといブチのめして憂さ晴らしをするしかないわね」
「ア、アハハ……」
「椋はあいつがどこにいるか知ってる」
「知らないよ。岡崎くんなら知ってるんじゃないかな」
「じゃ、あいつに連絡して……」
携帯を取り出そうとすると、前に見知った後ろ姿を見つける。
円卓の騎士の正装を着ている祐一だ。
「あ、祐一っ!」
「え、相沢くん?」
思わず声をかけると、祐一が振り返る。
「あ? 杏と椋か……どうしたボロクズみてェになって?」
「もう少しまともな喩え出来ないの?」
「する必要がどこにある。で、何が遭ったんだ?」
杏は答えず沈黙に徹した。
言いたくないというより知られたくないといった感じだ。
自分の惨めな敗北を。
「椋。何があったんだ?」
話を振られた椋はチラリと杏を見た。
その目は言うなと語り、その背は言ったら呪ってやるというオーラを背負っている。
言うべきか、それとも姉の名誉のため言わざるべきか、迷うところだ。
「ま、大方二日酔いのあの人に勝負を申し込んでズタボロにやられたってトコだろ。違うか?」
まるで見ていたように正解を言ってのけた。
「ええ、そうよ! 完膚なきまでに負けたわよ! 開始して一分も経たずに負けたわよ! 傷一つ付けられなかったし、技さえろくに出せなかったわ! 悪い! 文句ある!」
誰も訊いていないのに興奮のあまり殆ど自分から暴露した。
一息にコレだけいうと、大きく肩で息をする。
息を整え冷静になってくる頭で自分が今何を言ったのかを理解すると、しまった口を塞ぐが後の祭りだ。
愚かな姉に同情に近い眼差しを向ける椋と、馬鹿だなこいつといった呆れに近い眼差しを向ける祐一の姿があった。
誤魔化すように咳払いをすると祐一に話しかけた。
「そ、それより祐一。ヘタレがどこにいるか知らない?」
「春原の居場所なんざ俺が知るワケねェだろ」
ヘタレと言われてそれが春原だと瞬時に祐一は理解していた。
と言うか春原のコトを知ってる人の頭の中ではヘタレ=春原の図式が既に成り立っていたりする。
「それもそうね。やっぱ朋也に訊くしかないか」
「朋也ならいねェぞ」
「え? 岡崎くん任務でどこかに行ったんですか?」
「ああ。円卓の騎士の席が一つ空席になったのは知ってんだろ」
「ええ……ってまさか朋也のヤツ!?」
「円卓の騎士のメンバーに任命されたんですか!?」
「まだ決まったワケじゃねェよ。今回受けた任務を完遂すればほぼ決定だろうな」
円卓の騎士に出来た空席は予備軍から選抜される。
選抜方法は至って簡単だ。
敏捷性・柔軟性・耐久力・五感能力とうの身体能力値。
耐久性・想像力・判断力・分析力とうの精神能力値。
それらの総合値で暗部の中でも上位10名しかいない円卓の騎士予備軍の中から一人が選別される。
長老から直接与えられた任務をこなし、その結果によって適任かどうかを判断され、不適任なら予備軍ではなく暗部に戻るコトとなり二度と入隊は不可となる。
もし朋也が落ちれば予備軍の中から新たなメンバーが選抜される。
「朋也のヤツ……このあたしを差し置いて」
握り締めた拳がワナワナと震える。
そんな杏を気にした様子もなく祐一が選抜理由をハッキリと述べた。
「実力差だろ」
「あァ?!」
鋭い眼光で睨んでくる杏。
だが如何せん、相手は祐一だ。
円卓の騎士以下の実力者である杏の睨みと殺気なんて蚊が刺す程度にしか感じられない。
二人の間で椋はオロオロしながらどうすればいいか迷っている。
そんな空気を微塵も感じず能天気に生贄となるであろう哀れな男が声をかけてきた。
「やぁ三人とも。清々しい朝――へぶしッ!」」
飛んだ。
キリモミ回転をしながら吹っ飛んでいった。
男の立っていた位置には拳を突き出し鬼の形相をした杏が立っている。
「いきなり何するんですかね?!」
鼻血をダラダラ流しながら男は起き上がった。
金髪青眼の男の名は春原陽平。
キング・オブ・ヘタレの称号を持ち暗部に所属している。
「ただの八つ当たりだから気にしないでいいわよ」
「凄く気になるんですけどね!」
「あァ?!」
「ヒィッ! ごめんなさい!!」
別に悪くはないのに謝る春原。
そのまま逃亡しようと背中を向けて駆け出そうとする。
「逃げたら首切ってそこから手突っ込んで背骨引きずり出すわよ♪」
何て恐ろしいことを平然と言ってくる女なのだろう。
「逃げません逃げません!」
「そ。なら大人しくやられなさい!」
哀れ春原。
逃げても逃げなくても酷い目に遭うことには変わりなかった。
「いやだァァァ!」
問答無用に再び殴る。
今度は鳩尾に拳が突き刺さった。
「なんで、あたしを差し置いて朋也が円卓の騎士に選抜されるのよォォォォ!!!」
殴る殴る殴る蹴る蹴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る。
容赦ない攻撃が春原を襲う。
「アホくさ」
冷たく吐き捨てた祐一は杏と春原をその場から立ち去っていく。
その腕を椋が慌てて掴む。
「あ、相沢くん! 早くお姉ちゃんを止めないと春原君が死んでしまいます!!」
「あ? 大丈夫だろ。あいつだって一応はヴァルハラの人間だし、血反吐を吐きながら強さを手に入れたんだ」
ヴァルハラの訓練は熾烈を極めるものだ。
身を砕かれ、躰を嬲られ、魂は朽ちていく。
強くなりたい、護りたいという思いで彼らは力を手に入れた。
「……でも」
「はぁ〜。分かったよ。だからそんな悲しそうな顔するな」
なんで俺が、などとぶつくさ言いながら杏の下へ歩み寄る。
そんな祐一を見ながら椋は人ってここまで変わるんだなぁ、などと感心していた。
祐一は気配なく未だに春原をボコっている杏の背後に立つと、延髄に手刀を叩き込んだ。
ガクリ、と膝を折りアスファルトの上に倒れた。
「ひ、ひぬひゃとおも、がッ!」
祐一は倒れたままの春原の腹に足を振り下ろした。
そのまま冷たい眼で見下す。
「春原……テメェ、それでもヴァルハラの人間か? 情けなねェ姿見せてんじゃねェよ。やられたらやり返しやがれ」
別に春原は弱いというワケでも、情けないヤツでもない。
ただクラナドにいた頃から杏、智代、朋也にイジめられ――ブチのめされ――た経験から骨の髄まで恐怖が染み付いているのだ。
そんなことをしているが杏達は別に春原を嫌っているワケではなく、なんというかイジめ甲斐があるというか、イジめたくなるというか、そんなキャラだからだ。
「椋。俺はもう行く。後のことは任せるぞ」
「あっ。はい。ありがとうございます、相沢くん」
椋が頭を下げ祐一に礼を言う。
それを背で受け止めながら今度こそそこから立ち去った。
――カフェ『ケット・シー』――
店の中はまだ開店前らしく、全ての椅子が机の上に逆さにして置かれている。
唯一、カウンター前の椅子だけは降ろされており、一番隅の椅子にどす黒いオーラを纏った少女――七瀬留美が一人。
そして、カウンターにはケット・シーのオーナーであるアネット・ピアスが煙草を吸いながら皿を拭いている。
ヘアバンドでオールバックにされた軽くウェーブのかかったセミロングの髪。
黒の長袖のシャツとジーパンに隠された肉体は女性とは思えないほどの体つきで、そこいらの男共では太刀打ちできないほどだ。
そんなアネットは留美の方を哀れみというか、邪魔だというか、そんな目でチラチラ見ている。
するとそこへ、軽快なベルの音を鳴らしドアが開かれた。
「悪いね。まだ準備中だよ」
入ってきた客の方を見ずにそう一言だけ告げた。
「邪魔するぜ、アネット」
アネットが入って来た奴の声を聞いて初めて顔を向ける。
「……アンタか」
「よう」
「かけなよ。注文はいつものコーヒーかい?」
「ああ」
祐一はカウンターの席に座りながら隅に座っている留美をチラッとだけ見やる。
「で、何か用があって来たのかい?」
その質問にポケットからDVD−ROMを取り出し、カウンターに置く。
「さくらからだ」
「さくらから? ああっ。頼んでおいた情報のヤツだね。ありがとうって礼を言っといておくれ」
アネットはそう言ってDVD−ROMをカウンター下の棚にしまう。
「それ何のデータなんだ?」
「さくらが任務で行ってた街の細かな造りとかを教えて欲しいって知り合いの掃除屋に頼まれたんでね。さくらに頼んだのさ」
アネットは数年前まで掃除屋として活躍していたが、現在は当時築いた情報網を生かして情報屋も営んでいる。
元掃除屋だけに、その人脈はかなり広く、現役の掃除屋からも一目置かれる女傑である。
祐一の持って来たデータもそういった掃除屋に情報として提供するものだ。
「頼んだって、あいつがいったのは半年前だぞ?」
「三日前にまだいるかどうか連絡したんだ。そしたらまだいたからね。ついでに集めてもらったのさ」
アネットが祐一の前にコーヒーを置くきながら話を変えてきた。
「それよりさ、祐一。アレなんとかしてくれないかい」
二人の視線はカウンターの隅にいる留美に向けられる。
祐一は気にしていないが、アネットは随分きにしているようだ。
このままでは開店しても店の営業に大きく関わる。
「つかさ、あいつどうかしたのか?」
「留美のヤツさ、1,800万の賞金首の有力情報が入ったから捕まえに行って来るって言ったろ?」
「そういや。一週間ぐれェ前にんな事を言ってたな」
「で、わざわざここから200キロ近く離れてるカノンシティに出向いて行ったら、それがガセネタだったんだって」
「ハッ」
バカにするように軽く鼻で笑った祐一に向って鬼が動いた。
いつの間にか抜刀していた天月が祐一に振り下ろされる。
祐一は本能で殺気を感じ取り、振り下ろされる天月の刃を右手の親指と人差し指、中指で受け止め動かないように強く押え込む。
「祐一、今笑ったわね!? しかも鼻で! そんなにおかしい!! あたしの失敗談が!!」
「あーっ、うっせェな」
「はいはい。留美、店の中で刃物を抜かないでくれよ」
アネットが手をパンパンと叩き留美を注意する。
まだ、店が空いてないのが幸いだった。
「ご、ごめん」
「まぁ、あんたが落ち込むのも分かるが……そうだ」
アネットが何かを思い出したようにカウンター下の棚を開き何かを探す。
「ちょうどこの近くに大物の賞金首がいるんだが、捕まえてみないか?」
アネットはそう言ってファイルを二人の前に置き、中を開いて見せる。
「闇の商人、トルネオ・ルドマン。武器密輸組織の頭目。捕まえて当局に引き渡せば5,000万って莫大な報酬が手に入るよ」
「ご、5,000万!? ホントに!!」
「ああ。手配書に書いてあるだろ」
留美は手配書に穴が開くほど食い入るように見る。
「フ……フフ。“莫大な報酬で美味しいものいっぱい食べる計画”の復活よ!!」
「でも、気をつけなよ。トルネオはナニやらヤバイ研究してるらしいからね」
「ヤバイ研究?」
「あたしの網に掛かった情報じゃ、新型の兵器を製造中らしいよ」
二人の会話を聞きながら祐一はファイルのページをめくる。
そこに載っていたのは、何かの研究施設の前で誰かしら研究家らしき人物と握手するトルネオが写っていた。
「新型の兵器、ねぇ」
「ま、適当に頑張ってくれや」
祐一はそう言ってファイルを置き席を立つが、祐一の肩にポンッと手が置かれる。
「なんだよ?」
「祐一、協力して」
「なんで俺が協力しないといけねェんだ? お前ほどの実力者なら一人で片づけられるだろーが」
祐一は肩に置かれた手を払いのけ、さもめんどくさそうに言った。
「……五秒待つわよ」
留美は愛刀である天月を祐一の首筋にピタリと押し当て殺気を含みながら告げる。
少し首を切ったらしく押し当てている所から赤い線がうっすらと引かれている。
だが祐一も天月が押し当てられた瞬間、留美の眉間にラグナロクをすかさずつきつけていた。
そして、押し当てられた天月にも恐れずに言い返す。
「殺れるもんなら殺ってみろよ。テメェが刀を引く前にトリガーを絞って頭に風穴を開けてやんよ」
一触即発の二人。
二人の耳に溜め息が聞えたかと思うと、問答無用でバケツに汲まれた水が頭からぶっかけられ、身体もフローリングも水浸しになった。
そう、燃え盛る炎を鎮火させるが如く。
「……冷たい」
「……アネット。いきなり何しやがる?」
「店で暴れないでおくれよ。殺りあうんなら他で殺り合いな」
元より殺り合うつもりは微塵も無かったが、この二人の事をよく知らない人が見たら殺し合う現場に見えるだろう。
アネットもそれは重々承知だが、二人が放っていた殺気は本物だった。
それも店の外に漏れるぐらいの凄まじさ。
そうなれば開店間近の店、客が寄り付かないどころがか客足が遠のくことは必至。
だから、殺り合わないと分かっていても止めねばならかなった。
「ごめん」
「……すまねェ」
非は自分達にあるため素直に謝る二人。
それを見たアネットは、分かれば宜しいと頷く。
「……で、祐一。報酬金の5,000万で美味しいものいっぱい食べさせてあげるから協力して」
「とかなんとか言って、またこの間みてェに屋台のラーメンじゃないだろうな?」
「……過去は忘れなさい。ちゃんと食べさせてあげるわよ。ステーキでもなんでも、ね」
「その言葉信じていいんだな?」
「もちろん」
「………分かった。協力してやる」
「ありがと。じゃ、これを詳しく調べといて」
留美はカウンターに置かれたファイルを投げて渡すが、祐一はそれを受け取りながら文句を言う。
「なんで俺が? お前が調べりゃいいだろーが」
「……それにはちゃんと理由があるわ」
そう言う留美の顔が見る見るうちに苦虫を噛み潰したような顔になっていく。
どんな理由か尋ねると留美は重い口をゆっくり開き言葉を吐き出す。
「…………今日中に賞金首を捕まえて家賃を払わないと追い出されるのよ」
吐き出された理由は実に馬鹿馬鹿しい理由だった。
祐一もアネットも留美を呆れた顔で見ている。
「どれだけ滞納してんだ?」
「………聞かないで」
留美はそれだけ言って店から出て行った。
「やれやれ。んじゃ、俺も行くか」
祐一はファイルを手に外に出るべくドアに移動し、ドアを開けたところで思い出したように店の中を振り返る。
「アネット」
「なんだい?」
「ここに書かれている事以外で何か新しい情報はあるか?」
アネットは腕を組み、しばし考える。
「情報、ねぇ……そうだ。何でもその兵器のコードネームは―――」