神魔戦記異伝『勝ち目のない戦い』

 
 キー大陸合同武術大会。キー大陸の国、カノン、エア、クラナド、ワンの選りすぐりの戦士達が集まり最強を決めるという大陸最大のイベントだ。
 この代表となるだけでも栄誉な事だが、その中でも対外的に名が轟いている者達は特に注目を浴びていた。
 しかしその一方で全く注目を浴びない、つまり対外的に名前を知られていない人間も少なくない。一人出店をめぐっている藤林杏もその一人だ。
「うーん。おじさん、これいくらかまけてくれない? いいものなんだけど、少し割高に思えて財布の紐が硬くなっちゃうのよね」
「しょうがねえなあ。他の人には内緒にしておいてくれよ」
そう言う出店の男は、口に指を当ててウインクをした。多分それでもいい儲けなんだろうな、と思いながらも杏は笑顔で受け取った。
 そして何とはなしにぶらついていると、あちこちで人だかりができていることに気づく。よく見えないが、参加者であることは間違いないだろう。
「ん?」
 その中の一つに、気になるものが見えた。一際大きな人の中に、純白の羽が見えた気がしたのだ。
「ちょっと、ごめんなさいね」
 杏はそう言いながら人ごみを掻き分け、どうにかその姿が見えるところまで来た。それ以上は若い女の子達が絶対に譲らないとばかりに陣取っている。
「やっぱり、エアの柳也ね」
 エア最強の剣士と名高い男で、杏の一回戦の相手だった。そして、その男は若い女の子に囲まれて困り果てている。
「柳也様、私にも握手をしていただけますか?」
「私にも!」
「あ、ああ……」
 周りの話を聞いていると、一人の女の子の握手を引き受けたらなし崩しに他の女の子もやる羽目になったらしい。顔はいいし、有名人ともなればそうなるだろう。
「ほんと、凄いわね。うちでこの人気に対抗できるのは智代ぐらいか」
 智代は男性にも女性にも人気があるので、ひょっとしたらこれを超えるかもしれない。男で対抗できる奴は、ある事件によってそんなものとは無縁になってしまった。実力はともかく、華という点ではエアに全く適わないのである。
「あなた、さっさと行きなさいよ! つかえてるのよ!」
「へ?」
 いきなり後ろから言われ、そこで初めて杏は柳也の前に来ていることに気づいた。杏は少し考えたが、にっこり笑って手を差し出した。
「ん?」
その手を義務的に握った柳也は、杏の顔を見た。
「どうかしましたか?」
 持ち前のいたずら心から、普段あまり使わない敬語を使ってみる。すると、柳也はハッとして言った。
「すまない、もしかしたら兵士じゃないかと思ってね」
「それ、当たりです」
「ああ、やっぱりそうだったか。私服ではぱっと見分からないものだな」
 柳也は微笑みながら言った。エアの人間だけど、気取ったところはない。これは人気でるかも、と思いながらも杏は言った。
「でも、エアの遠野様や霧島様、晴子様も私服ではそうは見えないでしょう?」
 柳也は思わず苦笑いした。
「あいつらは普通にしているだけでもその力を感じる。本人たちは抑えているつもりなんだろうがな」
「そうなんですか……凄いですね」
 つまり自分にはそういったものがない、という事だ。まあ、顔を見て一回戦の対戦相手だと気づかないくらいだからそんなものなのだろう。
「ちょっと、いつまでやってんのよ!」
 後ろから怒鳴られて、杏と柳也は手を握ったままでいたことに気づいた。
「あ、すまない。気づかなかった」
「いえ、別に構いません。柳也様、最後に一ついいですか?」
「ああ、何だ」
「柳也様は、どのような戦い方をするのですか? 見て参考にできるなら、と思うんですけど」
 柳也は少し考えていたが、にやりと笑って答えた。
「すまないが、俺の技は縮地と居合いだからな」
「あ、なるほど。それは確かに無理ですね。柳也様ほどの腕前であれば、見えませんね」
 杏は笑ってそう言い、その場を離れた。そして、人ごみを抜けたところで顔を真剣なものに変えた。
「手の内を知られてもいい、ということは、それだけ凄いってことね。縮地か……」
 杏の頭に学園の老教師の顔が浮かんだ。あれには結局対抗できなかったけど、柳也は杏のことを何も知らないからなんとかなるかもしれない。
「だとしたら、準備がいるわね」
 杏は肩をすくめ、街の中に消えていった。

 夕刻過ぎ、ようやく宿舎に帰ってきた杏は、荷物を部屋に置いて食堂に向かった。すると、中にはちょうど気の置けない人間がいた。
「や、朋也、ここいい?」
「ん、ああ」
 気のない返事の朋也は、手に何か持っている。綺麗な袋に包まれたそれは、お土産らしい。誰にあげるのか、と興味はあったがまあ留守番組の誰かだろう。
「そう言えば、智代は大した人気だったみたいだな」
 手にしているものをさりげなく――当人にとっては――しまいながら、朋也がそんな話を振った。
「そうみたいね。街の中歩いていても何度か噂が耳に入ったわよ」
 朋也の様子に軽い違和感を覚えながらも、自然に杏は返していた。
「あんたはこもっていたの?」
「いや、ここでは俺の顔はそこまで知られていないから少し歩いた。むしろクラナドより居心地がいいくらいだったな」
 自嘲気味に笑う朋也を見て、杏は朋也があの事件のことを考えているのだと分かった。内心苦笑しながら、杏はことさらに軽い口調で話を続ける。
「そう言えば、あたしエアの柳也に会ったわよ。握手までしてもらっちゃった」
 その言葉に朋也は杏の顔を見つめていた。
「お前、ああいうのが好みだったのか?」
「……んなわけないでしょ。成り行きよ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、杏は机の上で手のひらを広げた。それを朋也はいぶかしげに見ている。杏は仏頂面のまま言った。
「あいつ、あたしと握手するまであたしが兵士だってこと気づかなかったのよ? しかも一流どころに比べたらオーラがないって言われたし」
「ってことは、お前のこと知らないのか?」
「そうよ」
 杏は手を引っ込めると、ニヤリと笑った。
「ま、だからいいことも聞けたんだけどね。ま、ほえ面かかせてあげるわよ」
 それを聞いた朋也は苦笑した。とはいえ、その目は楽しそうなものになっている。
「俺はお前とは戦いたくないんだがな。柳也にはお前の力は届いてなかったってわけか」
「そういう事ね。問題はおえらさん方を喜ばせてしまうことだけど」
「かわりにエアの鼻を明かせるさ」
 二人は笑った。権力というものが好きではないもの同士で、自らの大切なものがあるから軍に属しているだけだ。そして、それがなくなったら辞めても惜しくないと考えている。
「ま、柳也は悪い奴ではなかったわ。だからすこーし気の毒だけど、ね」
「……ひょっとして、気の毒な目にあうのか?」
 杏は返事の代わりにウインクをした。
「大変だな」
朋也は少しだけ柳也に同情した。

そして大会当日、控え室は静かな緊張に包まれていた。剣を磨くもの、目を閉じて集中力を高めるもの、体操で体をほぐすものなど様々だ。
そんな中、眠りこけている者たちがいた。その周りでは同じ軍の付き添いがため息をついている。
「どうしてこんな所で眠れるんだろうな」
「本当に、何でだろう」
 片方はクラナド軍の坂上智代、もう一人はワンの長森瑞佳である。そして、気持ちよく床で寝こけているのは藤林杏と折原浩平、なぜか肩を並べている。
「すまない、多分杏の方が寝ぼけてここで寝てしまったのだろう。寝起きの悪さは評判だからな」
 智代が申し訳なさそうな顔をすると、瑞佳は苦笑した。
「浩平の寝起きの悪さもワン随一だって評判なんだよ」
 顔を見合わせ、二人同時にため息をついた。
「まあ、杏は徹夜で準備をしていたみたいだからな。こうなってしまうのも無理はないだろう」
 ご丁寧にも鎧に『出番が来たら起こして! 特にクラナド関係者、無視したら殴る!』という紙が貼り付けられている。
「それは立派だよ。浩平なんて、できるだけ眠れる方がいいからなんて言って昨日の夜からここにいたみたいだし」
 おかげで社交界への出席を全部ボイコット、代理の外交担当の怒りを買っているという
ことだ。
「起きたら伝言を伝えてください、って言われているから私ここに来たんだけどね」
「噂には聞いていたが、変わった王だな」
 智代も少々呆れ気味だ。
「クラナドの藤林杏様、まもなく出番となります!」
 兵士が呼びに来たが、杏は全く反応しない。
「おい、杏!」
 智代が体を揺するが、全く効果がない。
「仕方ないな……。少し待っていてくれ」
 智代はため息をつきながらその場を離れた。後に残された瑞佳は、一応やるだけのことはやろうと杏の体を叩きながら呼びかける。
「ほら、藤林さん、起きないと不戦敗になっちゃうよ」
「ん……?」
 杏は微かに反応を示したが、起きる様子はない。その代わりに浩平に、まるで布団のように顔をうずめて、抱きしめた。
「ぐわおえっ!?」
 メキッと嫌な音がして、さすがの浩平も飛び起きた。その格好はといえば、体に杏を巻きつけたまま、肩には瑞佳の手が食い込ませている状態だ。
「おはよう、浩平」
「な、長森!? な、お前、何を? って、この女何だ?」
「クラナドの藤林杏さんだよ」
 浩平は動揺しているらしく、必要以上に大きな声になっている。そして瑞佳は肩に指を食い込ませたままにこにこと笑っていた。
「……折原王、失礼します。長森さん、いいかな?」
 そこに大きなバケツを持ってきた智代が来た。瑞佳は浩平ににっこり笑いかけて一言。
「もちろんだよ」
 
「遅い、何をやっているのだ藤林は!」
 来賓席で和人は怒りの声をあげていた。それは隣にいる有紀寧にしか聞こえないような大きさだったが、そこにいる他国の貴族達は聞こえよがしの嫌味を言っている最中だった。
「まだ来ないという事は、逃げ出したのかな。まあ、柳也殿を相手にして怖気づく気持ちは分かりますが」
「しかしそれではこうして待っている観客の皆様に失礼というもの、同じ名誉を失うにしても手も足も出ずに負 けることを選べばよろしいのに」
 和人もエアの嫌味に全くその通りだと思った。彼女の面子が潰れるのはむしろ望むところだが、クラナドまで巻き添えにするなら話は別だ。
「くそ、妹がいなければ放逐してやるものを……」
 歯軋りをしながら呟く声に、有紀寧もフォローを入れることができない。元々関係がよくない上に、今回は和人のほうに理がある。
 有紀寧は闘技場の方を見た。そこには退屈そうに腕組みをして立っている柳也がいる。その時ふと、どよめきが起こった。一抹の期待をして有紀寧が入場口を見ると、杏が走って出てくるところだった。
「あ、出てきました……」
 そこで思わず言葉を失った。日の光にさらされた杏から、なぜか水が滴り落ちている。長い髪は重そうに揺れ、鎧が時々光るのは材質のためではないだろう。
「一体どこまで恥をかかせれば気が済むんだ!」
 和人が思わず怒鳴り、来賓席がぎょっとした顔で和人を見た。しかし和人はそれに気づいたふうもなく杏を睨み付けた。

 一方注目を浴びた杏は、照れくさそうに笑いながらクラナド兵の歓声に手を上げて応えていた。それを見て、さらに大きな歓声が上がる。
「大した人気だな」
「ま、自分で言うのもなんだけど、大した能力もコネもないのに親衛騎士団に入隊したあたしはいい目標だと思うわよ? オーラはないけどね」
 そう言いながら杏は右手を差し出した。
「……そうか、昨日の」
 柳也はそう呟きながら手を握った。そして今度は闘技場全体から歓声が上がる。
「ま、こんな格好なのは許してちょうだいね」
「まさか三刀流のことを言っているのか?」
 杏の下げているのは左に二本の棍――柳也は知らないが『大黒庵』と『小貫遁』である――そして右に短剣一本。
「口でくわえるなんてしないわよ」
 そう言いながら杏は手を離し、距離をとりながら大黒庵を構えた。それを見て柳也も刀を抜く。
 一瞬で静まり返る場内、そして、
「始め!」
 合図と共に戦いが始まった。

 始めに仕掛けたのは杏だった。威力よりも速さを重視して軽装の柳也を襲う。しかし、柳也はその場から動くことなく剣をさばいていく。
「悪くないな。だが!」
 柳也の手が動いた、と思ったとき、杏は咄嗟に横に飛んでいた。その瞬間、逃げ損ねた髪が音もなく地面に落ちた。
「ひえ、見えなかったわ……」
 半分冗談、半分本気で怯えた声を出す杏。一方柳也は感心した声を出す。
「いい勘をしているな。どうやらここにいるのも伊達ではないようだ」
「あー、そりゃどうもっと!」
 杏は無茶苦茶に大黒庵を振りながら前に出た。観客の大半からはまるでやけくそに見えただろう。柳也もそう見えていた。
「もう少し手ごたえがあると思っていたが……」
 柳也は体を軽く傾けて剣をかわし、突進してくる杏に刀を振るう。それは柳也の狙い通り杏の首の皮一枚の所で止められた。
「何っ!」
 しかし、それをまるで意に介していないように杏が突進してくる。このまま刀を引くか? そう考えた途端、杏が体ごとぶつかってきた。
「ぐうっ!」
 女性とはいえ、鎧込みの体重を受けてはひとたまりもない。柳也は豪快に吹き飛び、辛うじて翼を羽ばたかせ地面に叩きつけられるのを防いだ。
 杏は体勢を崩した柳也を見て全力で突進した。柳也は素早く体勢を立て直すが、そのときには杏がすでに大黒庵を振り下ろすところだった。かわせない、大半の観客がそう思っていた。
 音もなく大黒庵が弾き飛ばされた。今度は見えない、などというレベルではなく、勘すら働かなかった。結果として、空となった手が勢いのまま手刀となって空を切る。そして少し遅れて遠くで落ちる音がした。
「舐めてもらっては……何?」
 柳也がそう言うが早いか、杏は水を撒き散らしながら大黒庵の落ちた方に走り出していた。あまりに迷いがない行動だったため、柳也の反応が一瞬遅れたくらいだった。
 その間に杏は大黒庵に近づいていく。しかし、柳也にはみすみす拾わせる気はなかった。
「昨日教えたはずだがな」
 見ていた観客には柳也の姿が消えたように思えた。次の瞬間柳也が杏の真正面に現れ――
「ぐ、う……」
 右肩を押さえて崩れ落ちた。
「あー、左ではさすがに狙いは甘かったわね」
 そして悠々と大黒庵を拾う杏を見て、会場にどよめきが起こった。

「あいつ、とんでもないことするなあ」
 ざわめく会場の一角で、浩平が呆れ半分、感心半分といった様子で言った。横にいた瑞佳も同じような表情で頷く。
「ほんと、浩平並みにとんでもないよ」
「おいおい、俺は度胸はともかく、あそこまで悪知恵は働かないぞ」
「何だか藤林さんも同じ事を言いそうな気がするよ」
 ちょうど正面で見ていた彼らは気づいたのだが、杏は走り出したとほぼ同時に小貫遁を真正面に投げていた。真正面に回りこんだ柳也は死角となって反応が遅れ、辛うじて肩に攻撃をずらすのがやっとだったのだ。
「でも浩平、そろそろ行かなくていいの?」
「平気平気。王様特権っていうのはこういうときにつかうもんだ。それに、相手は澪だから多少のことぐらい許してくれるって」
「まあ、浩平がこんな面白いのを見逃すわけないよね」
 瑞佳はため息をつき、でも、と言った。
「澪ちゃんを怒らせると私より怖いんだよ」
 思わず浩平が体を固まらせた。
「ま、まあ、誠意を尽くせばいいんだよな、うん」
 それでも、自分に言い聞かせるように呟いてここから離れようとしないあたりはさすがと言えるだろう。
 そして会場はというと、杏が再び大黒庵で殴りかかっていた。
「あれ? 何で抜かないんだろう?」
 瑞佳の言っているのは杏の左脇に下げられたもう一つの剣のことだ。
「そりゃ、普通の剣じゃないからだろ」
 それを瑞佳が聞き返そうとすると会場が揺れ、同時に振動が足に伝わってきた。そして下を見ると、柳也に吹き飛ばされたらしい杏がいた。
「よう」
 そして横では浩平がまるで街中で会った友人のように声をかけていた。

 杏にもその呑気な声は聞こえていた。なので、ほとんど反射的に手を振っていた。
「やっほー、折原王……ってそんな場合じゃないわね」
 神速の剣戟を辛うじて受け止めたものの、威力でここまで吹き飛ばされたのだ。大黒庵でなかったら真っ二つになっていたかもしれない。右腕は痺れており、このままではまともな攻撃はできないだろう。
「さっすが小牧姉妹特製ね」
 そう言いながら杏は空を見上げた。その先には、太陽を背にして目に見えるほどの気をまとっている柳也の姿があった。
「ありゃ、本気ってやつね」
 杏はゆっくりと立ち上がり、柳也はその杏を見て言った。
「すまない。お前を侮っていた」
 言いながら柳也は軽く頭を下げ、右手を刀の柄に乗せた。
「妥当だと思うけどね」
 柳也に聞こえないくらいの声で呟き、杏も抜いていない方の剣に手を乗せる。
「最早加減はない! 死んでも恨むな!」
 杏は空いている左手で剣を抜こうとした、しかし、柳也はもはやそれすら許そうとは思わなかった。
「させるか!」
 最短距離で突進する柳也。杏は必死に剣を抜こうとしているが、間に合うとは思えない。せいぜい半分抜ければいいほうだろう。
 だが、杏にとってはそれで十分だった。杏の狙いはその剣を見せること、そして、狙いが分かっていない以上、柳也はその剣を反射的に見ざるをえない。
 そう、太陽を反射させた光り輝く剣を。
「……くっ!」
 柳也は動揺した。いかに速い動きでも、光を越えることはさすがにできない。視界の半分以上を奪われた結果だ。
 こんな手でくるとは予想しなかった。しかし、気配はまだ掴める。この程度なら問題はないはずだ。
そう思った柳也はほんの少しだけ間合いを取り、今までで最高の速度で突っ込んだ。杏は体を回転させるように大黒庵を振るうが、それは見当はずれの方向を薙いだだけだった。 
 こちらの動きは見えていない。そう確信した柳也はさらなる速度で突進した。その軌道はこの会場にいた誰も捉えられず、その上で神速の居合いが繰り出される。回避する方法などなかったはずだった。
 しかしその直前、
「――大きくなる――」
 今まで発動されなかった呪いが発動された。
 バシィ!
 次の瞬間、柳也に激しい衝撃が走った。そのため刀を振るうこともできず、受身も取れないで地面に叩きつけられた。
「ぐうっ!」
 柳也はそれでも辛うじて立ち上がるが、何が起きたかまるで分からなかった。そしてその混乱を回復する暇を与える杏ではなかった。
「――大きくなる――」
 呪いと共に巨大化した大黒庵が柳也を襲う。反射的に刀で防ごうとするが、重量の増した大黒庵を防ぎきれるはずもなく、反対側の壁まで吹き飛ばされた。
「……ありゃ、これでも駄目か」
 杏の声が静まり返った会場に響いた。柳也は血まみれで、刀を杖代わりにしていたが、まだ立っていた。その姿に会場から歓声が上がる。
 杏は身構えつつも、負けたな、と思った。これ以上は手段はなく、限界とはいえ柳也の攻撃を防げるとは思えない。
 二人はゆっくりと歩き、そして試合開始の場所まで戻ってきた。杏は大黒庵を構えたが、柳也は震える手で刀を鞘に収める。そして――
「お前の勝ちだ……藤林、杏……」
 そう言った途端、柳也は音もなく崩れ落ちた。
 しーんと静まり返る会場。まだほとんどの人間は状況が飲み込めていないでいた。そこに杏の一喝が響く。
「ちょっと、このまま放っておくといくら柳也でも命に関わるわよ! さっさと勝負の結果を言いなさい!」
 そこでようやく気づいた司会がどもりながらも言った。
「しょ、勝負あり! 勝者、藤林杏!」 
 その瞬間、会場から凄い歓声とブーイングが起こった。後者はもちろんエアのもので、様々な罵声が飛んだ。しかしそれも次第に大きくなる他の観客の大歓声に飲み込まれていった。
 
 エアの控え室。その前ではさっきの試合に納得行かない兵士達が声を荒らげていた。
「あのような卑怯な戦い、認められません! 再戦を要求しましょう!」
「柳也様の実力ならば、あんな相手に負けるはずがない!」
「裏葉様、どうかお口ぞえを!」
 そんな兵士の声をニコニコと聞いているのは裏葉である。何も言わず、中に入ろうとするものをやんわりと止めているだけだ。
「ええい、埒があかん! 柳也様に直談判しにいくぞ!」
「あらあら、柳也様はまだ絶対安静で……」
 裏葉ののんびりした静止も聞かず、一人の兵士が扉に手をかけた。
「あんたら、いい加減にせんかーーーーーー!」
 その途端中から勢いよく扉が開き、手をかけていた兵士を吹き飛ばしながら中から女性が出てきた。
「は、晴子様!?」
 あまりの勢いにさっきまで威勢のよかった兵士たちが思わず二、三歩後ずさった。
「さっきから聞いとったら言いたい放題……。そんな元気有り余っとるなら外で素振りでもしてこんかい!」
「し、しかし晴子様……」
 それでも何か言おうとした兵士を晴子はじろっと睨みつけ黙らせた。そして少しだけ声を落として言った。
「あんたらが何と言おうと負けは負けや。それをごり押しで勝ちにしたかて、恥の上塗り。柳也だけやなくエア 全体がコケにされるんやで」
 その言葉に兵士たちもハッとなり、肩を落とした。
「申し訳ありません、考えがいたりませんで……」
 それを聞いて晴子はニヤリと笑い、今までで最大の音量で怒鳴った。
「分かったら、とっとと素振りや! どうせなら柳也より強くなって仇でも取るくらいの気でいくんやで!」
『はっ!』
 兵士たちは敬礼し、整然とそこから去って行った。
 そしてそれを見送り、晴子はため息をつきながら裏葉を見た。
「で、あんたは何で止めようとせんかったんや?」
「神奈様から『柳也殿が負けたら、いい薬じゃからなるべく慰めぬように』と仰せつかっておりましたので」
「あんたの案やろ」
 呆れながら言う晴子に、裏葉は静かに笑うだけだった。
「まあええわ。客を迎えるのにああいう無粋なのがいたらあかんからな。……ほら、でてきい!」
 晴子がそう言うと、廊下に置かれた鎧の影から杏が出てきた。
「あらあら、全然気がつきませんでしたわ」
「……んなわけないでしょ、こっちに一度も視線を向けなかったくせに」
「あらあら、ばれてましたか」
 激しく脱力しそうになる体を必死に押さえ、杏は晴子の方を向いた。
「んで、柳也は大丈夫?」
「怪我は全然やけどなー、呆然としとるわ。見事な負けっぷりやったからな」
 晴子は言いながら豪快に笑った。
「じゃ、入っていい?」
「もちろんや。死人にたっぷり鞭打ったってや。なんならドサクサにまぎれて襲ってもかまわんで〜」
「ま、隙があればね」
 そう言いながら杏は中に入った。中には、今までの会話が聞こえていたのだろう、呆れた顔をしている柳也がベッドに寝ていた。
「おはよう、でいいかしらね」
「ああ、こんな格好ですまないな」
 柳也が硬い声で言った。杏は、無理もないわね、と思いつつベッドの脇の椅子に座った。そして、あっけらかんと言った。
「どうして負けたか、聞いた?」
「……いや、さっき目が覚めたばかりだからな。だが、聞きたいことはある」
「ん、何でも答えるわよ。ちなみに恋人はいないわ」 
 柳也は苦笑してそれには答えず、質問をはじめた。
「じゃあ、順を追っていくぞ。最初、俺が寸止めにしたのに突っ込んできたのは、そうすると分かっていたから か?」
「そ。あんたの実力ならそれぐらい簡単だし、それが可能なくらいあたしは弱いしね」
 あと、そういう性格みたいだし、と杏は笑いながら付け加えた。
「なるほど……。じゃあ次だ。何で俺が正面に回りこむって分かったんだ?」
「それは賭けに勝っただけよ。確信はなかったわ」
「は?」
 思わず柳也は杏の顔を見ていた。それを涼しい顔で受け止めて杏は、でも、と続けた。
「あんたには余裕があるから後ろから襲い掛かってくるより真正面に回りこむほうを選ぶと思ったわ。それが できるだけに、ね」
「でも確信はなかった、そういうことか」
 杏は頷いた。
「ま、だからこそ効果は抜群だったわ。あんたを本気で試合させるようにできたしね。で、この剣の出番ってわ け」
 そう言って杏は短剣を抜いた。それは一見すると剣に見えるが、よく見ると刀身に鏡を貼り付けたものだった。
「これであんたの目と思考を奪えたのよ。そうじゃなきゃ、いくら加速していてもあんなものにぶちあたらないで しょ?」
 そう言いながら杏は、まだ微かに濡れている髪を撫でた。
「あれは……呪具か?」
「そういうこと。物の大きさを自由に変えることのできる効果よ。で、飛び散った水を大きくして水の壁にしたわ け」
 あの時杏は体を回転させながら大黒庵で飛び散った水を無作為に大きくしていた。そして壁となった水に柳也は激しく叩きつけられたのである。
「もっとも、どこから来るか分からなかったから、全周囲に展開するしかなかったけどね。あと、あんたが縮地 を使えなかったら水が先に落ちていたわね」
 柳也はふうっと、大きく息をついた。その顔は憑き物が落ちたかのように晴れやかだ。
「ずぶ濡れで来たときにはふざけた奴だと思ったが、全てが計算されていたわけか」
「あー、あれはちょっと直前にトラブルがあったからああなったんで、計算してのことじゃないわよ。利用できる と思ったから使ったわけ」
 そう言うと、あはは、と杏は照れ笑いを浮かべ、柳也も釣られて笑顔になった。
 そしてひとしきり笑った後、杏は少しだけ真顔になって言った。
「それじゃ、行くわね。お大事に」
「ああ、わざわざすまなかったな」
 杏と柳也はどちらともなく手を差し出し、握手をした。そしてそれ以上は何も言わず杏は部屋を出て行った。
 そして残された柳也は呟いた。
「勝ち目などなかったな」
 そして疲れた体をベッドに沈め、目を閉じた。
 外では喧騒が続いている。だが柳也にとってはもう他人事になっていた。


あとがき

 初めまして、KXと申します。
 今回は勢いにまかせて書いたSSを読んでくださいましてありがとうございます。
 
 私は『神魔』の中ではかなり弱い力を知恵で補う杏の戦い方が好きです。
 それに刺激を受けて考えてみました。
 結果、自分で言うのもなんですが、かなり姑息な策になりました(汗
 縮地を神無月さんが出してくれたおかげで、どうにか目処が立ったという……。
 そういう点でも、「神無月さんありがとう」という気持ちで書いてました。

 何はともあれ アップしてくださった神無月さんと共に、読んでくださった方々に感謝です。
 ありがとうございました。