いつまでも見ていた…届くはずのない空を。遠くに浮かぶ雲を眺めながら心を飛
ばした。…永遠を信じていた、あの優しい時間に…


季節は春。出会いと別れの季節。
人はそう言うけれど、俺には別れの季節でしかなかった。
産まれた日に母を…
小学校を卒業した時に父を…
去年には大切な幼馴染みを…

大切な人を失って俺の心は砕けた。
何もする気力が湧かず、無感動のがらんどう。空虚を抱いたまま日常を過ごして
きた。
あいつに、出会うまでは………


「大丈夫ですか?」
第一声がそれだった。見ず知らずの女性が話しかけてきた事にも驚いたが、いき
なり、大丈夫ですか?と問われたことにも驚いた。

「誰だよ、お前は」

俺はその時、人を嫌っていた。
いや、遠ざけていた。
――悲しい思いはしたくないから――

「俺に近付くな!!」

――俺に近付くと不幸になるから――

…それなのに。

「私があなたの光になれますように……」

…そうして、俺とこいつとの奇妙な物語が始まったのだ………




「圭一さん。朝ご飯はパンとご飯、どちらがよろしいですか?」

朝。
奇妙なやつが家に住み着いて3日経った。
しかし、そのたった3日で、こいつは家事全般をまかせられるようになり、家の
構造を把握していた。

「いつも言ってるだろう。朝飯はいらない」

「そんなんじゃ体壊しちゃいますよ〜。いいから食べてください」

妙に押しが強く、まるで…母親のようなやつだ。
(もし、母親がいるなら、こんな生活になっていたのかも…な)
意味のない仮定だが…

「分かった。一口ぐらいなら食べる」

「ふぅ……本当はちゃんと食べて欲しいのですが…」

「朝は、弱いんだ」

…俺は親父が死んでから悪夢を見るようになり、幼馴染みの優香を失ってからほ
ぼ毎晩見るようになった。
暗闇の中、無力感を抱き立ちすくむ…
そして…いつも自分の叫び声により目が覚めるのだ。

「それはしょうがないと思いますが…」

「…眠いのは分かりますが、ぎりぎりまで寝ているのは止めてください」

起こそうにも、寝顔が可愛くて起こせません!!と、少しむくれた顔で反論してく
る。
そう。こいつが来てから、毎晩見ていたはずの悪夢が現れなくなったのだ。
もちろん、親父たちのことを忘れた訳ではないし、忘れたい訳ではない。
だが、悪夢を見なくなったのは嬉しかった。

…あの夢を見る度、自分が壊れていくことが自覚出来たから…
そして…壊れることを何処かで望んでいる自分がいることも……


まぁ、そのお陰で俺は久々に熟睡することができている。
その代わりこいつに迷惑をかけているが…


「いってくる」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

毎度おなじみになった朝の風景。
こいつは学校に通ってないらしく、いつも家にいる。
俺も学校に行く気はないのだが、

「お願いです!!お願いですから、ちゃんと無事に高校は卒業してください!!」

と泣きながら諭された。
よって俺は(無駄と思いながらも)学校に行っている。

(決して…決っして泣いて欲しくないから…という訳ではない!!)

「…そういえば、俺がいない間は何をしているんだ?」

かねてより疑問に思っていたことを口にする。学校にいる約8時間。こいつは何
をしているのだろうか?

「それは…」

ふと…笑顔に蔭が差した。

「それは、企業秘密です♪」

しかし、次の瞬間にはとびっきりの笑顔でそうのたまった。

「そうか…それじゃあ…しょうがないな」

無理やりには聞きたくなかった…
何かを隠しているのは分かったが、聞けなかった。
もし、この時聞いておけば。とも思ったが…
壊したくなかったのだ。不思議と心地よい場所を、自らの手で壊したくなかった
のだ。


…たとえ、

壊れることを確信していても………



あれから1週間経った。俺たちの関係は変わらず、心地よい時間が流れていた。

しかし俺には分かっていたのだ。
…終わらないものなど、ない。
そして、この幸せな時も…間も無く終わるのだ、と。

「バタンッ!!!!」

俺はこの音を、死刑を前にした囚人のように顔で聞いていた………


「おいっ!?どうしたんだ!?」

急いで2階に駆け上がると、そこには倒れているあいつの姿があった…

「えへへっ…転んじゃった…よ」

顔面は最早蒼白。瞳には精気が感じられず、虚空を映すのみ。
死にゆく人を見てきた俺には分かる。
もう、助からない…と。

「転んじゃった、じゃないだろ!?いったい、どうして!?」

本当は分かっていたんだ。この生活が長く続くはずがないって。遠からず、こい
つは俺の元を去ると。
…そして、俺たちにはどうすることもできない。ということも…

…まただ。

…同じことの繰り返しだ。

また、俺の前から消えてゆくのか…

また、俺は一人になるのか…

なら……最初から孤独(ひとり)の方がよかった…!

「………絶望、しないで」

壊れ始めた心を繋ぎとめたのは…彼女だった。

「…絶望しないで」

もう喋ることすら出来ないはずなのに、彼女は微笑みながら俺を諭してくれた。

「ずっと一緒にいられたら良かったけど、もう駄目みたい…」

「私はあなたと離れてしまうけれど…」

「ここに……心は置いていくね………」

そして、今まで見たことのない、透明な笑みで、

「さようなら………」

この一言で、俺は彼女を引き留められないことを知る。

「……さようなら」

だから俺は、無理やりに笑顔を作った。

彼女は満足そうにそれを眺め…

忽然と、姿を消したのであった………




あいつが消えてから一年経った。
俺は今、大学に入り司法を学んでいる。
大学に入るのは難しかったが、ちゃんと学校に行っていたおかげでなんとか入る
ことが出来た。

(あいつのお陰だな)

俺を起こすのに四苦八苦していたあいつの顔を思いだし苦笑する。
とても短い間だったが、何よりも幸せだったと思える時間だった。
俺はあいつが消えた後、家の庭に墓標を作った。
その時俺はふと気付いた。

あいつの名前を俺は知らないのだ。
こんな事が本当に起こり得るのだろうか…

だから俺は時々こう考える。
もしかしたら、あいつは天使だったのではないか、と。
そして時には、あいつは本当に存在していたのだろうか…とも。

だけど…そんなこと、本当は関係ないんだ。
…あいつが天使であろうとなかろうと…

俺を、救ってくれたことには変わりがないのだから………


「そっちの天気はどうだ?」

こっちは相変わらず、いい天気だ。

遠くにある千切れた雲を見つめながら、そう呟いた。


答えは、返ってこなかった………


fin...