陽炎のような時代の中で

第九話「前夜」








秋子から出城攻略の命令が下って近衛軍は大忙しだった。なぜか秋子は数合わせとして連れてきた筈の西園八校尉に出撃命令を下したのだ。確かに情報では出城に篭る尾根兵は千足らずで、こちらは近衛軍だけではなく傭兵も多数雇っているから、数の上では問題ない。質についても、尾根の主力は後方に点在しているという情報が入ってきている。

 そして意外に知る人は少ないのだが、近衛軍はそれなりに優秀である。帝都近郊の賊退治などは近衛軍の仕事であるから実戦経験もそれなりにあるので

負けることについては誰も心配していない。ある兵士が「宰相閣下が娘に手柄を立てさせようとしたのさ」などと軽口をたたき、そしてそれはほとんどの人間の共通認識となっていた。

 だが、もともと前線に立つ予定が無かったのだ。傭兵部隊の編成や、攻城装備の準備などやることは無数にある。部隊同士の連携の最終確認もしておかないといけない。西園八校尉に筆頭である香里は編成に大忙しだ。

 だが、名雪の副官であり特にやることの無い祐一は暇をもてあましていた。西園八校尉はその名の通りに八個の部隊に分かれている。その内の一つを指揮する名雪は香里の手助けに忙しく、その代わりに副官の祐一が名雪隊の指揮を執ることになっている。

 だが、生真面目な名雪は常に自分の管轄である部隊の準備を整えてしまっていたので今の時点で祐一がやることは何も無いのである。

 夜になれば会議があるがそれまでは自由時間だといってもいい。そこで祐一はすでに仕事を終わらせていた久瀬と、副官の少女に仕事を丸投げしたらしい舞人と共にエルロンをぶらついていた。

「しかしあれだな、近衛軍として戦場に立つとは思わなかったな。実家の方で出るかもしれないとは思っていたけどさ」

「そういえば桜井のところは公爵自らが来ているのだったな」

 店で買った林檎を齧りながら舞人と久瀬が言う。

「おう。この前、たまには顔見せてやるかなと思ったらお袋が『たまには仕事しろや。腕無くなったら唾と寝床くらいは用意してやる』とか抜かしやがって」

「ついでにくたばってくれれば僕としては嬉しいのだがね」

「なぁ久瀬。お前俺のこと嫌いだろ」

「いきなり後ろから殴り倒してくる奴に好意を抱けなど無理な話だろう」

「まだ怒ってるのかよ」

 小さい男だと舞人が肩をすくめる。無茶を言うなと祐一は思った。無論口には出さなかったが。

 芯だけになった林檎をゴミ箱に投げつけて、舞人は肩を回す。

「それにしても暇だな」

「そう思うなら手伝ってやれよ」

 自分の仕事を他人に押し付けたことを脇に放り投げた舞人に祐一は溜息しか出ない。

「この至高なる公爵子息の舞人様に裏方仕事をさせようと言うのか……一般市民め恥を知りなさい恥を」

「すまん、これでも帝国宰相を三代続けて出した一族なんだ」

「とても高貴でいらっしゃる!?」

 とそんな風に馬鹿話をしながらエルロンの通りを歩く三人。それはほとんど観光気分だった。




「この人形、あゆが喜ぶんじゃないか?」

「いや、彼女もさすがにそこまで子どもでは無いだろう」

「いやいや久瀬さんよ、あの外見だぞ。そこまで子どもじゃなければなんだと……ってあれ真さんじゃないか?」

 ぶらりと入った雑貨屋を漁っていた三人は見知った顔を見つけた。

 丘野真。祐一たちより一つ年上の青年であり、すでに帝国全土でも勇将として知られている。真の妹のひなたと、祐一達は友人で、真が風音に移住するのにひなたがついていくまでは、祐一達四人は帝都で悪ガキとして知られていた。その時にしでかした出来事を真にかばってもらったりと色々と世話になっており、祐一たちにとって真は頭の上がらない先輩である。

 祐一たちが真に気付くのとほぼ同時に真の方も祐一たちの存在に気がついたようだった。

「久しぶりだね」

「お久しぶりです」

「元気にしてるかい?」

「まぁ変わらずにやってますよ。なぁ舞人」

「この進化する男桜井に変わってないか、など愚問を。この桜井舞人、男子三日会わざれば活目して見よとの諺の通り常に進化し続けているのですよ」

「とりあえず変わってないことだけは解ったよ」

「ちょ、真さん。よく見てくださいよ。この桜井舞人の進化へのあふれる欲求を」

「そのへんが変わってないよ」

 舞人の言葉に苦笑する真。祐一はその笑みにどこか暗い影があるように感じられた。

「そういえばひなたは?」

「んー、ちょっと最近は寝込んでてね。今回は参加してないんだ」

 あの元気娘が珍しいこともあるもんだと祐一達は顔を見合わせる。舞人なんかは

「あのひなたが病気? ひなたにも感染するウィルスに一般人は抵抗できるはずも無い。ああ世界は滅びるのか」

 と大げさな身振りをしながら目頭を押さえたりしている。

「桜井、お前は人に気を使えということを親から教わらなかったのか?」

「ないな。人に気を使うよりも人に気を使わせろ。それがあの母親の下で生き抜くために学んだことだな」

「まぁ人に気を使う桜井など見ていて気持ち悪いだけだからどうでもいいが」

「どうでもいいんかいっ!? つーか気持ち悪いとかひどいぞ、久瀬」

 もっと別の反応を期待していたのか思わずつっこんでしまう舞人に祐一と真は笑って顔を見合わせる。

「そういえば真さんも城攻めに加わるんですか?」

「僕は今回は風音の武将としてきてるからね。命令どおり君たちの後詰でもやってるよ」

「なんだ俺達だけで攻めるんじゃないのか?」

「馬鹿か君は?」

 舞人の疑問に久瀬が辛辣に肩をすくめる。

「馬鹿とはなんだ馬鹿とは」

「戦場では何があるか解らないんだ。もしものときの為に保険として予備の戦力を用意しておくのは戦術の基本だろう。学校でも習っただろうに」

「……そうだっけ?」

「俺に聞くな」

「君たちよく卒業できたな」

 祐一と舞人が顔を見合わせるのを見て久瀬があきれたと溜息をつく。そんな三人にとっては何時もどおりのやり取りに真は笑みをこぼした。

「やっぱり変わらないな君たちは」

「まぁ人間、そんな簡単に変わりませんよ」

「それもそうだね。ところで時間は大丈夫なのかい?」

「え?」

「もう夕方だけど」

 真の言葉に三人の視線が店の窓へと一斉に移る。何時の間にか日はどっぷりと沈んでいた。三人の顔から一斉に血の気が引いていく。

「やばいやばいやばいやばいどうする? 祐一、久瀬」

「どうするもなにも早く帰るしかないだろう。急げばまだ間に合うかもしれん」

「そうだな。それじゃあ真さん、俺達はこれで」

 挨拶もそこそこに祐一たちは店から転がるように飛び出ていく。必死になって走る三人の後ろ姿をさびしそうな目で真は見つめるのだった。




「あなた達には軍人としての自覚というものは無いの!」

「まぁまぁ香里落ち着こうよ」

「そうだよ香里さん。三人とも反省してるみたいだし」

「そうだそうだ。俺達は十分反省しているぞ」

「だからこの下に敷いてあるでこぼこの岩を外すことを要求する。というか外してくださいお願いします」

「……」

「おい久瀬、お前からも何か言えよ」

「美坂さん」

「なにかしら?」

「とりあえず両脇が煩いから上にもう一つ石を乗っけたほうが良いと思う」

「了解」

「裏切りものー!」

 




 案の定たっぷりと遅刻してしまった祐一たち三人は天幕の中で香里の折檻もといお仕置きを受けていた。洗濯板のようなぎざぎざの岩の上に正座しその上に重りとしての石版を乗っけるという「それ、どこの拷問?」というようなしろものである。

 さすがにこれはどうかなとあゆと名雪は香里を止めようとしたものの、香里のあまりの迫力の前に控えめにしか言う事が出来なかった。戦闘前の大事な軍議をブッチした三人に対して香里がこれ以上ないほどに怒っていたからだ。名雪もあゆも自分の身が可愛いのである。

 さすがに石版が四つ目になると香里を止めたのだが。

 それにしても三つの石版を乗っけられても(祐一と舞人は結局五つ載せられた)ぴんぴんしている三人はかなり丈夫に出来ているらしかった。

「おー痛ぇ。そんなに怒ってばかりだと小じわが増えますよ香里さんや」

「桜井くんはもう一回、今度は十枚でやりたいみたいね」

「とても人道に反する行動だとこの桜井舞人は愚考いたします。捕虜虐待禁止!」

「桜井くん捕虜じゃないし」

「そいつは盲点!」

「いい加減話を進めないか?」

 このままでは話が進まないと久瀬が口を挟む。ただでさえ先ほどのお仕置きで時間がたっているのだ。このまま黙ってみていれば朝になっても終わりそうに無い。

「そうね。話を進めましょう。出陣はあさっての朝。私達が先陣で後詰に風音がつくわ。総数はざっと一万五千」

「意外と多いな。城にいる兵は千人くらいなんだろう?」

「少ないよりはましでしょう」

「確かにな」

「確かに相沢くんのいう通り城にいる敵兵は千人程度だっていう話だけどいつ敵の援軍が来るか解らないわ。ちゃんと気を引き締めること。いいわね桜井くん」

「何故私にだけ念を押すのですか? これは差別だ! 待遇改善を要求する」

「桜井くんの部隊が援軍担当だからだよ」

「なるほど。って俺だけかよ」

「私達もだよ」

 名雪は舞人に編成表を手渡した。舞人、名雪、そしてエルロンで募集した傭兵達が外周担当で、他の部隊が城攻め担当になっている。後詰の風音軍は先陣が出発してから一日後に出発する予定となっている。

 砦ほどの小さな城を攻め落とすには万全の備えだった。

「明日は最終的な確認を行うから逃げないようにね」

 香里が舞人に視線でくぎを刺す。おそらく祐一は名雪の、久瀬はあゆの担当だと思っているのだろう。

 それで解散になった。名雪は祐一と共に天幕から出る。雲一つ無い綺麗な星空だった。

「ねぇ、祐一」

「なんだ?」

「見つかった?」

 祐一がたじろいだ気配が後ろから伝わってくる。

「何のことだ?」

「時菜のこと。わざわざ探してくれてたんでしょう?」

 尾根連邦総督による帝都の奇襲。その日以来、大事な妹の行方がようとしてしれなくなっていた。軍務の合間をぬって必死に探したが手がかり一つ見つけることが出来なかった。祐一が舞人と久瀬を連れてエルロンを巡っていたのも、彼らに人探しを頼んだからだった。その代わりに久瀬のプレゼント選びと舞人のエルロン観光にも付き合ったのだった。

「まぁ、家族だからな」

 照れくさそうな祐一の気配が伝わってきた。それに苦笑する。

「そうだね」

「でも時菜も俺ほどじゃないけど放浪癖みたいなのがあるからな。ひょっこり帰ってくるさ」

「置手紙一つで一ヶ月もいなくなる祐一が言うと説得力があるね」

「ほっとけ」

「ふふ」

 名雪だけでなく、祐一にも笑みがこぼれる。

 名雪は時菜の双子の姉だ。だから時菜のことは誰よりも、ある意味では時菜以上に知っていると思っている。だから時菜が死んでしまったと名雪は本気で思っている訳ではない。水瀬時菜はそんなに弱くないのだ。

 だが、もしもすでに時菜がこの世にいなければ

「許して置けないよね」

 彼女の特徴とも言えるぽやぽやした口調の言葉の内容は怖いくらい物騒だった。

 後ろにいた祐一がどう受け取ったかは気配だけではわからない。

 だが、彼もゆっくりと呟いたのだった。

「そうだな。人の家族に手を出した奴を許しちゃおけないよな」




 時菜が盛大にくしゃみをした。

 あまりに突然だったから、北川は手入れしていた佩剣を取り落としてしまう。

「す、すみません」

「いや、大丈夫だけど……風邪でも引いた?」

 拾ってくれた剣を受け取りながら問う。解りませんと時菜は答えた。

「誰かが噂してるんじゃないの?」

 そう言ったのは真琴だった。

「どうでしょうね」

 時菜がさびしそうな顔で真琴に答える。何故そんな顔をするのかが気にはなったが聞かなかった。誰にでも言いたくないことはある。言いたくなったら自分から言うだろう。それを解っているから真琴も話題を変えた。

 ちなみに、今ここにいるのは北川と真琴と時菜の三人だけである。夕陽をチリスを引っ張って剣の鍛錬をしているし、美汐は美沙と丁々発止の交渉をしているだろう。貧乏傭兵団にとって資金の調達というのは想像以上に大切なのだ。他の兵士たちも今夜は外出許可が出たのでほとんどがエルロンへと夜遊びに出かけている。

 磨き薬を刃に塗って乾いた布で磨く。ただそれだけを何度も繰り返す。拭き終わったら角度を変えて眺める。覗き込んだ顔が綺麗に反射するくらいまで磨けばそれで終了だ。

「すごい真剣ですね」

 時菜が後ろから覗き込んできた。

「あれ? 真琴ちゃんは?」

「退屈だって言って夕陽さんのところへ行っちゃいました」

「いつ?」

「結構前ですよ」

 結構な時間剣を磨いていたらしい。剣の手入れというのは時たま自分でも驚くほどに没頭してしまう。特に今のように戦争前だとなおさらだ。

 こんこんと剣の鞘で頭をかく。

「良い剣ですね。それ」

「分かる?」

「ええ、まぁ」

「結構な業物だよ。銘は伝わってないけどね」

 いまだ抜き身だった剣を鞘へとしまって床へと置く。

「いつもあんなに真剣に手入れしてるんですか?」

「数少ない商売道具だからな。大切にしないと商売あがったりだ」

 おどけて北川は笑う。だが時菜は深刻な表情を浮かべて北川に問いかける。

「北川さんは戦争が怖くないんですか?」

「……」

「私は怖いです。初めてだっていうのもあるけど、痛い目にもあいたくないし、死にたくも無い」

「……」

「ごめんなさい。自分からついてきて、今更こんなことじゃ駄目ですよね。それじゃあ私はこれで」

 失礼します。

 立ち上がって走り去ろうとする。その手を北川は掴んで身体ごと引き寄せた。

 急に引っ張られて倒れこむ時菜の身体をやさしく北川は抱きとめる。

 目を白黒させている時菜にやさしく北川は告げた。

「誰だって怖いさ。俺も。真琴ちゃんもチリスも戦場に立つ前は怖い。だから剣を磨いたり、鍛錬したりして気を紛らわせているんだ。

 でも戦場に立てばそんな事は気にならなくなるんだ。生き残ることに精一杯で、怖いと思う暇なんてなくなるもんさ」

「もし戦いが始まっても怖かったら?」

「その時は俺の後ろにいたらいいさ」

 泣きそうな顔をしている時菜に向けて笑顔で親指を上へと突き上げた。

「ちゃんと守ってやるからさ」




 

 夕陽が振り下ろす剣をチリスが鉄爪で受け流す。体勢の崩れた夕陽の額をちょんと爪の先でつつく。負けじと夕陽が剣を振るうが全てチリスにかわされるか受け流されるかして、そして出来た隙にチリスの反撃を受ける。それをチリスと夕陽は何度も繰り返している。

 それを離れた場所で、真琴は眺めていた。さっきまでは北川の天幕にいたのだが、天幕の中にいたら北嶺を出たときから胸の中で燻っているもやもやが大きくなりそうだったのだ。

 横で同じように夕陽とチリスを眺めていた伊井波に真琴は視線を向けた。

「あれは夕陽が弱いの?」

「まさか。あの半裸男が化け物なだけさ」

 今だに信じられないけどねと伊井波は真琴に肩をすくめてみせる。

 決して夕陽は手を抜いている訳ではない。夕陽の剣は速い。光が奔った。表現するならその一言が最も的確だろう。それくらい速い太刀筋だ。普通なら心気を充実させて始めて一閃放つことの出来るかどうかという太刀筋を少女は右へ左へと連続で繰り出し続ける。それだけでその夕陽の剣士としての腕がどれほどのものかわかろうというものだ。

 今夕陽が使っている剣も、チリスがつけている鉄爪も戦いで使う本物だ。だがチリスのさらけ出された上半身にはかすり傷一つ無いし、何度もつつかれている夕陽にも傷一つ無い。真剣で対峙している相手にも傷一つ負わせずに力の差を見せ付けるなんてことは、両方に力の差が相当有って、しかも強者の力が圧倒的でなければ出来ないことだ。

 まったく信じられない話だ。灼熱といわれた時からの付き合いだが、普段を知っているだけに余計に。

 普段からと言えば伊井波もそうだ。深窓の令嬢のような容姿をしているくせに、北華でも有数の傭兵隊長で、北嶺でも真琴や北川を含めた傭兵集団全体の指揮官だった。今回の傭兵部隊でも、その経験から傭兵部隊全体の指揮を任されている。といっても、今回の募集に応じた傭兵の八割以上が北嶺から流れてきた傭兵だったが。

 そこまで考えて、真琴は不意に思いついた。もしかしたら、伊井波なら北嶺を出てから付きまとっているこの胸の中の違和感がわかるかもしれない。

「ねぇ、伊井波」

「なにさ? 狐のお嬢様」

「あんた、北華の外で戦争したことある?」

「はい?」

 予想外の質問だったのだろう。少し、伊井波がうろたえたように真琴には感じられた。だが伊井波がどう思おうが真琴の知ったことではないので質問を続けた。

「どうなの? あるの? それとも無いの?」

「そりゃああるけど、それがどうかしたか」

「なんか違和感みたいなのがあるのよ。北華じゃ感じなかった違和感」

「違和感? 何だ、それ?」

「何だって言われて説明できるならこんな言い方しないわよぅ」

「そりゃそうだ」

 普段なら気にも留めないような、小さなざわめきだ。違和感という言葉が正しいかどうかすら解らない、その程度だ。もうすぐ戦いだからだろうか。その違和感そのものより、違和感があるという事実が、むしょうに真琴には気になった。

「戦争前だからよ」

 ひとしきり笑った伊井波が真琴の髪の毛をくしゃくしゃに撫でる。

「馴れない場所で、しかも戦争前だ。それで心が不安になっただけさ」

「そうなの?」

「さぁ。適当言っただけだから」

 がくっと、真琴の身体が崩れ落ちる。

 考えてもみれば伊井波に意見を求めた自分がどうかしていた。取り合えず文句を言ってやろうと伊井波へと視線を向ける。

「どう? まだその違和感ってのはある?」

 真琴を制して伊井波が口を開く。確かに胸の中にあった違和感は消えていた。もしかしたら本当に伊井波の言う通り、馴れない地で不安になっていただけかもしれない。

 だが素直に礼を言うのも癪な話である。特に伊井波に対しては。

「伊井波がまともなことを言ってること自体が違和感よ」

「お前は私にどうしろと言うんだ?」

「でも、ありがとう」

 胸に引っかかっていたもやもやが消えたことは事実だったから、そのことに対して真琴は礼を言った。

 この時のざわめきが決して気のせいで無かったことを、後に真琴は様々な感慨と共に思い出すことになることを、彼女は知らない。そして彼女だけでなく、世界のほとんどの人々がこれからの時代についてあまりにも無知であった。