陽炎のような時代の中で
第八話「思惑」
本格的な冬の訪れを告げるように窓のそとには雪が降り積もっている。
今はそれほど激しい勢いで振っているわけではないのだがこの地方ではこれからが冬の本番といえる季節だ。それほど日をおかずに一面を白く染めるくらいにはなるだろう。
大陸で最大の領土をもつ神聖季衣帝国と尾根連邦が開戦してからまだ一月もたっていない。だがその僅かな期間で季衣は二十万と称する大軍を送りこんできた。
実際はその数よりも少ないだろうが、それでも十五万を超える大軍なのは間違いない。
こちらが宣戦布告するまで何も備えをしていなかったはずだ。それなのにこれだけの大軍を短時間で組織出来るとはもう驚きを通りこして呆れさえしてしまう。
それにたいしてこちらはどうかきあつめても十万を少しこえるか超えないか程度しか動員できず、しかもそれすらも季衣より先に準備していたにも関わらずにまだ動員すらできていないという状況だ。
まあそれは始まる前からわかっていたことだ。今更愚痴ったところで仕方無い。
そもそも、この戦争に勝てる可能性など万に一つも見出してはいない。精々二分八分で負けない戦いが出来る程度だろうと思っている。当然負けるほうが八分で引き分けが二分だ。
それでも、今しかなかったのだ。負けない勝負が少しでも出来る時は。
小国家の
そっと溜息をついて、尾根連邦の総督である折原浩平はゆっくりと目の前の扉を開けた。
木の軋む音で、室内のざわめきがしんと静まった。
ゆっくりと開かれる扉を目の端で確認しながら、長森瑞佳は長棹を囲む者たちをざっと見回した。
だれもかれもが隙を決して見せないように警戒を露にしている。季衣と戦うための席だというのに、彼らの頭にあるのは季衣と戦うための戦術ではなく、どうやって他の者をだしぬくかという考えだけだ。
これが、尾根の現実だった。彼らにとって敵は季衣ではない。同じ尾根に領地を持つ、他の勢力こそが敵なのだ。
尾根連邦などという国家は形だけで、その実体はもう崩壊しているのと同じだった。
ゆっくりとした足取りの浩平が席につくと、案の定待ちかねたように中の一人が声を発した。
「総督。これはどういうことなのか説明してもらえるのでしょうな」
「説明?」
悠然とした態度で、浩平が逆に聞き返した。
「これほど早く季衣が戦力を整えるなど私は聞いていないぞ」
「当たり前だろ。言ってないんだから」
「なっ……」
浩平が本当に当然のことのように言ったのでその男だけでなく、長棹を囲んでいる者の多くがおなじように気色ばんだ。
「話が違うではないか!」
「ほう。俺が嘘を言ったとでも言うのか、お前は」
「私は季衣と戦う自信があるというから兵をだしたのだ。これでは話が違うではないか」
「どこが違うってんだ。たしかに季衣の動員は早かったけどそれを読みきれなかったのはお前の責任だろうが。それに俺は季衣が戦力を整える前に戦うなんて一言も言ってないぞ」
「しかし」
「もうお前黙れ。それ以上喋ると自分の無能をさらけ出すだけだぜ。それでもいいなら勝手にさえずってればいいけどな」
冷たく言い放って浩平は男をにらみつける。
その眼光に押されて、男は押し黙った。
幼稚な陰謀や駆け引きだけを繰り返してきた男だ。本当の駆け引きというものを知らない。一国の王としてタイプムーンら周辺の国家と戦い続けてきた浩平とは器が違う。
尾根連邦の総督とはいっても、そして連邦最大の領主といえども大陸全体で見れば小国にすぎない浩平はあらゆる手を使って生き延びてきたのだ。潜り抜けてきた修羅場の数が違う。身に染み込んだ血の匂いの量が、違う。
折原国王の盟友として、それ以上に幼馴染としてずっと隣にいた長森瑞佳がそれを一番良く知っている。
そして、どうして浩平がこの戦争を始めたのか、その理由も。
一向に進まない議論を進めるために発言を求めようと手を上げるその前に、一人の少女が手を上げていた。
「それで浩平君、私はどうすればいいのかな?」
問いかけの形で指示を求めたのは川名みさきだった。
「私達はいつでも出陣できるけど?」
「あー、先輩はしばらく待機していてください。決戦は七瀬領まで季衣を引き込んでからです。しばらく休んで鋭気を養っててください」
「それでいいの?」
「もちろん。もともとそのつもりで呼んだんですから。先輩に無理させちゃあ折原浩平の名がすたるってもんですよ」
おどけた調子で浩平が腕を叩いてみせる。みさきが浩平に従う姿勢を見せたことで自然とその場は浩平に従っておこうという雰囲気になっていた。
会議が終わった部屋から出て行こうとした瑞佳は後ろから声をかけられた。
「ちょっといいかな?」
「どうしたんです? みさきさん」
「ちょっと話したいことがあってね。……浩平君のことで」
「……いいですよ」
みさきの誘いに瑞佳は頷いた。
みさきが視線で席へとさす。椅子に座った彼女の横に自分も座った。
部屋の中が二人きりになって、まず瑞佳が切り出した。
「それで、何の用ですか?」
「そんな怖い顔しないでよ。と言っても私は目が見えないんだけどね」
ふふっとみさきが笑う
盲目だという噂は本当のことらしい。
そのわりに不自由はしていないようなのだが何かあるのだろうか。
「まあ、そんなことはどうでもいいよ。皆を纏めるのに苦労してるみたいだね」
「ええ。今は皆の力を合わせて帝国と戦うときなのにどうして足を引っ張り合っているのかが」
「わからない?」
「ええ」
わかるわけが無かった。どうして浩平がこんなにも無理をしているのに誰も手伝ってくれないのだろうか。浩平がそんなに好きで戦争をしていると、みんな思っているのだろうか。
だが、そんな瑞佳の思いを見透かしたように、みさきが言った。
「彼らにも彼らの理由があり、あなたにはあなたの理由がある。だから皆の意見が食い違うんだよ。あなたは浩平君の残された時間が、悔いの無いものになるようにしたらいいと思うよ」
その言葉に、思わずみさきの顔を見つめる。このことを、みさきが知っているはずが無かった。ずっと一緒にいた瑞佳だから知っていることで、他の人間が知りえることではないのだ。
「なんで……あなたがそのことを」
「浩平君とは偶然の縁でしばらく親しくしていたんだ。その時に知ったんだよ」
椅子から立ち上がりながらくるりとみさきが身をひるがえして、にっこりと瑞佳に向けて笑った。
「話はそれだけ。付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそありがとうございました」
たいしたことを話したわけではない。ほんの二言三言、言葉を交わしただけだ。だけどその言葉は瑞佳の中にすっ、と入ってくる。そういえばここしばらくこうして他の人と話すことなど無かったかもしれない。
確かな足取りで部屋から出て行くみさきの姿が見えなくなるまで、その背中を瑞佳は見送った。
尾根と季衣の国境地帯。
それは、大陸を縦に分かつ大河によって、大陸を代表する二つの国家はすみわけが行われている。そして両岸に肥沃な穀倉地帯と、銀山を初めとする資源地帯が帯のように存在していることから、二つの国家が成立する以前から、抗争が耐えない地域でもある。尾根と季衣の争いの歴史は、この大河の両岸を巡る歴史であると言っても良いだろう。
ここ数年は河の西側を尾根が、東側を季衣が治めるようになっていたが、今、水瀬秋子が率いる季衣帝国軍は、大河の西岸にまで兵を進めていた。
途中、住井軍に対する備えとして幾らかの兵力をのこしてきたものの、それでもまだ十万を軽く超えるほどの大兵力である。
だが、即座に尾根領内に雪崩れ込むという訳にはいかない。大軍であればあるほど、その維持には多大な労力が必要なのだ。特に補給線の確保は、絶対に必要な措置である。
その為に季衣軍は、七瀬城を望む港街エルロンに軍を駐留させていた。大河流域でも最大の規模を誇るこの都市を押さえることで、尾根に対する圧迫を強めるという狙いもあった。
そして、エルロンの経済力は、季衣軍を支える上でも、絶対に必要なものであった。
連邦総督折原浩平自らの帝都攻撃に対して、短時間で十万を超える兵力を動員したために、準備が出来ていない。いわば、今の季衣軍は数が多いだけの、張子の虎だと言ってしまっても良かった。
「それで、こっからどないするんや?」
そのことを良く知っている神尾晴子、この戦争の立案者を問い詰める。自身も領地を持っている領主なだけに、軍事にどれだけの苦労と労力が掛かるかを身をもって知っている。だから、彼女の目から見て、この戦争は、傍目から見る程楽なものではないことを解っている。だから余計に、何故目の前にいる女性がこんなことをしでかしたのかが解らない。
そんな疑問の先にいる女性、水瀬秋子はその問いに答える。
「エルロンで補給を整えた後、全力で進軍。尾根の首都を囲みます」
「そんなこと聞いてへん。リーフとの国境の兵までひっぱて来て、何をしたいんやあんたは?」
季衣と国境を接しているのは、西の尾根だけでは無い。東にもリーフと呼ばれる国々が国境を接していた。
リーフは幾つもの小勢力の総称である。だがいくら一つ一つの勢力が小さくてもまとまれば大きな脅威となる。だが秋子はそのリーフとの国境の兵力までもこの戦争に動員していた。これではリーフに、どうぞ襲ってくださいと言っているのと同じだ。このままでは帝国東部のほとんどがリーフの侵攻を受けてしまう。
リーフは一つ一つなら大した相手では無い。だが、連合されるともしかすると尾根よりも厄介な敵になるかもしれなかった。
「帝国の東半分、リーフにくれてやる気か?」
「まさか。あなたにすればそちらのほうが良いのかもしれませんが」
「見損なうなや。いくらあたしでも地元だけがよければそれで良いなんて思っとらんわ。それに秋子、何でお前そんなに急いでるんや? 尾根を攻めるにしてもそんなに急ぐことあらへんやろう」
「ふふ、どうしてでしょうか」
口元に手を当てて、秋子は微かに笑う。
秋子が何を考えているかを理解できず、その場にいた多くの者達の背筋にひやりとしたものが走った。
その中で一人、神尾晴子だけが何かを考え込むように顎に手をあてている。
「しかし、あまりここに長居するわけにも参りませんね」
帝国宰相の呟きは誰にもとがめられずに宙へと消えていった。
港町エルロン。大陸の二大国家を横に分け、北海へと注ぐ大河に突き出た小さな半島にあるこの港町は商業の要衝として普段から人々が行きかい、常に活発に蠢いている。大陸外の目新しい品物も多数売り買いされるこの街は、俗に大陸でもっとも銭が動く街とも言われている。
その最も銭の動く街で、多分最も銭を動かしていない集団が深刻な顔で顔を突き合わせていた。
「そんなにヤバイのか? 美汐ちゃん」
北川の問いかけに、天野美汐は深刻な顔をして頷く。
「ヤバイですね。正直言って許可が得られるなら今すぐにでもこの街を略奪したいくらいです」
「真琴としてはそれでもかまわないけど」
「そんな事をしたら帝国軍を敵に回しますよ。雇って貰おうとしてるのにそんなことできるわけ無いじゃない」
「私達の力を見せ付けちゃえば向こうから頭を下げてくるわよう」
「……この馬鹿狐」
「夕陽。もう一度言ってみなさいよう」
「真琴ちゃんも夕陽も落ち着け」
つかみ合いになりそうになった二人を、北川が押しとどめる。水と油のような二人だから、仲裁もなれたものだ。
「お金が入用なら私が貸しますけど」
少し離れた位置からやり取りを眺めていた菓子折美沙が言った。
「冗談。貴女に借りたら利子だけで血も出なくなってしまいますよ」
「美汐さんも手厳しいですね」
帳簿を挟んで向かい合う女性が二人。それは、
「シュールだな」
「と言うか怖いよ」
隣の席にいたチリスと伊井波が顔を出してくる。
「お前ら、何してるんだ?」
「見てわからんか? 食事だ」
「右に同じだよ」
「暇だな、お前ら」
杯になみなみと盛られた麦酒を、チリスが一息に飲み干す。机の上に並んでいる料理を見て北川は思った。こいつ等死んでしまえ。
「北川と違って、金には困ってないからな。伊井波もそうだろう?」
「そーゆーこと」
手に持っていた杯を傾けて、伊井波の形の良い喉元が何度も上下する。貴族のお嬢様と言われたら信じてしまいそうなほどに、白い肌だ。杯を持つ指も、細く長い。それで北華でも五本の指に入る傭兵隊長だというのだから、全く世の中は信用ならない。
「それで、北っちはこれからどうするの?」
酒のせいか微かに紅くなった顔で、伊井波が聞く。
「どうするって何が?」
「何がって、どうにかしてもぐり込むつもりなんでしょう?」
「そりゃあ、まぁ」
そうしなければ待っているのは飢え死にだ。それ以前に、北嶺からエルロンまでやってきたのは戦争をするためだ。少なくとも帳簿を挟んで金貸しと交渉したり、隣の席で馬鹿食いしている奴等を尻目にさびしく水を飲んだり、目を離した隙に殴り合いをしたりする為では断じて無い。
「だったらいい話があるんだけど」
だらけきったニヤニヤ顔で伊井波が言ってくる。ここで頷いてはプライドに関わる。武士は食わねど高楊枝と、北川は胸を張った。
「断る」
「じゃあいいわ」
「嘘です。乗ります。ですから内容を教えてください」
「プライドは無いのか? お主」
「は? プライドで飯は食えるの?」
「嫌、もういい」
やれやれと肩をすくめるチリスを無視して、北川は伊井波に詰め寄る。
「それで、いい話ってなんだ?」
「このエルロンと七瀬城のちょうど中間辺りにさ、出城があるでしょう」
「七瀬領の領界付近のか?」
「それ。そこを攻めるから傭兵を募集してるって……どうしたの?」
「ありえん」
太陽が西から昇ったと言わんばかりの顔をして、北川が呟く。いつの間にか横で話を聞いていた真琴と夕陽も同じ表情を浮かべている。
「ありえないわ」
「ありえないわよう」
「何が?」
異様な迫力に、伊井波がのけぞった。三人の目が異様に輝いている。
「「「あの伊井波がまともなこと言った!」」」
「ちょっと話をしようか?」
鼻先に剣を突きつけられて北川が冗談だと手を上げる。
「それでお前らはどうするんだ?」
「どうするも何も俺はここに観光に来たわけではない。傭兵としては当然参加するさ」
「北嶺から来た奴等のほとんどが参加するみたいよ。というか今のところあなた達以外の皆が参加するって言ってるわ」
「知らなかったのは私達だけなのぉ?」
「みたい、ですね」
愚痴をこぼす真琴に、隣に座っていた時菜が困ったような顔をして笑った。北嶺からの旅の間に時菜は北川達によく馴染んでいて今では北川の傭兵団の一員のようになっている。
「隊長……どうしますか?」
美汐の視線を感じながら北川は視線を上げる。酒場の喧騒が吸い込まれるように耳に響いてくる。
確かに美味しい話だ。だが、何か引っかかる。それは多分、チリスも伊井波も一緒だろう。だからすっきりしない話し方をしている。だが、それでも戦うのが傭兵という奴だった。人を殺す以外に能が無いのが、北華の傭兵だった。 だから考えていても仕方が無いと北川はつとめて明るい声を出した。 「そんなの決まってるだろう。俺達で手柄を独り占めしてやろうぜ」 おおっ、と美汐たちの上は喚声をあげた。