……夢……


……夢を見ている……


……他愛も無かった日々……


……懐かしい日々……


……平穏な日々……


……一体いつからだったのだろう……


……いつもの日々が壊れたのは……


……いや、違う……


……壊れたんじゃない……


……壊されたんだ……



……たった一通の手紙によって……




Red Geranium
〜君ありて幸福〜
第壱話

「旅立ち」



 あの日まで、俺の生活は極々ありふれた家庭だった。

 家は自然に溶け込むように、山の中腹に木造の山小屋ロッジ風の建物が一軒。そこが俺の家。
 騒々しい街の喧騒からは離れていて、且つ下りれば、すぐ街という良い場所だ。
 
 春は花が咲き、夏は蝉が五月蝿く、秋は紅葉が舞い、冬は草に霜がかかる。そんな当たり前のことが強く感じられる所だった。さらに木造りの家からは木の匂いが漂って、家の外も内も自然から離れたことはない。
 生まれた時から、昆虫とか動物とかが友達だったと言っていいくらいだ。
 尤も、幼児期というのは純粋無知な分、最も残酷な年頃なので、向こうからすれば単なる恐ろしい暴君だったかも知れない。

 無論、それはカタコト言葉しか喋れなかった幼少の頃の話。
 自我が芽生えてからは、ちゃんと“相沢”とか“祐一くん”とか名前を呼ぶ人間の友達を作れるようになっていた。



 家族は尊敬すべき母、“相沢あいざわ 花梨かりん”一人。他はいない。所謂、母子家庭と言う奴だ。


 母さんは素晴らしい人だ。自分で言うのも何だが……美人だし、猫可愛がりしない程度に優しく、理不尽に叱ったりしない。叱る時は必ず理由を教えてくれるし、説教も短い。
 ただ、玉に瑕と言うべきか、少し金にせこ……もとい、あらゆる店で値切る程の節約好きという美点までお持ちである。何でも「相手が一度でも譲ったらまだ値切れる可能性は大よ」らしい。……生活力逞しい人だ。

 後、怒らせると魔神よか恐ぇ人だ……。昔、“お袋”と呼んだ時の怒りようは凄まじかった。こめかみにブッ太い青筋を浮かばせながら、聖母のように微笑み、「お袋じゃなくて、お母さんって呼びなさい。お袋じゃ、凄く老けてるみたいでしょ?」と迫る姿には、首が壊れたようにガクガクと頷くしかできなかった。

 また、知識の人であり、小さい頃は母さんの部屋にある書棚が恐ろしい化け物に見えたものだ。今となっては、その書棚も俺の肩口ほどの高さでしかない。俺に読み書きやらの知識教養、そして、魔法の類を仕込んでくれたのも母さんだ。
 尤も、残念なことに俺の頭は母さんに似ず、知識や魔法といったインテリチックなモノはどうも肌に合わない。多分、極められないだろうし、あまり興味もない。


 俺はこんな母さんと二人で、つつが無い生活を送っていた。


 親父? アレは単なる“相沢あいざわ 祐斗ゆうと”と言う名称をした我が家に収入を運んでくる存在に過ぎない。

 こいつはテメェの息子を虐待するのが趣味みたいな男だ。つーか、いい年こいてガキみたいなことしやがる野郎だ。
 例えば、「ゆ〜いち君♪ 遊ぼうぜぇ〜」と木刀を肩に担いで、にこやかにもう一本木刀を差し出してくる時がある。これは正しく訳すると「腕と勘が鈍らな いようにお前イジメて保つぞ、さっさと来いや。馬鹿息子が」と云う意味だ。
 親父は討魔士ハンターと云う実に怪し気で暴力的な職業についている。そのせいか、日頃から鍛錬を怠らない。
 そんなこたぁ正直ど〜でもいいのだが、問題なのはその鍛錬の相手役に息子である俺を指名してくることだ。

 一、最も身近。
 二、一方的にボコれてストレス解消。
 三、苦情が他所から出ない。
 四、つーか、息子は父の役に立つべきだろ? ハッハッハ。

 これらが俺を指名する種々の理由だそうだ。鍛錬の最中、常に俺が殺気立っていたのは言うまでも無い。
 そんな理由のせいで、今まで何度血の味が混ざるメシを食っただろう。



 息子にこんな所業をする野郎は、絶対家族じゃねぇ……。少なくとも俺は認めちゃいない。

 しかしまぁ、一応、鏡を見れば……俺は親父に似てなくともないような気がする。……ヒジョ〜に不愉快だが。
 母さんは茶髪なのに、俺の髪は黒いし、親父も黒い。瞳の色も黒くて一緒だ。
 ちなみに母さんの瞳の色は青。世間じゃ青や緑が一般的で、黒は珍しいようだ。麓の街でもほどんど黒は見ない。
 人より少々高めの背丈も明らかに親父譲りだろうし、顔つきも最近、麓の街を歩いていると知り合いのおばさんに「祐ちゃんも、祐斗さんに似てきたわねぇ」 とかほのぼのとして言われる。……仕方ねぇ、止む得なく親父も家族と数えるか。


 よって、ウチは三人家族になる。


 母さんは家でおとなしくとは言い切れないが、兎も角、専業主婦をやっている。
 親父はさっきも言ったが、討魔士ハンターをやっている。
 討魔士ハンターと云うのは世の中を跋扈し、農作物や家畜、時には家屋や人間まで被害を及ぼす魔界からの移住者、魔物或いは魔族と呼ばれるモノを排除するのが仕事らしい。時折、親父はふらっと家から姿を失くすが、多分その時に麓の街にあるギルドからの依頼を請け負って他所へと赴いているんだろう。
 どうやら、親父はその道のプロ、凄腕らしいが、よくそんな胡散臭い職で生計が立つなと、思ったことがある。
 魔界というのも胡散臭いが、母さん曰く、“目に見えないけれど、この世界のすぐ傍に存在している世界の一つ”らしい。じゃあ、どこの国にあるの?と小 さい頃訊いた記憶があるが、“どれだけ速い馬車でも行く事のできない遠い世界でもある”とのこと。はっきり言って、意味は完全に理解していない。ただ有耶 無耶な世界なんだなという程度だ。生活にこれといって影響を持つ知識でもなかったので、捨て置いている。
 せいぜい、森でその魔界からの移住者、魔物とやらに襲われることがある程度だ。
 結構な問題かもしれないが、出くわしても、父上様の親子愛に満ち満ちた御有り難い肉体的指導の賜物で、食い殺されることもなかった。


 今、徒然と思い返せば……俺の環境は、ちょっと変だったかも知れない。

 でも、それでも、俺にとっては――それが“普通”だった。


 ある時は、裏山の湖で魚を釣り、
 ある時は、森で獲物を狩り、
 ある時は、母さんの部屋の本を読み、
 ある時は、親父の訓練に付き合い、ボコボコにされ、
 ある時は、母さんの家事を手伝い、
 ある時は、お得意の食材屋でおまけ一つ付けて貰ったり、
 ある時は、麓の街の友達と馬鹿騒ぎをして笑い、
 ある時は、街の早食い大会に親父と二人で、優勝と準優勝のツートップ狙ってみたり……


 何一つ、何一つ、変わり映えもない日々。
 少々退屈で、刺激が足りないと思う日があっても、平和で居心地の良かった日々。

 ――……普通の日々。



 あの日……そう、あの日、あの時、あの郵便受けの中に……。

 ――あの手紙がなかったら。

 俺の普通の日々は、その後もずっと続いていたのだろうか?



 ゆっくりと緩やかに、しかし、確実に変わりゆく季節のように。

 いつの日か二人の元を離れることになったとしても。

 そんなに早く訪れるだなんて、思いもしなかった。

 そんな覚悟なんて、欠片もなかった。




 親孝行の一つもしないまま、今生の別れが訪れるなんて……。
























 それは夏の真っ盛り、八月の初頭に起きた。

 親父がいなくなった前日のことは、今でもよく覚えている。
 朝の光景としては、そんなに珍しい部類でもない。
 行動だけ言えば、単に母さんが手紙を持ってきただけだ。

 ――ただ、二人の様子は尋常ではなかった。

 普段あんまり慌てたりせず、サバサバしている母さんが動揺し、必死にそれを抑えこもうとしていた。
 そして、それ以上に……。

 あんなに殺気だった雰囲気を纏った親父を見たのは初めてだった。

 その目を見た時、それが自分に向けられたものじゃないと分かってたが、それでも背筋にゾッと怖気が走った。
 何故、あんなに恐ろしい目をしていたのか、それは今も分からない。
 手紙はその時、親父が握り潰したまま、何処かへ歩き去ってしまった。
 だが、それは便箋であって、封筒の方は机に残っていたので、気になった俺はそれを手に取った。

 裏表を見ても……差出人どころか、宛名さえ書いてなかった。
 本当に真っ白な封筒。ただ中身の便箋を入れるだけが目的としか思えない。
 ただその時、俺は書中の人物がこう言っているような気がしてならなかった。



 ――読めば分かる、と……。



 それはとても不気味で、不吉な声色に聞こえた。
 今思えば、あの手紙は“凶兆の印”だったのだろう。



 翌日、親父は家を出てった。
 昨日のことは白昼夢だったのだろうかと思うくらい、出て行く時の親父の表情は普通だった。
 いや、むしろにこやかだったとさえ言える。
 だから、昨日の手紙の件とは無関係だと思った。

 だったら、一体何の用だろう? また、討魔士ハンターの仕事でも行くのか?

 そう思って、その時は特に気にも留めなかったし、哀愁もなかった。
 親父が殺しても死にそうにない男であることを、俺は骨身に染みて知っていたからだ。

 最後、親父は何って言ってたか。
 それさえ、俺は全く覚えていない。
 あまりにも日常的な会話だった。だから、覚えていない。
 唯一、覚えているのは、振り返り際に親父が見せた笑顔だけ。
 いい歳して、人を小馬鹿にするような……。


 ――ムカつくぐらい、やんちゃな笑顔だけだ……。
























 そして、二週間後。

 ――親父はまだ帰って来てなかった。

 心配しすぎだな、と思いつつも、何故か胸騒ぎが治まらなかった。
 あの差出人不明の手紙……アレがいつの間にか頭の隅に蜘蛛の巣のように巣食っていた。
 振り払っても、振り払っても、手に絡み纏わりついて離れない。
 その事をそれとなく、話題に出すと母さんは、

 「生きている限り逃れられないものもあるのよ」

 よく解らない、不明瞭な謎かけリドルみたいな答えを返してきた。
 ただ何となく、そう言った母さんは酷く寂しそうだった。

 ――肩落とした母さんなんて……見たことがなかった。

 だから、その後、俺は一度も聞かない事にした。
 当然だ。わざわざ自分の母親が悲しそうにするのを見たがる息子なんて居やしない。
 けど、胸騒ぎは払拭されるどころか、ますますその触手を広げていった。


 夜道に背後から得たいの知れない生物が、足音を立てて後ろに尾いてくるような……。
 真っ暗で、手摺も無い……いつ終わるとも知れない階段を一つ一つ下りていくような……。


 ――漠然とした不安が、平穏な日々を蝕んでいっている気がした。
























 そして、二週間後の日が落ちかけた夕方。
 趣味の一つである釣りから帰ってきた俺は、郵便受けから一通の手紙がその姿を覗かせているのを見かけた。
 今度は差出人も書いてある。というより書いてない手紙の方が珍しい。


 宛名は……相沢様へ? これって、一家全員へってことか?
 つーことは、俺が見ても構わないってことだよな。


 そんな軽い気持ちで、封を切った。しかし、俺はその封を切るべきではなかった。
 それは俺に逡巡せざるを得ない事実を教える存在だったからだ。

 要約すると――


















 ――親父が死んだ……?


















 最初はその意味が分からなかった、いや、文面の意味自体は分かっていた。
 でも、信じられるわけがなかった。
 あの親父が死んだ? 不意打ちする俺を見もせずに撃退できる男が?
 冗談にしては笑えなかった。
 悪質な悪戯だと一笑して、その場で破り捨てようとも考えた。
 ご丁寧にも、差出人は神殿の神官で、神殿の名前まで出し、あまつさえ“ご遺体はこちらで丁重に保管させて頂いております”とまで書いてある。わざわざ、そこまで正統性と具体性を持たせてる所が癪に障った。

 グッと引き裂こうとする手に力が入る。

 ――でも実際、親父は二週間前から家から出て行ったままだ。
 じゃあ、まさか……本当に本物の?

 それが脳裏を過ぎると、破ろうとした手は、急停止した。
 無視はできなかった。それでも母さんに知らせるかどうかには、かなり迷った。
 当たり前だ。つい最近、家を出て行った親父が、実は既に死んでたなんて……。

 どう言えばいい?
 一体、どう伝えればいい?
 軽い感じで口にした方がいいのか?
 それとも、前置きして、心構えさせてから、言うべきなのか?

 しばらく、俺はただジッとして、手紙を見下ろしていた。
 何の助言もしない郵便受けを相談相手にして……。

「あら。祐一、帰って来てたの?」

 母さんの声。心臓が跳ね上がり、肩がビクリと震える。

「あぁ、いや……その」

 そして、俺は最もやってはいけない愚行を犯した。
 バッと後ろ手に手紙を隠してしまったのだ。母さんの目の前で。
 動揺を押し殺す余裕が、この時の俺にはなかった。
 何より肉親の死に動揺しない程、俺は冷血漢じゃなかった。

 勘の良い母さんが、俺の挙動不審に気付かないワケがなく……。

「? 何、隠してるの? あ、もしかしてラブレターかしら? あんた結構モテるらしいしねぇ〜♪」

 違う。

 そんな縁起の良いもんじゃないんだ、コレは。


 納得してくれそうな言い訳を考える間にも、母さんは近づいてくる。
 “いつもの”チエシャ猫のような笑みを浮かべ、歩み寄ってくる。
 夏の気温によってではない汗が、額から頬へ、そして、顎へと滴り、地面に落ちる。
 焦り? 怒り? 憤り? そのどれもであり、どれでもない感情に手が震え、汗が掌中を支配する。



 どうする?

 どうすればいい?

 ビリビリに破いて解読不可能にするか?

 いや、それじゃ、どの道また遺体引取りの催促状が来るだけだ。

 受け入れ難い問題を先延ばしにしたって意味が無い。

 それにそんな事をしてしまったら、逆に後々辛いんじゃないのか?

 夫が死んでるのに、のうのうと何も知らずに暮らしてしまったって……。

 第一、親父には悪いが現実問題として、働き手がいなくなった以上、次の収入のことも考えなくてはならない。

 それも、できるだけ早くだ。

 生きている俺と母さんには、衣食住を賄う金が必要なんだから……。

 いや、今はそんなことはどうでもいい!

 そんなことは全部終わった後で考えればいい!

 節約好きな母さんのことだ。その間の貯えが無いわけが無い。

 今はどうすれば、母さんが最もショックを受けずに済むかを考えろ!


 しかし、妙案が閃くには時間があまりに無く、頭の中は混乱し過ぎていた。
 雑然とした考えを、言葉に束ねることができなかった。
 ただ、その時の俺にできたことは……。

   ひょい

 そんな効果音が付きそうな、いじめっ子がいじめられっ子の宝物を取り上げるように、手紙を持った手を高く上げることだけだった。

「……何のつもりかしら?」
「い、いや、これには、その……深いワケが……」

 気まずい雰囲気。
 俺の背は既に母さんを抜き去り、頭半分ほどの差がある。
 その母さんが俺の手に届くわけがない。
 しかし、咄嗟にやってしまったとはいえ、あまりに幼稚で、何の解決にもなってない行動だった。

 案の定、母さんの目は細剣レイピアように細まり、

   ドスッ!

「ぐはっ!」

 寸分違わず鳩尾に入る拳。反応すらできずまともに入る。
 母さんも親父に負けないぐらい強い。
 手紙が、腹部の鈍痛に喘ぐ俺の手から離れ、ヒラヒラと宙を舞う。

   ヒュッ!

 風切り音が鳴ると手紙は母さんの手の中に収まっていた。さながら、獲物を捕らえる燕。

「私に隠し事なんて、四、五年は早いわね」

 やけに具体的な年数を言って、母さんは上機嫌に文面に目を走らせて行くが……。
 ――徐々に、その表情は翳り……沈んでいった。

 見られてしまった。
 その手紙に対して、俺は何ら非があるワケでもない。
 だが、それでも“読ませてしまった”んだ。
 事実を知る過程で、関与しないことで責任を負わない。

 それはある意味、最も卑怯な手段だった……。

「そっか……祐斗、死んじゃったの」

 読み終えた母さんは、ポツリと呟いた。
 俺はその呟きに何も答えず、母さんから顔を背けた。
 しばらく、二人してその場に突っ立ていた。

 何と言えばいいのだろう?
 何と言ってこの沈黙を打ち破ればいいのだろう?
 それだけが、水たまりの浮かぶ泡のように、幾度となく浮かんでは消えていった。

 でも、沈黙は母さんの方から破ってくれた。

「さてと。洗濯物、取り込まないとね」
「え……?」

 くるりと背を向け、歩き出す母さん。その様子に俺は戸惑う。

「え? とは何よ。洗って、乾かし、畳む。それが洗濯の極意ってもんでしょう?」

 首だけ振り向いた母さんの目には潤んでさえなく、声の抑揚に震えはない。
 あまりに……いつも通りな母さんだった。





 それだけ?




 たったそれだけなのか?




 大切な伴侶が死んだって聞かされて?




 俺の人生そっくり入れたら、十六年以上の付き合いのはずなのに?




 ――サバサバしてるにも程があんだろッ!!




 気がついたら、俺は大声でそう怒鳴っていた。
 我ながらこういう時、如何しようもなく感情的になってしまうのは悪い所だと思う。

 それでも怒るでもなく母さんは、

「今更、何言っても死んだ人が甦るわけでもないでしょ?」

 そう言い残しながら、背を向けて洗濯物を干しに中庭に出て行った。
 何か他に言おうともタイミングを外した。

 後に残るのは、ほどくことなんて不可能な程複雑に絡まった負の感情。
 怒りに拳が震え、悔しさに歯を食いしばり、悲しみに頭を垂れた。
 捌け口のように投げ捨てて仕舞った釣竿を見て、自分の行いに罪悪感を覚えた。
 俺は知らず知らず、足音を大きく鳴らしながら自分の部屋へ行って、不貞寝した。

 なんてことはない。当て付けがましい無言の抗議……いや、拗ねてただけだ。



 そして、その日の深夜。
 不貞寝とはいえ、かなり早く寝たことには変わりない。
 そのせいか妙に目が冴えてしまい、何となしトイレに行ったときのことだった。
 ふと母さんの部屋から何か物音が聞こえ、耳を澄ました。すると――



 母さんの啜り泣きが聞こえた。必死に声を押し殺した……啜り泣きが。



 俺はとんでもない勘違いをしていた。母さんが悲しくないわけないじゃないか。

 二人はあまり昔のことを言わない。
 と言うよりも、俺が進んで訊いた事がないと言った方が正しいか。
 両親の馴れ初め話は……男の俺には酷く訊き辛い話題だったからだ。
 だから、どんな風に二人は出会ったとかも俺は詳しく知らない。
 けど、きっと色々大変だったに違いない。
 時々、二人してどこか遠くを見ているような……懐かしむような目をする事があったからだ。
 確かにまだ夫婦としては若い方なのかも知れないが、二人は強い絆で結ばれていたと思う。
 だからこそ、この理不尽な別れが辛いのかも知れない。

 ちょっと考えれば解ることなのに……俺は自分の事ばっかりで……。
 けど、その時、俺はなんて声をかければいいか分からなかった。
 第一、母さんは俺に知られたくないから、こんな夜中に声殺して泣いてるのだ。
 それを勝手に盗み聞きして、一体何が言えるっていうんだ……?

 俺は冷静半分、言い訳半分な理屈をこねて、足早にその場を立ち去った。……まるで、逃げ出すように。
 自己嫌悪している時に中々寝つけないのは辛かった。



 満月の浮かぶ夜。
 遠く聞こえるフクロウの鳴き声が……――酷く悲しいモノに聞こえた。
























 翌日から、俺と母さんは手紙に記されていた神殿へ、馬車で行くことになった。
 そこは俺達の家から、えらく遠い所で、北方の王国の王都だった。
 真夏だったせいか、雪国という印象は全然なかった。
 観光気分などには到底なれず、俺と母さんは真っ先に神殿に足を向けた。

 そして――親父に会った。

 久々に会った親父の顔は、まるで血の気がなくて、知らない人みたいだった。
 当然、詳しい経緯を聞きたかったが、手紙で親父の死を知らせてくれた神官はその時、不在だった。
 葬儀は、親父を安置してくれていたその神殿で行った。
 その王国では火葬が主流らしかったが、特にどこの宗教に属してなかったから気にしなかった。
 いや、もう母さんにとっては、そんなことは些細なことだったのかも知れない。


 ――最愛の夫が死んだ事実は、変わりはしないのだから……。


 俺と母さんは、遺灰の入った骨箱と遺品を持って、家へ帰った。
 ……互いほとんど会話を交わすことはなかった。
























 そして、それから数ヵ月の時間が流れた。


 時間は万能の薬とはよく言ったもので。
 母さんはまた笑うようになった。……屈託なく。
 一見すれば、それは吹っ切れたようにも見えたが、どこか無理しているように俺は見えた。
 そして、ある朝、炊事場にいないから珍しいなと思った。
 とりあえず、簡単なものを自分で作ってから呼びに行った。



 入った瞬間、何かがおかしくて・・・・・・・・、何となくわかってしまった。




 母さんがもう目を開く事がない事に……。




















 諦めにも似た落ち着きを取り戻した後のこと。
 俺は壁にもたれがかるようにして胡坐をかいて座り、ジッと母さんの顔を見た。
 母さんは安心したような、穏やかな顔をしていた。
 ただ寝てるようにも見えた。
 母さんは猫っ毛で、いつも起きた前後は髪型がめちゃくちゃになるタイプだ。
 今は、綺麗に整ってる。寝癖一つない。



 でも、その身体は……冷たかった……。



 そんな母さんを見ながら、俺はぼんやりと……止め処なく思考していた。



 まだ自殺じゃなかったのはせめてもの救いだったな、俺にとって。

 夫婦は片方が死ぬと残されたもう片方も追うように死ぬって本当なのか?

 死因は俺じゃよくわからないな。心労……か?

 そう言えば、親父が出てってからは、表情に陰が落ちていたもんな。

 ……俺のこと気にして、誤魔化すような笑顔はしていたけど。

 もし、親父が生きてたらもしかしたら母さんもまだ……。




 そこまで行って思考が一瞬止まる。





 何で、親父は死んだんだ?





 ふと、そのことが思い浮かんだ。
 ここ最近、陰のある母さんばかりが気になってて、忘れていた。
 結局、あの……最初の手紙の主は誰なんだ?

 思考が、そっちに夢中になる。


 ――宛名も差出人も無い怪し気な封筒。
 ――内容不明の手紙文。
 ――殺気立つ親父。
 ――不安げな母さん。
 ――そして……骨箱に納まる親父。


 全ての事象の紐の端っこを結ぶと、一つの絵ができる。
 大した時間も掛からず、それが浮かび上がる。
 拍子抜けするほど簡単に思い浮かぶその名。



 その絵の名は――“決闘状”



 それこそが、あの手紙の名なのか?
 それとも、違うのか?



 ……………
 …………
 ………
 ……
 …



 ――知りたい、真実を……。



 “幸せ”が壊れた原因を。
 “平穏”が崩れた理由を。



 俺には、なりたい職業、叶えたい夢、目指すべき目標……そんな物がなかった。
 慌てて探すようなことでもない。……そう、思っていた。
 けれど、今、目標ができた。いや、できてしまった。





 “手紙の真実”を知る事。――それが、今この時からの俺の行動理念だ。





 だが、予想通り“決闘状”だったら? 俺はどう・・するんだ?





 ……………
 …………
 ………
 ……
 …





 もし、勝手に俺の日常を終わらせた野郎がいるのだとしたら。
 もし、そいつが何処かでのうのうと暮らしているのだとしたら。





 俺はきっと――そいつを許せない。























 その夜、俺は親父の形見の刀“夜露”と合切袋を手に家を出ることにした。


 母さんの葬儀は家ごと燃やす火葬にしようと、思った。もう家は必要がなかった。
 誰も居ない家に意味なんか無い。第一、俺一人に住むには……思い出があり過ぎた。


 ――俺は、ただ悲しくなるだろう。……幼い頃の背の成長を切り刻んだ木柱を見る度に。
 ――俺は、ただ切なくなるだろう。……親父との喧嘩の後に貼り直した床板を見る度に。
 ――俺は、ただ虚しくなるだろう。……永遠に埋まることの無い二人の部屋を見る度に。


 空き家にする手もあったが……他の誰かが住むのは想い出が穢される気がした。


 そして、家の外に出た俺は、精神を集中し、習熟マスターした数少ない魔法の一つ、火球ファイヤ・ボールを掌に出した。
 コレを覚えたのはずっとずっと子供の頃で、一番最初に覚えた魔法だった。
 それは真冬の早朝で、炊事をする母さんのために、暖炉に火を灯すためだったのに……。



 ――こんなことのために覚えたわけじゃないッ……!



 ギリッと歯を食い縛り、俺は苛立ちを込めた火球ファイヤ・ボールを投げた。



 小さな灯火に過ぎなかった火種は、蒔肥たる木家を喰らい、肥大化していった。



 暫く、俺は炎に包まれる家を眺めていた。
 しかし、いつまでもそうしているわけには行かない。
 夜闇にこの燃える家は良く目立つ。麓の街に住む友達が気付く可能性がある。




 今、会ったら……――きっと、ここに残りたくなる。




 だから、俺は燃える家に背を向けた。
 未練がましく何度も振り返るんじゃないかと、一歩踏み出す前に俯き、考えた。
 しかし、顔を上げ歩き始めると、次の足も、その次の足も、そのまた次の足も踏み出すことができた。
 そして、家が燃え落ち、木材の引き止めるような轟音にも、振り返ることはおろか、足を止めることすらなかった。


 ――誰かに背中を押されるように。俺は歩みを止めなかった。


 朝が来て、自分が居る所が家じゃないことに気付いて、漸く実感してしまった。







 母さんの死が、燃え落ちる家が……辛くとも覚める悪夢じゃなく、覚めることのない非情な現実だと。
 ――冷たいモノが俺の頬を伝った……。





 それは太陽が最も空高くなる頃のこと。
 その場所はどの森にもあるようで、しかし、少々不思議な感じのする場所だった。
 大樹が一本、草原の真ん中で威厳を発するかのように雄々しく立っており、その木を中心に雑草が広がり、そして、少し離れたからまた木が鬱蒼と繁ってい る。
 その光景はまるで他の木が雄雄しい巨木を神聖なもの、偉大な王としているかのように見えた。
 巨木で翼を休める小鳥達が美しくさえずり、草や木の葉が穏やかな風と共に合わせるようにざわめく。

 安息の眠りを誘うように、サラサラと。
 旅人に休息を勧めるように、ザワザワと。

 風になびき、木の葉が数枚散る。
 そのうちの一枚が、大樹の下影で頭の後ろで手を組み、寝転ぶ男の鼻に乗る。
 むずかるように声を漏らしながら、男は緑葉を払いのけ、ごろりと寝返りを一つ打った。
 男の歳の瀬は、容姿からすると少年と青年の中間のように見えた。胸と肩を守る黒色の革製鎧レザーアマーを身に着け、その傍には刀と色褪せた合切袋が転がっている。顔立ちは端整だが、眠っているその表情は実年齢よりも幼く見せた。口端から一筋、涎が見受けられればそれも仕方の無い。
 彼の名は相沢あいざわ 祐一ゆういち。――父の死の真相を求める者。

「・・・ん」

 眉を少し歪め、声を漏らす祐一。
 次の瞬間、先程まで美しくさえずっていた小鳥達が一斉に早々と飛び立っていた。
 祐一は目を瞑ったまま、大きな欠伸一つと背伸びをした後、出てきた涙を指で拭き、ついでに涎も腕で拭いて、むくりと上半身を起こす。
 そして、頭を右手で掻きながら、左手で地面をまさぐって、刀を手にする。

 刀の銘は“夜露よつゆ”、不本意ながら自分の物になってしまった父の形見。

「よいしょ……っと」

 刀を杖代わりにして、その場に立ち上がり、目を開く。そこに先程までの幼さは無い。
 鋭利に研ぎ澄まされたそれは、戦士の瞳だった。
 意識は先程まで寝ていたとは思えないくらい明瞭としているようだった。
 彼自身、寝つきは良い方であり、起きるのも早いと自負している。

「出てこいよ……そこにいるんだろ?」

 祐一は別段、凄むことなく言った。
 左手にある夜露の柄を右手で握って、本身を抜く。鞘はその辺りに捨て置く。しかし、特に構えることはなく、自然体だ。
 奇襲の意味を失ったからか、祐一の言葉を切欠に狼のような毛の黒い動物が、茂みの中から威嚇するように唸り声を上げて、姿を現す。
 右方、左方、正面で計三匹。大樹を背にした祐一に逃げ道はない。
 祐一はその動物、いや、その生き物を知っていた。

 魔狼ヘルハウンド、それがその生き物の名。
 彼等は獰猛で食欲が旺盛な種族とされている。
 食欲があるのは良い事だ、と祐一は思う。食こそが気力と体力の源というのはいつの時代もどんな生き物も変わらない。
 ただ旅人たる祐一にとって、問題なのは彼等が人肉を好むという事だ。

「ったく、俺が何か不快になることでもしたのか?」

 目は警戒したままに、祐一はげんなりと溜め息混じりに言う。
 しかし、人語を解さぬそれらはただ牙を剥き出しに涎を垂らして、唸り声を上げている。
 何が不愉快なのか、眉間に皺を寄せて、睨みつけてくる。紅い瞳が、更に凶暴性を窺わせた。
 魔物は総じて瞳の色が紅い。――鮮血の色をそのまま写し取ったような真紅。

 何故、魔物全ての瞳が紅いのか祐一は知らない。知る必要もないと思っている。
 瞳が紅い生き物は魔物。大抵は非協力的で獰悪。よって危険。
 旅の危険を減らすためにはそれだけの予備知識があれば祐一には十分だった。

「(今日は厄日か……?)」

 祐一は心の中でも溜め息を吐き、肩を落とした。

「「ガゥウウゥ!」」

 突如として、左方と右方、そして前方で様子を伺っていた魔狼三匹全てが祐一に向かって走り出していた。
 己が不運に呆れた祐一を、隙ありと見たようだった。
 しかし、彼らももう少し考えるべき、いや、本能で悟るべきだったろう。
 戦士の中には不要な威圧感プレッシャーかけぬため、あるいは敵に対し、油断を誘うために敢えて実力を隠 す者がいる事に……。
 そして、祐一はその前者に属する事を魔狼達は知らなかった。

「やれやれ……」

 祐一は刀を持った右手を不意に真上に突き上げた・・・・・・・・
 頭上から、黒い何かが、折れた小枝もろとも落ちてくる。

 ――魔狼だった。眉間には刀が埋められている。

 姿を現した三匹は偽装、囮。木々に隠れていた魔狼が真の奇襲役。

 ――祐一はそれらを見抜いていた。

 そして、祐一は彼等の予定通り、殺されるつもりはなかった。
 魔狼一匹を串刺しのまま、素早く右方の魔狼へ向き直り、

「ッラァ!!」

 刀を振り下ろす。
 突き刺さっていた死骸が、凄まじい勢いで抜け飛び、魔狼に激突し、下敷きにする。
 それを見るまでも無く、再び振り向くと、左方の魔狼の牙が間近に迫っていた。

「チッ!」

 空いている左手で、咄嗟に魔狼の前足を掴み、棍棒のように振るって、正面の魔狼を殴りつける。
 正面の魔狼は悲鳴らしき鳴き声を上げ、引っくり返りながら、すっ飛ぶ。
 魔狼の前足を掴んだまま祐一は、遠心力を殺さずにそのままグルッと回転して、大樹の幹にその背をぶつける。
 ドシンッ!と大樹が揺れ、緑の葉が数枚舞う。
 鈍い感触が手に伝わる。――骨の砕ける感触。

「じゃあな」

 祐一とて、己の命を狙うモノを許すほど、無制限な慈悲心は持ち合わせてはいない。
 ヒクヒクと吐瀉物をブチ撒け、痙攣して横たわる魔狼にトドメの刃を突き立て、引き抜くと走り出す。
 正面の魔狼が、よろめきながら立ち上がりつつあった。
 祐一は、左手に火球ファイヤ・ボールを生み出そうと念ずるが、山火事になることが脳裏を過ぎると、中止して、全力で地を蹴った。
 産まれ立ての子馬のように立ち上がった魔狼の鼻っ柱を、石ころでも蹴り飛ばすように蹴り上げる。
 喰らった魔狼は宙に斜線を描き、木に激突することで止まる。
 木からずり落ちていく姿に、追い縋り、袈裟斬りを繰り出す。

 ――剣閃が、魔狼を、そして、木の幹を通過する。

 ミシミシと軋みを上げて、木が一本倒れるのとともに、その命が潰えた。

「(後、一匹ッ!)」

 右方の魔狼は漸く、下敷きにされた仲間の死骸から抜け出し、立ち上がった。
 頭を振っている様からして、気絶していたらしい。
 魔狼も、祐一に気付き、両者の瞳が合う。

「……」

 祐一は、何も言わず、ただ瞳に殺気を込める。しかし、その場から動くことはない。

 ――これ以上関われば、殺す……。

 意思疎通はできなくとも、その意思表示だけは伝える。
 最後の一匹となった魔狼は、祐一の目にビクッと一つ震えると、ジリジリと数歩後退り、背を向けて走り去った。
 戦意を失った相手を追いかけて殺すほど、祐一は悪趣味でもない。

「ったく……」

 祐一は一人ごちると、刀を一振りし、振りの勢いで血を払う。
 普通、それだけでは血糊や脂は完全に取れないものだが、相手が魔族である場合は違う。
 宙を舞う赤い血は風化するように黒く薄い瘡蓋のような塊になり、風に乗る中、粉とも砂とも灰ともつかぬ物体となって消え去った。服や顔に付着した血もま た同じように剥がれ落ち、消えた。
 今しがた死した三匹の魔狼の死体も同様に黒い灰となり、風に乗って消えていた。

 ――魔族は、死ねば何も残らない。
 ただ黒灰となり、自然によって循環の一部となる。

 それはこの世界の常識ともされることだった。

「……仕方ない、先急ぐか」

 諦めるような溜め息を一つ吐く祐一。
 寝起きがいいせいか、一度完全に起きるとすぐに寝れない体質でもあった。
 加えて、さっきの戦いで精神が昂ぶりすぎていた。……こんな状態では寝ることなど不可能だ。
 祐一は、投げ捨てた鞘を拾い、本身を納め、更に剣帯の右腰側に足金物で結びつける。
 そして、地面に転がっている合切袋の紐を、左手に巻きつけ、肩に担ぐ。

「(……行くか)」

 そう、心に呟き、再び歩きだした。




彼は歩むことを止めない。

目的地は、最後に父親の遺体があった都。

雪化粧の王都“ユーフォルビア”




――“宿命”の糸による“運命”が静かに紡がれ始めた――





 じゅげむの後書き

 どうも、初めまして、読者の皆様。作者こと“じゅげむ”と言います。
 処女作なもので至らぬ点も多いかと思いますが、今後とも、宜しくお願いします。m(_ _)m
 最終目標は勿論、「作品の完結」です。
 が、ひとまずの目標は「名前を付けて保存or対象をファイルに保存」されることでしょうか?(^^;;)
 感想、誤字脱字報告などがあれば、メールまたは掲示板などでお知らせ下さい。